林町。例の空港跡地である。
岩田神社は、『香川県神社誌』には結構立派な写真が残っているが、陸軍の飛行場建設で跡形もなくなった。この神社はその跡地でもある。神社の正面にこの碑が建っていて、鑿井水神社は境内社扱いである。この碑の文章が、こういうものとしては、珍しく恨み骨髄に徹していて素晴らしい。
この碑によると、この神社にも観賢僧正が絡んでいたようだ。
醍醐天皇の時に疫病がはやった。観賢僧正が岩田大神の御神聴に感応し三密の法を修めて祈願したら疫病が去ったというのである。で、「蓮華三昧院吉国寺」を建て、岩田神社を併せて勧進したと。それ以来豪士達の力もあってちゃんとした社殿神威の結構が整っておった。
廃仏毀釈で吉国寺は廃寺になったが、国運もよくなり「社運も進み、神域の緑は千年の緑を濃くした」
「が、昭和一九年一月突然陸軍省より林村を主に軍用飛行場設置の通達を受け関係地区の人家参百余と共に全て立ち退きを強制され岩田神社も昭和一九年三月二十一日夜上林の拝師神社と共に六条鹿島宮に遷宮し、昭和二三年一二月三日正式に合祀して三宮神社を創建した 以来、半世紀が経過し当時の森厳なる神社の偉容も千年の歴史を語る鎮守の森もなく、月日の経過とともにすべてが忘れ去られる景況にある」
いままで見たなかでは、神仏習合から廃仏毀釈、近代戦争による災難をちゃんと書いている点で一番ここがすごい。三月二一日の夜、泣いた人がいたということだ。――人間ひどいに目に遭わないとちゃんと物事を記そうとは思わないのであろう。ただ、ひどいことがあると、もっとひどいことを忘れるというのも常で、それは碑の仕事ではなく文学の仕事であろう。
戦後、陸軍飛行場の一部が開放され、立ち退きさせられた農民達が帰農組合を結成し、昭和二三年には鑿井が香川県開拓課などの援助によってなされたらしい。ようやく米を作れるようになったのである。そして組合が創ったのが、この神社。三宮神社に移動していた祠を発見、ここに持ってきたのである。
岩田神社は、『香川県神社誌』には結構立派な写真が残っているが、陸軍の飛行場建設で跡形もなくなった。この神社はその跡地でもある。神社の正面にこの碑が建っていて、鑿井水神社は境内社扱いである。この碑の文章が、こういうものとしては、珍しく恨み骨髄に徹していて素晴らしい。
この碑によると、この神社にも観賢僧正が絡んでいたようだ。
醍醐天皇の時に疫病がはやった。観賢僧正が岩田大神の御神聴に感応し三密の法を修めて祈願したら疫病が去ったというのである。で、「蓮華三昧院吉国寺」を建て、岩田神社を併せて勧進したと。それ以来豪士達の力もあってちゃんとした社殿神威の結構が整っておった。
廃仏毀釈で吉国寺は廃寺になったが、国運もよくなり「社運も進み、神域の緑は千年の緑を濃くした」
「が、昭和一九年一月突然陸軍省より林村を主に軍用飛行場設置の通達を受け関係地区の人家参百余と共に全て立ち退きを強制され岩田神社も昭和一九年三月二十一日夜上林の拝師神社と共に六条鹿島宮に遷宮し、昭和二三年一二月三日正式に合祀して三宮神社を創建した 以来、半世紀が経過し当時の森厳なる神社の偉容も千年の歴史を語る鎮守の森もなく、月日の経過とともにすべてが忘れ去られる景況にある」
いままで見たなかでは、神仏習合から廃仏毀釈、近代戦争による災難をちゃんと書いている点で一番ここがすごい。三月二一日の夜、泣いた人がいたということだ。――人間ひどいに目に遭わないとちゃんと物事を記そうとは思わないのであろう。ただ、ひどいことがあると、もっとひどいことを忘れるというのも常で、それは碑の仕事ではなく文学の仕事であろう。
戦後、陸軍飛行場の一部が開放され、立ち退きさせられた農民達が帰農組合を結成し、昭和二三年には鑿井が香川県開拓課などの援助によってなされたらしい。ようやく米を作れるようになったのである。そして組合が創ったのが、この神社。三宮神社に移動していた祠を発見、ここに持ってきたのである。