恋しとも思はで言はば 久方の天照る神も空に知るらむ
あなたのことを恋しと思わないで言ったのであれば、自然に天照大神にも知られてしまいますワ、嘘じゃないヨ、みたいな意味であろうか。それにしても、久方の天照る神も空に、とは意味の割に長い。しかしそれが、恋しの思いが果てしなく空を飛んで行くさまを示すようでステキである。
お天道様も見てござる、というのは、観念的な意味ではなく、空を見上げてのすがすがしい感覚のことであってほしい気がする。お天道様の罰はそれ自体赦しである必要がある。しかもそれは、そこらの思い上がった人間の赦しではなく、実体がみえない優しい罰の方がよい。
地震の時に天罰だとか口走ってしまった人がいたが、彼だってどちらかと言えば、その天罰による赦しみたいなニュアンスを知っていたに違いない。しかし、それがただの自我主義みたいな人間が言ってもしかたがない、――こんなことを知らなかっただけのように思われる。
少年にして木曾の英雄譚を知つたものは、やがて平家物語の木曾に、長じて美しい人間と激しい歴史を発見し、一つの過度期の犠牲を見出す。そのことから彼らは決して平家をないがしろにせず、頼朝を嫌な男と考へぬのである。
――保田與重郎「木曾冠者」
保田はときどきこういうことを言うが、ふざけている。過渡期の犠牲を強いている主体はどこにあるのだ。平家や頼朝ではないか。結局、かくして、保田は権力には弱い男となる。思うに、保田は、お天道様は見てござる、という感覚を信じ切れなかったわけである。人間に美しさを、歴史に激しさをあてているのだが、わたくしは人間が美しいなら歴史も美しいと言うべきで、――そもそも激しさと美しさは分析されてなんぼではないかと思うのである。保田は人間の自我の存在そのものに拘りすぎている。歴史は、人間の営為に対する毀誉褒貶から導かれる必要がある。営為に対して十人十色の感想がイイネというのは自我主義だ。そうではなく批評的吟味ができるだけの営為だけが必要だ。そのことを軽視するから、NOといえる人が強い自我に見えたりするわけである。
お天道様は、その自我の虚実を暴くはずの存在である。日本ではあまりにも自我主義の平凡人がただの自我の衝突を繰り返すものだから、お天道様みたいなものが要として必要に思われたのである。しかし、要は単に要であってただ単に美しいと思われてしまう可能性がある。
実朝の歌もそんな美を持っていて、――だいたいどういう「恋し」なのか説明すべきなのである。