人のいとなみ、皆愚かなる中に、さしもあやふき京中の家をつくるとて、宝を費し、心を悩ます事は、すぐれてあぢきなくぞ侍る。
どうみても怨恨がある人間の言いぐさである。人の営みは別に皆愚かではない。わたくしは、日本人の家に対する拘りのなさ――すぐに水と火で壊れてしまうからかも知れないが――が、論理的な能力の限界をつくっているように思えてならないのだ。論理は我々の外側にある。我々の趣味を表出するのではいけない。我々は根本的に「環境」を創造するという姿勢に興味がない。ソローの気持ちなんかわからないのである。
大統領の就任式をみてたら、その舞台が非常に立体的につくられていて、その仰々しさにいやな感じがしたが、これこそがわれわれに打ち勝った力なのだ。
光源氏は、六条院をつくったが、それは彼の頭にある世界そのものであった。わたしなら、女たちの代わりに壮大な書庫をおっ立てるところだ。――しかしまあ、源氏にしてもわたしにしても、女や書物を側に置いてなでるようになっちゃオシマイである。
「やはり愚な男があった。腹が減っていたので有り合せの煎餅をつまんでは食べた。一枚食べ、二枚食べして行って七枚目の煎餅を半分食べたとき、彼の腹はちょうど一ぱいになったのを感じた。男は考えた、腹をくちくしたのは此の七枚目の半分であるのだ。さすれば前に食べた六枚の煎餅は無駄というものである。それからというものは、この男は腹が減って煎餅を食べるときには、先ず煎餅を取って数えた。一枚、二枚、三枚、四枚、五枚、六枚、そしてこれ等の六枚の煎餅は数えただけで食わないのである。彼は七枚目に当った煎餅を口へ持って行き半分だけ食った。そしてそれだけでは一向腹がくちくならないのを如何にも不思議そうに考え込んだ」(百喩経より)
――岡本かの子「愚かな男の話」
我々にはこういうところがある。そういえば、人間失格の主人公も空腹の意識があるとかないとかで悩んでいた。そんなことはどうでもいいじゃないか。
今日は、またテレビで「エヴァンゲリオン」をやっていたが、これも、頭の中を都市にしたらみたいなアニメで、――結局、この世界において国連や天皇制がどのように設計されているかさえはっきりしていないのだ。この作品は基本的に、バブルの反省みたいなところがあるのだが、意識を反省したところで何も出てこないのは当たり前である。