病気に対しては彼は驚くほど敏感で、ちよつとしたことにもすつかり意気銷沈して滅入り込んでしまふ。例へば陽気の工合でほんの少し神経が脹らんだり、読書で眼が充血したりしようものなら、忽ち頭から布団を被つて、われわれが訪ねて行つても口もろくに利かないといふ有様だ。そんな時私は持前の意地悪な気持から、からかつて見たりすると、彼は軽蔑したやうな眼つきで私を眺めながら、…………
――北条民雄「人間再建」
自分のいうことのつまらなさにいつも敏感である人は少ない。小さい頃から均質性に慣らされた人間はこの敏感さを身につけられない。
自分のやってきたことには多少の埃がついている。人が触った後の場合もあるし、自分が手を加えてないものでできていることもある。だからそこに鈍感な人は自分の手柄のために人を利用しても平気である。
親が自分の子供に言っておくべきなのは、お前の話がつまらなかった場合、先生もあくびをこらえているということだ。こういうのを教えるのも教育だと思う。こういう他者性が埃や指紋に対する敏感さを生じさせる。それがない場合、その敏感だけでなく、怒りもわかないのは、鈍いどうしじゃひどいこともされないからというのはあると思う。案外、冒険に向いているのかも知れない。冒険にはかならずひどい鈍感さが必要だからである。梅崎の主人公たちは、しばしば、戦争のおかげでそういう鈍感さを強制され、我に返って感覚の洪水に襲われた。
「他の人と何か関係があると思いこむ。そこから誤解がはじまるんだ」
――梅崎春生「幻化」
「幻化」は、飛行機の窓に虫がいることに堪えきれないみたいな場面から始まる。彼は現世から急速に逃避して過去に逆行して行く。これは一種の差別主義である。部屋の中に虫がいただけでヒステリックになる人がたいがい差別主義者みたいな簡単な事態だったら楽だと思って、懐疑的になってみるのだが、はやりそういう傾向はあるような気がする。虫は、他者性とは別でそれがないからこそ嫌悪感の対象になる。しかし、これが戦争の場合、強烈に強いられたものであって、その嫌悪感は戦争が終われば消えてしまった。しかし今は違う。