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「あな、むくつけ。こは、誰そ」とのたまへど、
「何か、疎ましき」とて、
深き夜のあはれを知るも入る月の朧ろけならぬ契りとぞ思ふ
とて、やをら抱き下ろして、戸は押し立てつ。あさましきにあきれたるさま、いとなつかしうをかしげなり。わななくわななく、
「ここに、人」
と、のたまへど、
「まろは、皆人に許されたれば、召し寄せたりとも、なんでふことかあらむ。ただ、忍びてこそ」
ここだけ読むと、何か犯罪映画の一シーンのようだが、「朧月夜の君」との密会の場面である。朧月夜の興趣を共有するなんて――なんという前世からの契り、などといつもの調子で自分の腕の中に引きずり込んだ相手は、右大臣の娘――政敵の弘徽殿の女御の妹であった。そりゃまあ、舞台が舞台なのでこういう話は必然であったような気もするのであるが、――思うに、紫式部ははやくも書くことがなくなってきていたのではと疑われる。ただ、書くことがでてきた人になるとこうなる。
「いろいろごやっかいになりまして、……ではごきげんよう」と丁寧にお辞儀をした。三四郎は鞄と傘を片手に持ったまま、あいた手で例の古帽子を取って、ただ一言、
「さよなら」と言った。女はその顔をじっとながめていた、が、やがておちついた調子で、
「あなたはよっぽど度胸のないかたですね」と言って、にやりと笑った。三四郎はプラットフォームの上へはじき出されたような心持ちがした。
この迷える子羊が朧月夜がなんたらという実践力をそなえた場合どうなるか。いうまでもなく、ドストエフスキーの描くテロリストになるわけである。冗談のようであるが、やたら歴史を弁証法的に統一して何かをしようとするときの危険性はこういうところからも察せられる。知に立脚するときの注意点はこういうところにもある。