ルカーチはまだマルクスの自己疎外という主張を知らなかったんです。もちろん、ヘーゲルのことは熟知してましたが、マルクスの『経済学・哲学手稿』を見ていない。だから、もっぱら対象化という概念で物象化を捉えていた。つまり例えば、労働を通じて自然を対象化するということ。自然を人間化し、技術の対象にして利用し繁栄していくわけでしょう。人間が使えるモノに万物を取り立てていくという近代の基本的な営みとして、労働の対象化を捉える。下手するとマルクス主義から離れてしまうようなコンセプトから、ルカーチは近代を定義していく。マルクス主義から見ると非常に危ない。そういうものとして私は読みました。
――「「叛乱を革命から解放する」: 長崎浩氏とのインタビュー 前半」https://platypus1917.org/project/
最近、長崎浩とか津村喬の著作が航思社のキレイな本になり、川原にシワシワになって落ちてる感じがなくなることでありがたみが減じた。まさに、「人間が使えるモノに万物を取り立てていく」みたいな感じに思えておかしいが、この運動家たちの思考というのは今考えてみると独特で、頭でも身体でもなく、体調によって考えるみたいな感じがする。
ツイッターなどにおける病――宮台真司などはそれにナルシシズムをみて批判していたと思うが、イイネ欲しい病とイイネを押したがる病とはなにか違う病のような気がしてならない。円環して一つの社会的病だというのはわかるが、どうも体調が少し良くなったからやたらイイネを押すというのはあり得る。体調が悪くなったら革命はむりだが、体調をよくしとけば自然生長も可能だというかんじである。柄谷行人も志賀直哉を「気分」の作家だと言っていたが、これだって、おなじような世界観のような気がする。
しかし、彼らはとりあえず成長を急ぐ甲斐性があった。非常にあったといってよいとおもう。
対して、最近はプロレタリアート化なのかプレカリアート化なのか知れないが、自分の実力を一顧だにせず、自己肯定という肯定、あるいは自己否定という肯定を意地でも行為として行うやつが多すぎる。うまくいったりいかなかったりするかのは、単に実力がないからである。成長する過程ではそんな両極の現象は起こりえない。そのためには他人を観察しなきゃだめだし、人のために働かなきゃいけない。宴会なんかをやれば信じがたいほどナルシスティックなやつがいる。宴会は人を楽しませるために行っているのであって、卒業論文なんかもそうである。――自分のことだけを考えると、それは自分の実力や他人との関係でできあがる何かではなく、すべてが体調や気分の問題に切り替わってゆくのである。