★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

さばかりにては、さな言はせそ

2019-03-07 23:55:02 | 文学


「さばかりにては、さな言はせそ。」
「大将殿をぞ、豪家には思ひ聞こゆらむ。」など言ふを、その御方の人も混じれれば、いとほしと見ながら、用意せむもわづらはしければ、知らず顔をつくる。


学校で「車あらそひ」の場面を習ったときには、年寄りは引っ込めという友人たちに対して、六条の御息所はかわいそうだなあと思ったが、――いや、本当は大して何も思わなかったのであるが、考えてみると、葵上にしても六条の御息所にしても、賀茂祭でうきうきしすぎなのだ。後者は特に、お祭り騒ぎで鬱憤を晴らそうと来ているわけであって、上のように「源氏の大将を笠に着るつもりなんじゃねえか」みたいな暴言を吐いている、葵上の方のあほな若手にしても、お祭りで普通の精神状態ではない。普段の秩序が崩れているところで、かえって普段の隠れていた現実が顕わになってしまい――、そりゃ、隠れた怨念が現実に飛び出すわけである。かくして御息所の魂は分離して恋敵を襲うようになる。

対して、源氏は、生まれたときからお祭り状態なので関係ない。

そういえば、大澤真幸氏が『〈自由〉の条件』のなかで、例の「江夏の二十一球」について解釈してて、江夏の、満塁での石渡のスクイズを外した奇跡のウエストボールの秘密を次のように述べていた。すなわち、江夏は超人でもなければ、努力によって全てのケースに対応する能力を持っていたのでもなく、バッターという他者(第三の審級)に感応しただけだ、というのである。それが江夏の「自由」を生んだと……。

自由は本当にそんなものであろうかとも思うけれども、考えてみると、生き霊となってしまう人は、その他者みたいなもんに感応することの出来なかったとはいえるかもしれない。祭りでは、そんな他者が現れる。そして、葵上や御息所が実は不自由な生活をしていることが明らかになってしまう。

いかなる場合にも、自からを偽ることなく、朗らかな気持になって、勇ましく、信ずるところに進んでこそ、人間の幸福は感ぜらるゝ。しかるに矛盾に生き、相愛さなければならぬと知りながら、日々、陰鬱なる闘争を余儀なくさせられるのは、抑も、誰の意志なのか? これ、自からの信仰に生きずして、権力に、指導されるからではあるまいか。

――小川未明「自由なる空想」

残念なことにと言うか、当たり前というか――近代に於いては、だいたいこういう人が生き霊となる。


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