岩田神社は飯田町。昔の飯田郷(鶴市、郷東、飯田、檀紙)四ヶ村の産土神。藤の花で有名なところである。ここで藤の花が咲くと、香川県のニュースになるレベル。
鳥居の手前の右手には巨木が。デカい木の所に神社が出来るのか、神社の木がデカくなるのか。
岩田社でござい
鳥居もデカいが木もデカい。
まちがえた。
狛犬に角が生えていたので、興奮して猫を混ぜてしまいました。申し訳ありません。鳥居の前に可愛さで人間の気を惹こうという根性のねじくれた猫がいたので……。そういえば、ここは、鬼無に近く、桃太郎神社にも近い。犬は桃太郎側であって、鬼はあっち側である。なにゆえ、犬と鬼が混ざってるのかっ。あっ、もしかしたら、この場面の結果ではないか……
「進め! 進め! 鬼という鬼は見つけ次第、一匹も残らず殺してしまえ!」
桃太郎は桃の旗を片手に、日の丸の扇を打ち振り打ち振り、犬猿雉の三匹に号令した。犬猿雉の三匹は仲の好い家来ではなかったかも知れない。が、饑えた動物ほど、忠勇無双の兵卒の資格を具えているものはないはずである。彼等は皆あらしのように、逃げまわる鬼を追いまわした。犬はただ一噛に鬼の若者を噛み殺した。雉も鋭い嘴に鬼の子供を突き殺した。猿も――猿は我々人間と親類同志の間がらだけに、鬼の娘を絞殺す前に、必ず凌辱を恣ままにした。……
あっ、間違えた。犬じゃなく猿だった……。最低ですなあ、桃太郎一味は。GO TO HELL。たぶん犬野郎も、どさくさに紛れて鬼に犯罪を犯していたのです。ともかく、この子孫が寝返っていなければ、この神社は鬼側の神社に違いありません。
悪い人間と獣はお断りっ
境内の中にも猫がいた。
立派な随神門。
最低ですなあ、桃太郎一味は……
手水舎の立派さに境内の大きさが比例する気がしてきました。
岩田神社は鎮座800年を超えるらしいのであるが、この「孔雀藤」も樹齢約800年らしいのだ。なんと2メートル近くも花がたれ下がるというからびっくりである。なんとわたくしの身長以上にたれ下がる花。さすがに800歳も生きてると身長も伸びるものである。藤の花は四月から五月ぐらいであろうか。はやく見たい人は、勝手に検索してみて下さい。見飽きるほど出てきます。
ふじなみや おと無き風の よりどころ
梅下庵主人
明治一三?年の句で、石碑が建っていた。梅下庵主人て、岡田魯人のことであろうか。この人は、義仲寺を復興した人として知られている。
社務所とかも大きい。
灯籠
拝殿
拝殿とすべてが渡り廊下で繋がっているのがイイね。
『香川県神社誌』に曰く、
「治承二年(紀元一八三八)八月の創祀。」
あれっ、案外新しいではないか、と思ったが、これは皇紀であった。西暦だと1172年ですね。
「社領二石二斗ありて国守松平氏の寄進する所とす。」
いっぱい持ってたなあ
「崇徳天皇當国綾松山に遷らせ給ひし時、唐渡左門雅基従ひて當国に来る。」
なにっ、崇徳院関係あったか
「雅基の先は後漢霊帝四世の孫高貴王なり。高貴王丹波国に移り、其の裔康頼丹波宿禰の姓を賜ひ醫博士となり、子孫世々典薬頭たり。故を以て雅基崇徳天皇に従ひて讃岐に来る。」
その薬係のかいなく、崇徳院は天狗にならせたもう
天皇陛下在位六十周年紀念……崇徳院、許して……
「天皇崩御の後、雅基の子助左衛門尉信宗飯田郷に移住し當社を創立す。勧請導師は長尾郷寶蔵院朝算なり。信宗が宅址今猶飯田にあり。」
えっ、あるの?どこだろう……
「建仁元年、二年、承応元年、正安二年、貞和五年社殿の修造あり。貞治二年三月五日細川頼之参拝して親しく奉幣せり。應永十年八月修造ありしが、應仁元年兵火に罹り、同二年再建す。
天文十九年十一月二十日火災ありて本殿、拝殿等焼失せしが、祠前の大藤はその災を免る。」
すごいな、藤の花……
「この藤樹飯田の藤とて名あり。天文二十一年二月飯田領主飯田主水願主となりて再建し、同年九月西坊を建立して社僧となす。(西坊は寛永元年蓮香寺と改称す)」
これですな、わたくしより背の高い坊さんがいたあそこですね……
「天正十九年霜月飯田領主築城三郎左衛門尉領主となりて再営(全讃史に築城三郎左衛門始祠之とあるは誤)次で慶長十六年正月造営あり。寛永七年雪月築城氏の後裔上村半右衛門尉良信願主となりて再営す。正保四年願主唐戸興次右衛門再建、寛文四年願主唐渡興五右衛門尉等修造、寛文八年九月命によつて各末社の合併あり。(享和元年頃各へ還遷せり)其の他享保十五年本殿再建、寶暦四年拝殿、神楽殿、随神門、御旅所の再興、明和三年、天明二年の本社再建、天保十年本殿、拝殿の大修造ありて天正以降の棟札を存せり。弘化二年八月松平頼顕自筆の扁額及び永年神燈雪洞の奉献あり。明治五年一月郷社に列せられ、大正二年九月二十日神饌幣帛料供進神社に指定さる。昭和六年三月三日御鎮座七百五十年祭を執行せり。」
波瀾万丈であるが、たくさん記録が残っててイイですね。ところで、香川県というのは、明治維新以来20年間ぐらい、愛媛や徳島に合併させられたり独立したり非常に安定しない県であったが、こういう神社の歴史は一見して一貫するように見えるのが素晴らしい面白いですね。藤の花が生き続けていることだし……
神鏡であろうか。高松市の神社で、ここに鏡があるのは初めてである。ここに、桃太郎やきびだんごに釣られた連中は正体がばれるという訳であろう。
彼が何故なぜ発狂しなければならなかったか。いや、それよりも、彼はガラス玉の内部で何を見たか。一体全体、何を見たのか。そこまで考えた私は、その刹那、脊髄の中心を、氷の棒で貫かれた感じで、その、世の常ならぬ恐怖のために、心の臓まで冷たくなるのを覚えました。彼はガラス玉の中にはいって、ギラギラした小電灯の光で、彼自身の影像をひと目見るなり、発狂したのか、それともまた、玉の中を逃げ出そうとして、誤まって扉の取手を折り、出るに出られず、狭い球体の中で死の苦しみをもがきながら、ついに発狂したのか、そのいずれかではなかったでしょうか。では、何物がそれほどまでに彼を恐怖せしめたのか。
それは、到底人間の想像を許さぬところです。球体の鏡の中心にはいった人が、かつて一人だってこの世にあったでしょうか。その球壁に、どのような影が映るものか、物理学者とて、これを算出することは不可能でありましょう。それは、ひょっとしたら、われわれには、夢想することも許されぬ、恐怖と戦慄の人外境ではなかったのでしょうか。
拝殿の上に獣あり。
獣あり。
本殿。すばらし
捨てられたものあり。
鳥居の手前の右手には巨木が。デカい木の所に神社が出来るのか、神社の木がデカくなるのか。
岩田社でござい
鳥居もデカいが木もデカい。
まちがえた。
狛犬に角が生えていたので、興奮して猫を混ぜてしまいました。申し訳ありません。鳥居の前に可愛さで人間の気を惹こうという根性のねじくれた猫がいたので……。そういえば、ここは、鬼無に近く、桃太郎神社にも近い。犬は桃太郎側であって、鬼はあっち側である。なにゆえ、犬と鬼が混ざってるのかっ。あっ、もしかしたら、この場面の結果ではないか……
「進め! 進め! 鬼という鬼は見つけ次第、一匹も残らず殺してしまえ!」
桃太郎は桃の旗を片手に、日の丸の扇を打ち振り打ち振り、犬猿雉の三匹に号令した。犬猿雉の三匹は仲の好い家来ではなかったかも知れない。が、饑えた動物ほど、忠勇無双の兵卒の資格を具えているものはないはずである。彼等は皆あらしのように、逃げまわる鬼を追いまわした。犬はただ一噛に鬼の若者を噛み殺した。雉も鋭い嘴に鬼の子供を突き殺した。猿も――猿は我々人間と親類同志の間がらだけに、鬼の娘を絞殺す前に、必ず凌辱を恣ままにした。……
――芥川龍之介「桃太郎」
あっ、間違えた。犬じゃなく猿だった……。最低ですなあ、桃太郎一味は。GO TO HELL。たぶん犬野郎も、どさくさに紛れて鬼に犯罪を犯していたのです。ともかく、この子孫が寝返っていなければ、この神社は鬼側の神社に違いありません。
悪い人間と獣はお断りっ
境内の中にも猫がいた。
立派な随神門。
手水舎の立派さに境内の大きさが比例する気がしてきました。
岩田神社は鎮座800年を超えるらしいのであるが、この「孔雀藤」も樹齢約800年らしいのだ。なんと2メートル近くも花がたれ下がるというからびっくりである。なんとわたくしの身長以上にたれ下がる花。さすがに800歳も生きてると身長も伸びるものである。藤の花は四月から五月ぐらいであろうか。はやく見たい人は、勝手に検索してみて下さい。見飽きるほど出てきます。
ふじなみや おと無き風の よりどころ
梅下庵主人
明治一三?年の句で、石碑が建っていた。梅下庵主人て、岡田魯人のことであろうか。この人は、義仲寺を復興した人として知られている。
社務所とかも大きい。
灯籠
拝殿
拝殿とすべてが渡り廊下で繋がっているのがイイね。
『香川県神社誌』に曰く、
「治承二年(紀元一八三八)八月の創祀。」
あれっ、案外新しいではないか、と思ったが、これは皇紀であった。西暦だと1172年ですね。
「社領二石二斗ありて国守松平氏の寄進する所とす。」
いっぱい持ってたなあ
「崇徳天皇當国綾松山に遷らせ給ひし時、唐渡左門雅基従ひて當国に来る。」
なにっ、崇徳院関係あったか
「雅基の先は後漢霊帝四世の孫高貴王なり。高貴王丹波国に移り、其の裔康頼丹波宿禰の姓を賜ひ醫博士となり、子孫世々典薬頭たり。故を以て雅基崇徳天皇に従ひて讃岐に来る。」
天皇陛下在位六十周年紀念……崇徳院、許して……
「天皇崩御の後、雅基の子助左衛門尉信宗飯田郷に移住し當社を創立す。勧請導師は長尾郷寶蔵院朝算なり。信宗が宅址今猶飯田にあり。」
えっ、あるの?どこだろう……
「建仁元年、二年、承応元年、正安二年、貞和五年社殿の修造あり。貞治二年三月五日細川頼之参拝して親しく奉幣せり。應永十年八月修造ありしが、應仁元年兵火に罹り、同二年再建す。
天文十九年十一月二十日火災ありて本殿、拝殿等焼失せしが、祠前の大藤はその災を免る。」
すごいな、藤の花……
「この藤樹飯田の藤とて名あり。天文二十一年二月飯田領主飯田主水願主となりて再建し、同年九月西坊を建立して社僧となす。(西坊は寛永元年蓮香寺と改称す)」
これですな、わたくしより背の高い坊さんがいたあそこですね……
「天正十九年霜月飯田領主築城三郎左衛門尉領主となりて再営(全讃史に築城三郎左衛門始祠之とあるは誤)次で慶長十六年正月造営あり。寛永七年雪月築城氏の後裔上村半右衛門尉良信願主となりて再営す。正保四年願主唐戸興次右衛門再建、寛文四年願主唐渡興五右衛門尉等修造、寛文八年九月命によつて各末社の合併あり。(享和元年頃各へ還遷せり)其の他享保十五年本殿再建、寶暦四年拝殿、神楽殿、随神門、御旅所の再興、明和三年、天明二年の本社再建、天保十年本殿、拝殿の大修造ありて天正以降の棟札を存せり。弘化二年八月松平頼顕自筆の扁額及び永年神燈雪洞の奉献あり。明治五年一月郷社に列せられ、大正二年九月二十日神饌幣帛料供進神社に指定さる。昭和六年三月三日御鎮座七百五十年祭を執行せり。」
波瀾万丈であるが、たくさん記録が残っててイイですね。ところで、香川県というのは、明治維新以来20年間ぐらい、愛媛や徳島に合併させられたり独立したり非常に安定しない県であったが、こういう神社の歴史は一見して一貫するように見えるのが
神鏡であろうか。高松市の神社で、ここに鏡があるのは初めてである。ここに、桃太郎やきびだんごに釣られた連中は正体がばれるという訳であろう。
彼が何故なぜ発狂しなければならなかったか。いや、それよりも、彼はガラス玉の内部で何を見たか。一体全体、何を見たのか。そこまで考えた私は、その刹那、脊髄の中心を、氷の棒で貫かれた感じで、その、世の常ならぬ恐怖のために、心の臓まで冷たくなるのを覚えました。彼はガラス玉の中にはいって、ギラギラした小電灯の光で、彼自身の影像をひと目見るなり、発狂したのか、それともまた、玉の中を逃げ出そうとして、誤まって扉の取手を折り、出るに出られず、狭い球体の中で死の苦しみをもがきながら、ついに発狂したのか、そのいずれかではなかったでしょうか。では、何物がそれほどまでに彼を恐怖せしめたのか。
それは、到底人間の想像を許さぬところです。球体の鏡の中心にはいった人が、かつて一人だってこの世にあったでしょうか。その球壁に、どのような影が映るものか、物理学者とて、これを算出することは不可能でありましょう。それは、ひょっとしたら、われわれには、夢想することも許されぬ、恐怖と戦慄の人外境ではなかったのでしょうか。
――江戸川乱歩「鏡地獄」
拝殿の上に獣あり。
獣あり。
本殿。すばらし
捨てられたものあり。