藤ノ木神社は、栗林町にあります。上は拝殿かと思われます。
裏に回ると本殿が見えました。
『香川県神社誌』によると
創祀不詳。古くは香川郡上ノ村字深田(楠上町)に鎮座せしが、明治十三年七月二十三日現地に遷座の上社殿を改築す。
楠上町とはいえば、楠川神社のある地区である。そこからやってきたらしい。なぜだろう……
というより、びっくりしたのは、本殿近くに、これが立てかけてあったことであった。
首を横に傾けて読んでみると、これは、例の松平頼重(水戸黄門の兄で、生駒騒動のあとの高松城主)のお母さん(久昌院)を弔った法華経のお寺の案内板である。――お袖狸を一緒にまつってあると書いてある。なんでここにあるのだろうと思って、横の草むらをみたら
お袖……がいた
恥ずかしながら知らなかったので、調べてみたら、中野天満宮の近くにちゃんとこのお寺(廣昌寺)はあるようだ。そこにちゃんとお袖狸もあり、案内板も建っている。http://jaimelamusique.blog.fc2.com/blog-entry-571.html 今はないのであろうか?今度行って確かめなくては……
それにしても、お袖狸がなぜ?お袖は、松山市役所の前にいるのではなかったのか?
「小幟や狸を祀る枯れ榎」
「餅あげて狸を祀る古榎、紙の幟に春雨ぞ降る」
「百歳の狸住むてふ八股のちまたの榎いまありやなしや」
以上は子規の作品であるが、なにか彼の合理主義のイヤミがいやだ。もっとも、このお袖は、松山の「坊っちゃん」にでてくるアホ学生のなれの果てであろうお馬鹿が、昭和九年頃、伊予鉄道の工事を拡張して、お袖の住処である榎の木を切り倒そうとしたところ、工事関係者が次々に病気になったり怪我をし続けたのである。
http://home.e-catv.ne.jp/ja5dlg/tanukikai/osode/osode3.htm
によると、「堀之内の連隊営所から見ていた憲兵隊が、狸の崇りなどとは片腹いたい、日本軍人の名誉と沽券にかけても伐り倒して見せんずと買うて出たが、これまた木から落ちたり片腹どころか両腹まで痛み出す兵隊が続出して手を引いてしま」ったらしいのである。お袖恐るべし。たぶん、憲兵隊の朝食に糞でも入れたのではないか。そのあと、松山を去ったお袖であったが、昭和二〇年春、戦争に負ける頃であろうか、神も仏もない単なる地獄絵図があちこちで展開されているなか、伊予大井(今の大西)駅に美しい女学生が降り立った。お袖であった。その頃の女子学生といえば、茨木のり子さんのように、
わたしが一番きれいだったとき
わたしの頭はからっぽで
わたしの心はかたくなで
手足ばかりが栗色に光った
わたしが一番きれいだったとき
わたしの国は戦争で負けた
そんな馬鹿なことってあるものか
ブラウスの腕をまくり卑屈な町をのし歩いた
みたいな感じだったのであった。それに対して、お袖の色っぽさは、見た人が一瞬でお狸お袖と分かる程だったのである。人々は、伊予大井駅の近くの山の明堂院に殺到した。
……と想像したのであるが、どうやら、その女学生が伊予大井駅に降り立ったのは、松山を追い出されてすぐのことらしい。満州事変、五・一五、恐慌、そういえば一時期カタルーニャ州はこの時期に独立している。まもなく二・二六事件であるが、そんな中で、美しい少女が駅に降り立った。お袖であった。その頃の少女と言えば、男と戦艦に乗って闘うみたいな小説もあるにはあったが、
「まあ、おひとが悪いのねえ。」少女は、酒でほんのり赤らんでいる頬をいっそう赤らめた。「私も馬鹿だわねえ。ひとめ見て、すぐ判らなけれあ、いけない筈なのに。でも、お写真より、ずっと若くて、お綺麗なんだもの。あなたは美男子よ。いいお顔だわ。きのうおいでになったとき、私、すぐ。」
「よせ、よせ。僕におだては、きかないよ。」
「あら、ほんと。ほんとうよ。」
「君は酔っぱらってるね。」
「ええ、酔っぱらってるの。そして、もっと、酔っぱらうの。もっともっと酔っぱらうの。けいちゃあん。」他のお客とふざけている日本髪の少女を呼んだ。「ウイスキイお二つ。私、今晩酔っぱらうのよ。うれしいことがあるんだもの。ええ、酔っぱらうの。死ぬほど酔っぱらうの。」
太宰治は、危機的な時代の空気を思い切り吸い込まざるを得ない状況にあった。「死ぬほど酔っ払うの」にも思想を感じるほどの状況である。よって、当時の農民たちも、お袖の色っぽさは、見た人が一瞬でお狸お袖と分かった。人々は、伊予大井駅の近くの山の明堂院に殺到した。一年後、たぶん松山のアホ学生のなれの果ての陰謀であろうが、お袖は松山に帰ったということである。しかし、果たしてそうであろうか。お袖は、松山ではなく、高松に来ていたのである。
そして、なぜか今は、藤ノ木神社の横に仁王立ち。