さる山伏を頼みて、てうぶくすれども、その甲斐なく、我と身を燃やせしが、なほこの事つのりて、歯黒付けたる口に、から竹のやうじ遣ひて祈れども、さらにしるしもなかりき。かへつて、その身に当り、いつとなく口ばしりて、そもそもよりの偽り残らず恥をふるひて申せば、亭主浮名たちて、年月のいたづら一度にあらはれける。人たる人嗜むべきはこれぞかし。
仏壇の掃除でご主人を誘惑して、奥様を離縁に追い込もうとした一代女であるが、上のように呪いまで沢山やらかしておるのであるが、彼女は「人たる人嗜むべきはこれぞかし。」と言っているところがすばらしい。これは倫理的判断ではない。人生の判断なのである。対して、現代人がやらかす判断――例えば、作品の人物に対して道徳的裁断、であるがそれらを下すタイプの人間はきまって現実では倫理的ではなくひどく暴力的である。そこに人生がない。やはり戦前の修身がもたらしたものはこれか、とも推察される。修身教科書はいつも人物伝(評)が重要であった。帝国には人生がなかった。短歌の授業でも言ったが、人生の代わりにリズムで気を晴らすのが我々である。
私は大本教は好きでないが、その祝詞は好きだ。それを聞くのも好きだし、それに現はれた太古の純日本的な思想も好きだ。しかし、この頃ではこの祝詞も湯本館で殆ど聞かない。
大本教では、湯ケ島が聖地だといふことになつてゐる。
――川端康成「湯ケ島温泉」
人生は、源氏物語の最後、浮舟の帰趨の果てを考えることである。浮舟は自分の人生を選択した、而して大河の解釈は当然、のようなとらえ方はその意味でありうるが、そう簡単でもないと思う。小説はもっともっと複雑に読めるはず。人生よりも、過去と状況との関わりが複雑で、未来が過去に折れ曲がり、主体の性質がいつの間にか他人に移動する。文章のリズムが風景のリズムと化す。
羅生門の結末を「野蛮な情熱」によって宮本顕治君が感動するような話に作りかえなさいと学生にきいたら即答していた。「羅生門」をどう解するかは難しいが、書き換えは簡単だ。そんな「野蛮な情熱」は思ったほどたいしたことはなく、むしろそれ自体容易であり、AIなみである。AIも簡単に羅生門ぐらい書き換える。むしろ、やっかいなのは、下人にも一見AIみたいなところがあるということだ。芥川の作品というのはそういうところがある。やはり人間はAIをつくりたがる。言語能力を伸ばすために作品の続きを創作させるみたいな考え方自体がAI的である。しかも、芥川のやってたことも古典のパロディで、そのAI的側面があるわけだが、芥川にとっては中世の古典のほうがどこかしらAI的にみえていたと思う。
「浮雲」の文三の心理も、自動的なところがある。彼はいわば莞爾病に悩まされていた。しかし、この病は彼が勇気を持たないことと関係がある。
失礼しました、不手際で御迷惑をおかけしました、みたいな謝罪ではないたんなる逃避を許してきたのがいかんわな。AIがいかんとか以前に、人間の悪さにニコニコしてきたのがいけないであろう。