たとへば猛火の夥しう燃えたるに車の主もなきを門の内へ遣り入れたり、二位殿夢の心に、あれは何処よりぞ、と問ひ給へば、閻魔王宮より平家太政入道殿の御迎に参つて候ふ、と申す、車の前後に立つたる者共は或いは牛の面のやうなる者もあり或いは烏の面のやうなる者もあり
清盛の北の方が見た夢は恐ろしいものであった。「たとへば」というから、本当はもっと口に出していえないものを見ているはずである。ここでは燃えさかる車が家にやってくる。聞くと、閻魔王宮からの迎えであった。牛や烏の顔をしたものが車についている。これらは地獄で人々を責める牛頭馬頭とはちょっと違い、「面」なので、もっとウムハイムリッヒなものだ。いつもの馭者たちが牛や烏に入れ替わってしまった恐怖なのである。
車の前には、無、といふ文字ばかり顕れたる鉄の札をぞ立てたりける、二位殿、さてその札は何の札ぞ、と宣へば、南閻浮提金銅十六丈の盧遮那仏焼き滅ぼし給へる罪によつて無間の底に沈み給ふべき、由閻魔の庁に御定め候ふが無間の、無、をば書かれたれども未だ、間、の字をば書かれぬなり、とぞ申しける
無間地獄に行く途中だからまだ「間」を書かなかったのか、面倒だったのか知らないが、ここは面白い記述である。
この部屋で正気を回復すると同時に、ホッとする間もなく、襲いかかって来た自己忘却の無間地獄……何の反響も無い……聞ゆるものは時計の音ばかり……。
……と思う間もなくどこの何者とも知れない女性の叫びに苛責なまれ初めた絶体絶命の活地獄……この世の事とも思われぬほど深刻な悲恋を、救うことも、逃げる事も出来ない永劫の苛責……。
――夢野久作「ドグラ・マグラ」
思うに、上の自己忘却のお人ととか、「セヴンティーン」の主人公は無や虚無が怖かったのであるが、現代人はこれだからイカンのだ。無とは自分が亡くなってしまうようなものではない。あるいは無の境地の如き者ではない。間が「無い」という――否定でしか存在が許されないようなものであった。間断なく続く責め苦のようなものが「無」の存在を示している。光源氏のように、記述がない如く死ぬことは許されない。これでもかという苦が無なのであり、北の方のような清盛の周りにまで地獄の無は広がっているわけである。
もっとも清盛だって、盧舎那仏をありがたがっている生臭坊主どもが武器をちらつかせていることが問題だったことはよく知っていた訳であって、たぶん彼を描き出すことはすごく難しい作業なのである。「平家物語」はどうせそれを大衆芸術にせざるを得なかったわけである。大衆に分からせようとすると碌なことはないというのは真理である。分かる努力が必要なのは芸術家の方である。