境内社が沢山の清水神社であります。
拝殿の左側には、すぐさまこれ。
皇太子、雅子妃ご成婚記念の玉垣のなかには
「開運碑」
併せて「しあわせの泉」なるものがあるが、この水の中にはなんだか犍陀多がいる気がする。確かに、暗鬱なるもののなかに安楽もありますよね……
「天神社」。
鳥居が素晴らしい。
詳細は不明だが、徳島にいくつか天神社というのがあって道真を祀ったものなので実質天満宮である。これはどうなのか……分からない。燈籠には、慶応元年とあった。
これは明らかに「金刀比羅社」。御大典記念(昭和三年)の碑もあった。
左側にある玉垣の部分がたぶん「玉取龍」(内伝秀蔵作)だろう。龍の住むという由良山……。
私が頭をぶつけそうになる小さな鳥居。
正面にあるからたぶんこれが金刀比羅社……
詳細は分からないが、案内板の記述から推測するに、左手が「歓喜天」、金刀比羅宮を挟んで「弁財天童子」や「不老長寿祈願之神」かな?最後の二対の神社の左側は「天之吹男神」であろうか。イザナギとイザナミとの子で屋根の神様ですね……右側は「雨之……」とみえる。アマノなんとかは沢山いるから分からんね……
いや「歓喜天」があるのがすごいなあ
そしてこちらが、清水神社といえば必ず言及される「甕塚」です。この神社、「雨乞いの神さん」と呼ばれているのであるが、そこには恐ろしいお話が……
高松市教育委員会による案内 https://www.city.takamatsu.kagawa.jp/6138.html に依れば、
「清水神社は由良山を背にした社である。祭神は景行天皇の皇子の神櫛王で、社伝では、祭神の後孫が甕12口の神酒を奉奠したとされる。」
この景行天皇の息子の墓は、牟礼にある。この人は瀬戸内海の悪いお魚を退治した伝説があるお人で、瀬戸内海の島の海賊をやっつけたり征服したことがあったのかもしれない。それはともかく、子孫がお酒をくれたそうなのであった。
「清水神社の別当寺の自性院の記録によれば、承和8年(841)は大旱魃で、国司の命により空海の弟の真雅によって雨乞いを行うことになった。」
ここでお大師様(の弟)!出現!
「雨乞い神事の際に神櫛王ゆかりの甕を使って祈ったところ大成功したといわれる。」
この前も、観賢和尚がなにか神事と合体したエピソードがあった気がする……
「その後、天正年間(1573~92)に長宗我部元親の兵火にあい、神櫛王ゆかりの者が酒を醸していた甕12個のうち3個を残して社殿は焼失した。」
長宗我部、またお前かっ、という感じであるが、仏教も神道もモノともしないその主体性、文科省推奨のアクティブラーニングでも受けて育ったのであろうか!!
「残った3個の甕を里人たちは大切にお守りしていたが、今度は風水害にあって1個を破損してしまった。」
あー、高松も少しは雨が降るんだよ。油断したなあ~
「残った2個の甕を本殿南側の甕塚に納め、再建した清水神社の本殿床下に破損した甕を埋めた。江戸時代には高松藩の社寺で祈祷をしても雨が降らないときに清水神社で雨乞いをしたとされる。雨乞いの際に、上御盥、中御盥、下御盥から神水を取り、甕を洗えば必ず雨を得たが、甕を洗ったものは必ず亡くなるという伝承がある。」
甕塚の南側には、寛政二年の詳細な経緯を記した碑があって、七日間祈っても全く降らないので甕洗いをしたらいきなり降った。で、その神威に報いるため玉垣を造ったなどと書いてある。――とかなんとかはどうでもいいのだ。――突然おそろしい話がくっついているではないか。本当は誰かいたいけな少女などを★柱にしてたのではなかろうか。聞いたところによると、ここの雨乞いは百発百中である代わりに人が死ぬので最後の手段だったとか。しかし、まあ、話が面白すぎるのが気になりますね。教育委員会が昨年度末に出した報告書には、屋島や他にも似たような伝説があるなどと記されている。……いずれにせよ、早明浦ダムの方がやっぱ良い。近代科学文明万歳!
「平成24年の神事に際し甕を発掘したところ、2区画に分かれた竪穴の石室を検出し、それぞれから甕が出土した。いずれも7世紀の須恵器で、復元できた南側の甕は器高107.6センチ、胴部最大径95センチを測る。甕は神事後再び甕塚に埋納されている。」
おおっ、七世紀に景行天皇の子孫がいたということであろうか?まあ、いてもいなくてもいいのであるが……。というより、むしろ注目すべきは、この『雨乞い神事』が昭和十九年まで行われていたことの方であろう。(塚の近くにあった「雨乞い神事」の碑より)甕を洗った記録まで碑になっていたが、そのなかで明治八年八月の記録がある。この大干魃の時には、「大いに霊験を蒙りたり」と『香川県神社誌』に書いてあった『神社誌』が書かれた頃は、まだ現役の方法だったのである。
塚の囲む垣にすごくいい彫刻があった。
「祭神「水汲女」は水の神「龍神」であるから、この社には石に刻まれた龍の彫刻が多い。しかし、何れも風化が強い。寄進者の久保良輔の名前から江戸末期の作品と考えられる。甕塚を巡る玉垣の中に剣に龍が巻きついた彫刻のある石柱は元来は本殿北側最内側に立っていたのであるがこれも風化が強い。この像は、「倶利迦羅龍王」の彫像で、剣に龍が巻きつく姿は「密教事典」によれば、外道を意味する剣を仏教の守護神である明王が蛇身となって呑まんとしているところである。(『川島町史』)
この神社は、今まで見てきた神社の中じゃずば抜けて習合時代のおどろおどろしさを残しているわな……。神社というのは今我々が思うよりはもう少し恐ろしい場所であったのではなかろうか。
拝殿の左側には、すぐさまこれ。
皇太子、雅子妃ご成婚記念の玉垣のなかには
「開運碑」
併せて「しあわせの泉」なるものがあるが、この水の中にはなんだか犍陀多がいる気がする。確かに、暗鬱なるもののなかに安楽もありますよね……
「天神社」。
鳥居が素晴らしい。
詳細は不明だが、徳島にいくつか天神社というのがあって道真を祀ったものなので実質天満宮である。これはどうなのか……分からない。燈籠には、慶応元年とあった。
これは明らかに「金刀比羅社」。御大典記念(昭和三年)の碑もあった。
左側にある玉垣の部分がたぶん「玉取龍」(内伝秀蔵作)だろう。龍の住むという由良山……。
私が頭をぶつけそうになる小さな鳥居。
正面にあるからたぶんこれが金刀比羅社……
詳細は分からないが、案内板の記述から推測するに、左手が「歓喜天」、金刀比羅宮を挟んで「弁財天童子」や「不老長寿祈願之神」かな?最後の二対の神社の左側は「天之吹男神」であろうか。イザナギとイザナミとの子で屋根の神様ですね……右側は「雨之……」とみえる。アマノなんとかは沢山いるから分からんね……
いや「歓喜天」があるのがすごいなあ
そしてこちらが、清水神社といえば必ず言及される「甕塚」です。この神社、「雨乞いの神さん」と呼ばれているのであるが、そこには恐ろしいお話が……
高松市教育委員会による案内 https://www.city.takamatsu.kagawa.jp/6138.html に依れば、
「清水神社は由良山を背にした社である。祭神は景行天皇の皇子の神櫛王で、社伝では、祭神の後孫が甕12口の神酒を奉奠したとされる。」
この景行天皇の息子の墓は、牟礼にある。この人は瀬戸内海の悪いお魚を退治した伝説があるお人で、瀬戸内海の島の海賊をやっつけたり征服したことがあったのかもしれない。それはともかく、子孫がお酒をくれたそうなのであった。
「清水神社の別当寺の自性院の記録によれば、承和8年(841)は大旱魃で、国司の命により空海の弟の真雅によって雨乞いを行うことになった。」
ここでお大師様(の弟)!出現!
「雨乞い神事の際に神櫛王ゆかりの甕を使って祈ったところ大成功したといわれる。」
この前も、観賢和尚がなにか神事と合体したエピソードがあった気がする……
「その後、天正年間(1573~92)に長宗我部元親の兵火にあい、神櫛王ゆかりの者が酒を醸していた甕12個のうち3個を残して社殿は焼失した。」
長宗我部、またお前かっ、という感じであるが、仏教も神道もモノともしないその主体性、文科省推奨のアクティブラーニングでも受けて育ったのであろうか!!
「残った3個の甕を里人たちは大切にお守りしていたが、今度は風水害にあって1個を破損してしまった。」
あー、高松も少しは雨が降るんだよ。油断したなあ~
「残った2個の甕を本殿南側の甕塚に納め、再建した清水神社の本殿床下に破損した甕を埋めた。江戸時代には高松藩の社寺で祈祷をしても雨が降らないときに清水神社で雨乞いをしたとされる。雨乞いの際に、上御盥、中御盥、下御盥から神水を取り、甕を洗えば必ず雨を得たが、甕を洗ったものは必ず亡くなるという伝承がある。」
甕塚の南側には、寛政二年の詳細な経緯を記した碑があって、七日間祈っても全く降らないので甕洗いをしたらいきなり降った。で、その神威に報いるため玉垣を造ったなどと書いてある。――とかなんとかはどうでもいいのだ。――突然おそろしい話がくっついているではないか。
「平成24年の神事に際し甕を発掘したところ、2区画に分かれた竪穴の石室を検出し、それぞれから甕が出土した。いずれも7世紀の須恵器で、復元できた南側の甕は器高107.6センチ、胴部最大径95センチを測る。甕は神事後再び甕塚に埋納されている。」
おおっ、七世紀に景行天皇の子孫がいたということであろうか?まあ、いてもいなくてもいいのであるが……。というより、むしろ注目すべきは、この『雨乞い神事』が昭和十九年まで行われていたことの方であろう。(塚の近くにあった「雨乞い神事」の碑より)甕を洗った記録まで碑になっていたが、そのなかで明治八年八月の記録がある。この大干魃の時には、「大いに霊験を蒙りたり」と『香川県神社誌』に書いてあった『神社誌』が書かれた頃は、まだ現役の方法だったのである。
塚の囲む垣にすごくいい彫刻があった。
「祭神「水汲女」は水の神「龍神」であるから、この社には石に刻まれた龍の彫刻が多い。しかし、何れも風化が強い。寄進者の久保良輔の名前から江戸末期の作品と考えられる。甕塚を巡る玉垣の中に剣に龍が巻きついた彫刻のある石柱は元来は本殿北側最内側に立っていたのであるがこれも風化が強い。この像は、「倶利迦羅龍王」の彫像で、剣に龍が巻きつく姿は「密教事典」によれば、外道を意味する剣を仏教の守護神である明王が蛇身となって呑まんとしているところである。(『川島町史』)
この神社は、今まで見てきた神社の中じゃずば抜けて習合時代のおどろおどろしさを残しているわな……。神社というのは今我々が思うよりはもう少し恐ろしい場所であったのではなかろうか。