★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

さるべきもののさとしか

2021-01-23 22:03:31 | 文学


また、治承四年四月のころ、中御門京極のほどより、大きなる辻風おこりて、六条わたりまで吹けること侍りき。三、四町を吹きまくる間に、こもれる家ども、大きなるも、小さきも、ひとつとして破れざるはなし。さながら平に倒れたるもあり、桁柱ばかり残れるもあり、門を吹き放ちて四、五町がほかに置き、また垣を吹き払ひて隣とひとつになせり。いはむや、家のうちの資材、数を尽して空にあり。檜皮、葺板のたぐひ、冬の木の葉の風に乱るるがごとし。塵を煙のごとく吹き立てたれば、すべて目も見えず。おびたたしく鳴りとよむほどに、もの言ふ声も聞こえず。かの地獄の業の風なりとも、かばかりにこそはとぞおぼゆる。家の損亡せるのみにあらず、これを取り繕ふ間に、身を損なふ人、数も知らず。この風、未の方に移りゆきて、多くの人の嘆きなせり。辻風は常に吹くものなれど、かかる事やある。ただ事にあらず、さるべきもののさとしかなどぞ、疑ひ侍りし。

地獄は名指されているのに、「さるべきもののさとし」では「もの」としか言われておらず、決して神仏ではない。地獄には神仏ではなく「もの」によってもたらされるのだ。なるほど、鴨長明の視線は、吹き飛ぶ「もの」たちの具体的な様子に向けられている。「目も見えず。おびただしく鳴りとよむほどに、もの言ふ声も聞こえず」なのである。「目」でみえるもの、「もの言う」を、音が消し去る。ものが力としての物質と化した世界である。だから、この世界は「もの」の「さとし」なのである。

何故かと云うと、この二三年、京都には、地震とか辻風とか火事とか饑饉とか云う災がつづいて起った。そこで洛中のさびれ方は一通りではない。旧記によると、仏像や仏具を打砕いて、その丹がついたり、金銀の箔がついたりした木を、路ばたにつみ重ねて、薪の料に売っていたと云う事である。

――「羅生門」


芥川龍之介は物の変容に気をとられている。とはいっても、彼も次第に物から諭しが発せられているような気分になっていった。

幼稚園の頃、お祭りの天狗に話しかけられて非常に怖ろしかったのだが、その似た感覚をロボコンやウルトラマンにも覚えたものだ。いま、エイリアンを観てうきうきしているわたくしにとって――思うに、本当に天狗の仮面をつけた人間の方が怖ろしいものなのである。そこには二つの顔があって、外側の仮面の顔が物質であるのはもちろん、裏の顔すらも物質性を帯びているのである。そのことによって、逆にその物質からは「もののさとし」が生じている。


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