よく見てやろうと、私は床の上に起直って見ていると、またポッと出て、矢張奥の間の方へフーと行く、すると間もなくして、また出て来て消えるのだが、そのぼんやりとした楕円形のものを見つめると、何だか小さい手で恰も合掌しているようなのだが、頭も足も更に解らない、ただ灰色の瓦斯体の様なものだ、こんな風に、同じ様なことを三度ばかり繰返したが、その後はそれも止まって、何もない。私も不思議なこともあるものだと、怪しみながらに遂その儘寐てしまったのだ。夜が明けると、私は早速今朝方見た、この不思議なものの談を、主人の老母に語ると、老母は驚いた様子をしたが、これは決して他人へ口外をしてくれるなと、如何いう理由だったか、その時分には解らなかったが、堅く止められたのであった。ところが二三日後、よく主顧にしていた、大仏前の智積院という寺へ、用が出来たので、例の如く、私は書籍を背負って行った。住職の老人には私は平時も顔馴染なので、この時談の序に、先夜見た談をすると、老僧は莞爾笑いながら、恐怖かったろうと、いうから、私は別にそんな感も起らなかったと答えると、それは豪らかったが、それが世にいう幽霊というものだと、云われた時には、却てゾッと怯えたのであった。
――岡崎雪聲「子供の霊」
いまどき、論文の題名に「霊」みたいな言葉を入れれば深淵になるのではっ、と思ったがさすがに恥ずかしくてなかなかできない。こういうことをできるのは、マルクスとかデリダとかみたいなエラい人に限る。
わたくしも学部時代から、擬態する霊みたいなコンセプトを持ち歩いていた。先日、文学フリーマーケットで売られていた、『mimetica』の擬態特集はすごかった。学部生の頃にこういうのに出会わなくて良かった。やる気を失っていたかも知れない。いまの文学思想系の若者が大変なのはレベルが上がったのもあるんだよな(卒論でさえそうだから)、わたくしのような文学青年の煮崩れたようなタイプが参入出来るかんじの業界は必要なんだとはおもうが、もうそういうところがあまりないんだ。いいことなのかもしれん。
何年か前に書いた気がするが、平凡さとか凡庸さに対する認識の甘さは、確かにナチズムの有名な議論では劇的に露出したりもするが、文学なんかだとすごく面倒くさい議論になりがちである。文学は、そもそも平凡さや凡庸さにしてもそれ自体では存在せず、擬態として存在する。
擬態と言えば、――よくいわれることだが、教師とは教師を模倣しようとした人間であり、その模倣への欲望はけっこうやっかいなものである。いろんなものを見えなくさせている。