★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

白隠をまねてみた

2024-12-27 23:47:37 | 文学


ぽかんと部屋へ帰ると、なるほど奇麗に掃除がしてある。ちょっと気がかりだから、念のため戸棚をあけて見る。下には小さな用箪笥が見える。上から友禅の扱帯が半分垂れかかって、いるのは、誰か衣類でも取り出して急いで、出て行ったものと解釈が出来る。扱帯の上部はなまめかしい衣裳の間にかくれて先は見えない。片側には書物が少々詰めてある。一番上に白隠和尚の遠良天釜と、伊勢物語の一巻が並んでる。昨夕のうつつは事実かも知れないと思った。
 何気なく座布団の上へ坐ると、唐木の机の上に例の写生帖が、鉛筆を挟んだまま、大事そうにあけてある。夢中に書き流した句を、朝見たらどんな具合だろうと手に取る。
「海棠の露をふるふや物狂」の下にだれだか「海棠の露をふるふや朝烏」とかいたものがある。


――「草枕」


実践的と称する研究が想像以上に具体的でないのは、研究者がさぼっているというより、具体的なものはむしろ上のような思弁の中にあるからだ。単なるイスとかタブレットが具体的なわけではない。もちろん、実践的をうたう研究のいくらかは、理念にあわせた「事実」を集めているに過ぎない。一部があってるから有効性が一部あるのではない。単なる実証の誤りである。

我々にとっての実践とは、理論の実践という実験の中にではなく、単に読まれることに因って起こる。文学とか歴史とか研究が存在しているだけでなく読まれることで大変効果があると私がおもうのは、小学校高学年の頃に思春期についての作品や研究をたくさん読んだために、自分の思春期は比較的心おだやかであったような気がするからである。結果どうなるか推測される場合、人間あまりいきり立たない。そして、そのためにか、ある意味思春期以降どことなく死んでる気がするのも確かである。偶然、小学校時代はあった喘息がほぼおさまったので、穏やかになった気もしたこともある。また、小さい頃病気がちな人は病気の緊張感にノスタルジアを覚えたりもするから、それもあるかもしれない。つまり、わたくしは読まれることに因る効果がいずれ懐疑にゆきつくことを言って居るのである。

しかし、こんな事情よりも、記号の呪術的作用は大きい。それを疑わしむる大きさを持つものである。

例えば、幼稚な例であると、クリスマスや正月にならないとコミュニケーション能力が発動しない輩と、おれは制度には縛られないぜとずっといっしょの輩と、どちらが記号に反応する文化的人種なのかと言えば前者なのである。記号に縛られない輩は動物化するにきまっている。

つまり、懐疑は意識以上のものである。例えば、面従腹背みたいな実践化した言葉がある。普段からそれを実践していると、正論を吐いてやるぜみたいな局面でもやはりどこかで面従腹背しているのを美事に忘れる、というありふれた風景がそこここで展開されている。よくみると弱いもものたちに正論を言っているにすぎない。

すると石の下から斜に自分の方へ向いて青い茎が伸びて来た。見る間に長くなってちょうど自分の胸のあたりまで来て留まった。と思うと、すらりと揺ぐ茎の頂に、心持首を傾けていた細長い一輪の蕾が、ふっくらと弁を開いた。真白な百合が鼻の先で骨に徹えるほど匂った。そこへ遥の上から、ぽたりと露が落ちたので、花は自分の重みでふらふらと動いた。自分は首を前へ出して冷たい露の滴る、白い花弁に接吻した。自分が百合から顔を離す拍子に思わず、遠い空を見たら、暁の星がたった一つ瞬いていた。
「百年はもう来ていたんだな」とこの時始めて気がついた。


漱石が「百年はもう来ていたんだな」と言うのは、百年死んでいたんだな、みたいなのに近い。人生百年時代でようやく実感として実証されるぞ。漱石は、百合は百年という記号で半身奪われている。記号への信仰と懐疑はかくも意識には登らず、百年ぐらいではどうにもならないのであった。


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