★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

マス・コミュニケーションの消滅と学校

2024-12-07 01:42:30 | 文学


 ベルリンのオリムピックの放送で、女子平泳の予選の時、支那のヤン嬢(多分さういふ名であつたと思ふが)がひどく派手な緑の水着をきて、外の選手がみんな水へ飛び込んでウォームアップをしてゐるのに、このお嬢さんだけはどこを風が吹くかといふやうにスタート台に悠々腰を下して水面を眺めてゐるだけである。さういふ放送があつた。名放送である。どうして、かういふ事実をとらへて目のない聴衆に伝へてくれないのであらうか。

――坂口安吾「相撲の放送」


わたくしはテレビをよく見るにもかかわらず、小さいときにあまり見てないせいか、マツコや有吉が言明するような、テレビに対する愛がない。最近の番組なんかも、ドラマなどを除けばほとんど罵倒の対象に過ぎない。知識人たちはテレビはオワコンだとか言っているが、そうではなく、テレビとはマス・コミュニケーションなのだ。我々の公共性というものがオワっているのである。スマホはマス・コミュニケーションではなく、地下活動の通信である。

テレビをマス・コミュニケーションとして蘇生させるためには、批判しかない。

NHKでいうと、「サラメシ」という番組が嫌いである。まずもって、題名が嫌。こういうのが造語能力を低下させるのだ。他人の弁当を覗く趣味も嫌である。弁当自慢なんか、もうすでに多くの人には出来なくなっているではないか。子供食堂が何やらと言っているのならこういう番組を面白いとか言うのは、ダブルスタンダードなのだ。「グレーテルのかまど」は、女主人が若い奴隷男子に料理させながらからかっているような番組でとても嫌である。現実にこういう感じのやりとりがある場合、明らかな性的ないじめだと思う。竈だからいいのかというとそうでもない。いじめというのは竈みたいな感覚のもとにあるのである。人間的感覚から解離した感覚である。ヒューマニズムだけが人間的感覚だとしたらの話であるが、NHKはそういう立場を取るべきだ。チコちゃんに𠮟られる、とかも明らかないじめ番組だと思う。あれで笑っている人間の感覚が信じられん。チコちゃんは、キャラクターのふりをした鈍器ではないか。テレビが笑いに流れるときには大概暴力的である。マス・コミュニケーションは大声を出したがるのが習性だ。そうであるから、根本的に隣人に対するものであるべきである倫理には向かない。世の中いろんな人がいるもので、たとえば「バリバラ」みたいな番組からいじめの手法を学ぶ人間もいると思う。全体的な番組の雰囲気からその解釈可能性が生じているきがするが、制作者側にそれを修正出来る繊細さはおそらくない。あらためて「笑っていいとも」の邪悪性について考える時期に来ているのではなかろうか。――というか、この番組がはじまったころそういう議論があったでしょうが。タモリもたけしも文化的と言うより暴力的だったんですよ。

中山美穂が死んだらしい。――小中高とテレビをみなかったおかげで当時の芸能人が亡くなってもそれほどの打撃を被らない私であるが、思い入れがあった人たちは人生半分もがれたような気分であろう。一方で、私は幼稚園の頃から半分死んだような人生だと思っている。そういう人間も結構いるような気がするのであるのであるが、彼らには本当にテレビの世界は蜻蛉みたいなものである。だから、そういう私なんかは、死んだ誰かの志を絶やすなみたいな運動すらも、その志によってはひどいことになるのは当たり前に思えるのである。継承は基本AIみたいなものにならざるをえない。継承の意志は命令を聞く主体しか生み出さない。主人がいない人間世界である。昨日の夜の経済番組で、AIが事務仕事を代替みたいなAI擬きの主張が繰り返されていた。それにしても、「羅生門」の続きを書いてみて、――みたいな質問には頭の悪そうな答えしか出さないくせに、何故、プログラミングとかできるの?やつらは。言うまでもなく、それが下人の労働だからであろう。

だからといって、下人が容易に主人になれないのも確かである。坂口安吾は戦時中に、仏教国のくせにあんまり仏典を読める環境にないのを、戦争以前に文化がねえ、みたいなことを言ってたが、だいたいの愛国者がもっとこういうことを言ってりゃいいのに、堕落文士に言わせてるのがほんと文化がない。いや、主人がいないのである。

たぶん共同体の消滅とマス・コミュニケーションの堕落と関係があるだろうが、子供が内発的に倫理的にはならない現実にしびれを切らし、その被害者を救おうと行われているのが、例えば「内申重視」という政策である。しかしそれはおもったよりまずい結果しかもたらさない。素朴な悪人ではなく、邪悪な悪人を生産している。生き方が卑怯になるわけである。そりゃときどきいる馬鹿な教師を批判することも出来ねえんだから、そりゃねじ曲がるし卑怯にもなる。人の言うてることをまずは認めましょう、みたいな教育も、目論見とは異なり、「批判するな」というメッセージにしかなっておらず、その実態は弱い者いじめとして機能している。のみならず、内申書を成績として扱うみたいな政策は、――教師が子供に対して面と向かって倫理的行為を評価出来ず、むしろ評価すべきでない人間の行為を逆に褒めながら導くみたいなことをやらざる得ない現実、すなわち、教師の率直さと倫理的表明を奪ったとことも関係があった。内申がある意味復讐的なニュアンスを持っているのがほんとまずい。

やはり地下活動においては、リンチと陰謀が繰り返されるわけである。

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