★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

多賀神社を訪ねる(香川の神社95)

2017-10-26 22:41:24 | 神社仏閣
昼下がり、多賀町の多賀神社に行く。






随神門は久しぶりである。かっこのよい門である。また、弓矢を持ったお人形さんがお出迎えかと思ったら……

 
金色っ

 

 彼は乱せる髪を夜叉の如く打振り打振り、五体を揉みて、唇の血を噴きぬ。彼も殺さじ、これも傷けじと、貫一が胸は車輪の廻るが若くなれど、如何にせん、その身は内より不思議の力に緊縛せられたるやうにて、逸れど、躁れど、寸分の微揺を得ず、せめては声を立てんと為れば、吭は又塞りて、銕丸を啣める想。
 力も今は絶々に、はや危しと宮は血声を揚げて、
「貴方が殺して下さらなければ、私は自害して死にますから、貫一さん、この刀を取つて、私の手に持せて下さい。さ、早く、貫一さん、後生です、さ、さ、さあ取つて下さい」
 又激く捩合ふ郤含に、短刀は戞然と落ちて、貫一が前なる畳に突立つたり。宮は虚さず躍り被りて、我物得つと手に為れば、遣らじと満枝の組付くを、推隔つる腋の下より後突に、𣠽も透れと刺したる急所、一声号びて仰反る満枝。鮮血! 兇器! 殺傷! 死体! 乱心! 重罪! 貫一は目も眩れ、心も消ゆるばかりなり。宮は犇と寄添ひて、
「もうこの上はどうで私は無い命です。お願ですから、貫一さん、貴方の手に掛けて殺して下さい。私はそれで貴方に赦された積で喜んで死にますから。貴方もどうぞそれでもう堪忍して、今までの恨は霽して下さいまし、よう、貫一さん。私がこんなに思つて死んだ後までも、貴方が堪忍して下さらなければ、私は生替死替して七生まで貫一さんを怨みますよ。さあ、それだから私の迷はないやうに、貴方の口からお念仏を唱へて、これで一思ひに、さあ貫一さん、殺して下さい」
 朱に染みたる白刃をば貫一が手に持添へつつ、宮はその可懐き拳に頻回頬擦したり。
「私はこれで死んで了へば、もう二度とこの世でお目に掛ることは無いのですから、せめて一遍の回向をして下さると思つて、今はの際で唯一言赦して遣ると有仰つて下さい。生きてゐる内こそどんなにも憎くお思ひでせうけれど、死んで了へばそれつきり、罪も恨も残らず消えて土に成つて了ふのです。私はかうして前非を後悔して、貴方の前で潔く命を捨てるのも、その御詑が為たいばかりなのですから、貫一さん、既往の事は水に流して、もう好い加減に堪忍して下さいまし。よう、貫一さん、貫一さん!
 今思へばあの時の不心得が実に悔くて悔くて、私は何とも謂ひやうが無い! 貴方が涙を零して言つて下すつた事も覚えてゐます。後来きつと思中るから、今夜の事を忘れるなとお言ひの声も、今だに耳に付いてゐるわ。私の一図の迷とは謂ひながら何為あの時に些少でも気が着かなかつたか。愚な自分を責めるより外は無いけれど、死んでもこんな回復の付かない事を何で私は為ましたらう! 貫一さん、貴方の罰が中つたわ! 私は生きてゐる空が無い程、貴方の罰が中つたのだわ! だから、もうこれで堪忍して下さい。よ、貫一さん。
 さうしてとてもこの罰の中つた躯では、今更どうかうと思つても、願なんぞの愜ふと云ふのは愚な事、未だ未だ憂目を見た上に思死に死にでも為なければ、私の業は滅しないのでせうから、この世に未練は沢山有るけれど、私は早く死んで、この苦艱を埋めて了つて、さうして早く元の浄い躯に生れ替つて来たいのです。さう為たら、私は今度の世には、どんな艱難辛苦を為ても、きつと貴方に添遂げて、この胸に一杯思つてゐる事もすつかり善く聴いて戴き、又この世で為遺した事もその時は十分為てお目に掛けて、必ず貴方にも悦ばれ、自分も嬉い思を為て、この上も無い楽い一生を送る気です。今度の世には、貫一さん、私は決してあんな不心得は為ませんから、貴方も私の事を忘れずにゐて下さい。可うござんすか! きつと忘れずにゐて下さいよ。
 人は最期の一念で生を引くと云ふから、私はこの事ばかり思窮めて死にます。貫一さん、この通だから堪忍して!」
 声震はせて縋ると見れば、宮は男の膝の上なる鋩目掛けて岸破と伏したり。
「や、行つたな!」
 貫一が胸は劈けて始てこの声を出せるなり。
「貫一さん!」
 無残やな、振仰ぐ宮が喉は血に塗れて、刃の半を貫けるなり。彼はその手を放たで苦き眼を睜きつつ、男の顔を視んと為るを、貫一は気も漫に引抱へて、
「これ宮、貴様は、まあこれは何事だ!」
 大事の刃を抜取らんと為れど、一念凝りて些も弛めぬ女の力。
「これを放せ、よ、これを放さんか。さあ、放せと言ふに、ええ、何為放さんのだ」
「貫、貫一さん」
「おお、何だ」
「私は嬉い。もう……もう思遺す事は無い。堪忍して下すつたのですね」
「まあ、この手を放せ」
「放さない! 私はこれで安心して死ぬのです。貫一さん、ああ、もう気が遠く成つて来たから、早く、早く、赦すと言つて聞せて下さい。赦すと、赦すと言つて!」
 血は滾々と益す流れて、末期の影は次第に黯く逼れる気色。貫一は見るにも堪へず心乱れて、
「これ、宮、確乎しろよ」
「あい」
「赦したぞ! もう赦した、もう堪……堪……堪忍……した!」
「貫一さん!」
「宮!」
「嬉い! 私は嬉い!」
 貫一は唯胸も張裂けぬ可く覚えて、言は出でず、抱き緊めたる宮が顔をば紛り下つる熱湯の涙に浸して、その冷たき唇を貪り吮ひぬ。宮は男の唾を口移に辛くも喉を潤して、
(尾崎紅葉「金色夜叉」)



気を取り直して狛犬さん


注連石、明治三七年。

 
常夜灯(文政期)と拝殿。


本殿

ところで、この神社の由縁はといえば、案内板に曰く、

「天正三年(一五七五年)四月十二日、豊臣秀吉の重臣、仙石権兵衛秀久が、近江の国(現在の滋賀県)の多賀神社の御霊をお迎えし、この地にお祀りしたものです。」


ご、ご先祖さまっ!こんな所に滋賀から神さんを呼んでおったのですね。うまくいきゃ、ずっとこの地を支配できたものを。猿の子分でいたのが運の尽きでしたわ。とりあえず、御子孫がいま参拝に来てやったぞ。

「それ以来、四百年余りにわたって、地域の氏神様として、人々に広く愛されてきました。」


支配者の地位は、生駒とか松平にとられましたけどね……。

「お祀りしている神様は、伊邪那岐命、伊邪那美命の二柱で、昔から、長生きの神様として、信仰を集めています。」


「お伊勢参らばお多賀へ参れ、お伊勢お多賀の子でござる」という俗謡があるそうですが、確かに良いこと言ってます。天照大神なんて、ミとギの子どもに過ぎません。「皇居まいらば宮崎神社にまいれ、皇居宮崎の子でござる」、「宮崎神社まいらば鹿児島神社にまいれ、宮崎鹿児島の子でござる」、「鹿児島神社まいらば高千穂神社にまいれ、鹿児島高千穂の子でござる」、「高千穂神社にまいらば富田八幡宮にまいれ、高千穂富田の子でござる」、「富田まいらばお伊勢にまいれ、富田お伊勢の子でござる」、ここまできてやっと、「お多賀へ参れ、お伊勢お多賀の子でござる」です。このあとは、もうどうやら人間の形とは限りませんので省略します。

拝殿の右隣には、「生駒神社」があります。どういういわれなのか分からんが……、仙石氏の神社の隣が生駒さんとはさてはて……



 
玉乗り狛犬が立派である。


地神さん。


誰だろう……


!!!!!!

松島神社を訪ねる(香川の神社94)

2017-10-25 23:11:25 | 神社仏閣
松島町。古い家が残る町です。

 
大正三年の玉垣が囲んでいる。

 
巨大な灯籠。左には「石清尾八幡宮」「三宝大荒神」ともかいてある。右のものには文政六年と書いてあった。

 
狛犬さん。大正五年(立太子式紀念)。この神社は、明治四三年に此の地に越してきたのだが、寺島正行さんというのが土地を寄進したらしいのである。玉垣にも燈籠にもこの狛犬にもその寺島さんの名前が見える。大阪の道頓堀にいたらしいですね……


狛犬さんの台座にはこんな感じの……


大正七年の燈籠。大阪からの寄付。


鳥居は、御大典記念の大正四年。


参道を進んでゆく。

   
昭和九年の敷石の寄付も大阪から。燈籠は明治一七年。注連石は明治二九年だった。お馬さんは昭和四三年。





楠がすごい迫力で覆い被さってくる。

 
昔の狛犬さん。これは移転前から居るかたたちであろう……か。玉乗り型みたいですが、吽の人の笑顔がすごい……。もはや人の笑顔に近い……。


拝殿。


本殿。

案内板に曰く、

「当松島神社は、「松島の三宝荒神さん」の名で親しまれてきた。祭神・稚産霊神は生成力の神、また西日本では、かまどの神として広く祀られ、市杵嶋姫命は海の神として敬われてきた。」

生成力というのが、なにやら文学研究の何かを感じる!

「徳川時代の初期(寛永年間)、高松藩主生駒高俊の治世時代に創始された。」


さすが高俊さん!神馬に生駒さんの家紋(波引車紋)があったのはそのせいか……。ちなみに『神社誌』によると、この神社には鎌倉時代の念持仏があるらしい。

「そのあとをうけた藩主松平頼重公と同夫人「皓月院」の崇敬も厚かったといわれている。」


「そのあとをうけた」のかはわからんが、とにかく夫婦で好きだったのですね、この荒神が。

「はじめの鎮座地は、約三三〇メートル南勢の地にあったが、明治四十三年(一九一〇)当地所有の寺島正行氏の寄進により移転した。」


さて、この寺島さんなのですが、道頓堀あたりを検索してみると、「やぐらおこし寺島総本店」というスイーツ屋さんがあって、どうやらこの家の方らしいですね。明治三〇年代に大阪に引っ越されたみたいです。http://www.matsushimacommunity.com/history_matsushimajinja.html


大正一三年の記念樹と碑にあったが、根っこの勢いでその碑が傾いていた……。

 
境内社は、地神さんと琴平神社。地神さんが帽子をかぶっているタイプ。


鳥居が拝殿の右側にもあった。


ゼミに行かねば……

洲端神社を訪ねる(香川の神社93)

2017-10-24 23:37:12 | 神社仏閣
木太町洲端にある洲端神社がちらっと見えたので訪ねる。



ここは「荒神さん」で、祭神は保食神。

案内板によると、
「昔、神社はここより北の中土手にあったが、いつごろか分からないが、ここに移されたと伝えられている。昭和のはじめごろまでは、祭の日には露天が出て、獅子舞の鉦や太鼓で大いに賑わっていた。」


らしい。昭和一三年の神社誌には、崇敬者20人とあった。鳥居は大正六年。連柱石は明治二三年でした。

ところで、洲端とはスベリと読む。昔は州のヘリだったのであろう。受験生は是非この神社にお参りし、滑って滑って滑りまく、らなくても良いのですが、――自分に相応しい場所に流れ着くことを希望します。大学の教員として思うのですが、自分に合ったところに入らないと非常に不幸なのです。(つまりはだいたいの受験生は不幸なんですが……)就職率がいいとかいう幽霊みたいな理由で入ると、ろくなことはありません。常識的に考えて、就職率を誇っているような大学がまともなわけないでしょうが……

  
拝殿は、公民館になっております。神様と一緒に考えれば閃きも出るにちがいありません。


可愛い神木


立派な神木


「聖上陛下銀婚式記念碑」「金婚記念碑」……昭和天皇の時であろうか。


境内社の方々(地神さんと鑿井水神社)

鑿井水神社の記念碑もあります。藤原茂氏によるものらしい。


この藤原茂氏かは分かりませんが、藤原茂氏による書「国民精神作興詔書帖」(宮脇開益堂、大13)なんてのも国会図書館のアーカイブには残っています。国民に向かって「軽佻詭激」の風を批判して質実剛健に帰れと命令した文章であり、――共産主義運動やモダニズムなどを批判しているのかも知れないが、これは文字通り、我々がプレッシャーを受けると「軽佻詭激」になることへの恐怖を表現したものと思われる。どうもこの文章は、好意的にとれば「みんなオチツケ」と言っているのであろう、言っている側が一番パニックになっているのであろうが――。例の人間宣言のときでさえ、「詭激ノ風漸ク長ジテ道義ノ念頗ル衰ヘ、為ニ思想混乱ノ兆アルハ洵ニ深憂ニ堪ヘズ」とかなんとか言っているわけで、我々が、アメリカに心底震え上がって軽佻詭激になる――バカになって國がダメになることを知っているわけである。教育勅語なんてのは単独に問題にしても問題だが、そのあとで似たような形ででてきたいろいろなものと併せて考える必要がある。「国民精神作興詔書帖」は、国民精神総動員運動のリハーサルとなった所謂大正期の「教化総動員運動」の大義をつくったもので、『町村教化指導者必携』みたいな冊子には、国民精神作興詔書帖や教育勅語、明治天皇の歌とか年中行事表が併せて入っていた。こういういろいろなものを分析綜合して考察する能力を持っている人は少なく、だいたい「要約するとね」みたいなとらえ方になる。つまり、地震や社会主義を標的(国難)にしてみんなで団結しようとかいう、水神をなだめるために神社を建てたりお祭りやお祈りしたりする発想と全く変わらない――そんな気分に落ち着いた。あとは気休めの人柱(特攻)である。実のところ、我々の「軽佻詭激」はこういう行動にこそあり、それをぼんやりとは自覚しているものだから、それを頑張って深刻な顔で祈るポーズをとることでごまかしているのである。質実剛健と軽佻詭激の実体は同一物なのだ。矛盾や科学や読解に耐えられず、「軽佻詭激」になり、国難だとか口走って質実剛健になる。戦争自体よりかかる我々の心の方がよほど問題である。これは文藝によっても後押しされている傾向であるのだが、明後日授業で述べる予定。

それはともかく、上の碑(昭和二三年)によると、池の水でなんとか耕作していたこの地区の人たちにとって、昭和一四年の大旱魃がもう限界だったらしい。地主や当時の知事の賛成も得て、農林省や県市からにも助けられ一年後に鑿井工事を終える。これは「百年の計」だったのだ、と碑は語っている。これは四十世帯の鑿井物語である。ちゃんと、使った金額までかいてある。実感のある数字であったに違いなく、ここを水神社にしてしまってもここに神的な要素はそれほどとはいえない。

しかし「国難」とかは怪獣じみている。ただ、上の水神とも無関係ではない。

川中神社を訪ねる(香川の神社92)

2017-10-24 02:29:15 | 神社仏閣
観光橋の近くにあるのは知っていたが、ようやく行ってみた。「川中神社」。抽象的な名前の時は何かあるとわたくしの煩悩が告げます。




予習なしに訪ねてみたが、今日は素晴らしい神社にゆきあたったぞ――「歓喜天」様っ


鳥居は大正十二年。玉藻漁業協同組合。玉垣昭和四十七年。注連石、明治四十五年。玉垣には、とてもうまい近所のうなぎ屋さんの名字がずらり……。細君と結婚前に食べに行ったことあり。


大正十三年五月の燈籠。

 
狛犬さん。

記念碑に曰く、

「当神社は明治初年頃地元有志の発議により五剣山八栗寺より大聖歓喜双身天王を祭神としてお迎えし」


もうのっけから、他の神社とは違います。神仏分離政策のあとか前かは知りませんが、これから国家神道だそれワッショイショイの時代に、有志の発議で、八栗寺から歓喜天を呼んでしまうあたり、さすが遍路王国です。八栗寺は、八十五番札所であります。お大師さまが、牟礼にいたときに、天から五つの剣がふってきました。危なすぎるお話しですが、蔵王権現殿であった。で、ここが霊地であると言うんで、剣を埋めて開基したのだといいます。そういえば、以前、死んでも生きてるお大師の髪の毛を切った刃物を埋めて寺にしてあるところを訪ねましたが、案外、仏教というのは刃物的なエピソードが多くあります。というのはどうでもよいとして、さすがに蔵王権現の剣である、埋めたら山(五剣山)になってしまう程デカかったのであった。それにしてもデカすぎる。これに比べると中上健次の「岬」なんかちっちぇ。で、八栗寺には、お大師様作の歓喜天が祀られているというのです。すごい。水を出しまくるだけでなく、18禁の像まで造ってしまうとはお大師様は一体なにを考えているのでしょう。確かに、この寺の御詠歌、「煩悩を 胸の智火にて やくりをば 修行者ならで 誰か知るべき」でございます。本堂には、不動明王と愛染明王。セックスアンドバイオレンス、いや、煩悩即菩提であります。

という訳で、八栗寺の歓喜天を呼んでしまった訳ですが、

「清流御坊川河畔に建立せられ以来住民の信仰厚く今日に至りましたが今度御坊川改修工事により社殿が立退く事となりよって社殿を新築す
昭和四十六年拾月四日起工式をを行ひ同年拾弐月壱日上棟式を挙行し昭和四十七年四月竣落成せるものなり」


清流御坊川というのが何か願いが込められている気がします。戦後、なんか汚れがひどかった時期があったと聞いてるんで……水は清きふるさとですよ。長野の諏訪湖もきれいになったのかしらん……?大学生の頃、おまるみたいなフェリーに乗ったことがありますが、まだ濁っていたなあ、スワコ。


聖天宮が、不動明王、杦森、三宝大荒神、木里大明神を従える形です。


拝殿の額に堂々と真言であります。(聖天宮、三宝荒神、不動明王)こういう神社は多かった筈なんだがなあ……




左手に回り込む


本殿を見上げます


地神さんがいた


でっかいきのこ燈籠。「昭和十二年 村長 加藤甚助」とあり。昔の太田村村長さんですね。


「三宝荒神」とあって、「大先達 竹内仲次 明治四十年四月」とあり。もともと荒神社の性格が強かった神社なのかも知れません。だから歓喜天を呼ぶに至った経緯は面白そうですね。ウナギと関係あるのであろうか……。さて、今日も精をつけて頑張ろうっ

三軒屋墓地の地神さんを訪ねる(香川の神社91)

2017-10-23 23:00:48 | 神社仏閣
授業に向かう途中で気づいたので訪ねる。多肥北公園の近く。

 
昭和二十九年の地神さんであった。


ここは三軒屋墓地という所で、平成十三年にここに移転したらしい。ここらの開発が進んでいた頃である。この地蔵さんのいる小屋の裏に地神さんが居た。もともと一緒に居たのか、一緒に集められたのかは分からないが、こういう所にあると、地神塔のカクカクした感じが際立って見える。


お地蔵さん達


小屋の前にもおられた


終末の日

2017-10-22 23:49:45 | 文学


台風の中、菊池寛記念館でやってる「芥川龍之介と愉快な仲間達」みたいな企画を見にゆく。
閉館になったので、台風の中、投票してくる。
荒正人の「終末の日」を読み直す。


大木敦夫とフォーリング・ダウン

2017-10-21 18:21:14 | 文学


・わたくしは、香川に赴任したあたりから日本浪曼派のテキストを授業で扱ったりすることが多くなった。今日も授業で使うために大木敦夫の詩集を読んでいたのだが、ときどきすごくいやな詩句がある。それもすごくタイミングよくあるのである。だから人によってはこれが快感になっているはずだと思う。にも関わらず、やはりこういう詩人を無視するのは一面的だと思うから読む。蔵原伸二郎なんかも読むが、なぜ川端康成が彼を褒めたのかわからない。いや、何となく予想はつくんだが……

・映画『フォーリング・ダウン』が時々観たくなる。この前思い出したときに思ったんだが、中年サラリーマンがとつぜん暴れ出すきっかけは、渋滞ではなく、韓国出身のおとこの雑貨屋でコーラの値段をめぐってトラブルを起こしたためであった。この映画が提起している人種問題のありようについて大学生の時に見たときには全く意識していなかった。トランプがでてきて、この映画の意味がなんか分かってきた気がするわ……。難しいなあトランプ問題は、案外。たぶん日本もおなじだ。

・選挙、面倒だなあ……、秋祭りで忙しいんだよ、日本人は。颱風も来ちゃったよ……。

・弱さが原因だな……いろいろと。

戸隠神社を訪ねる(香川の神社90)

2017-10-21 03:17:53 | 神社仏閣
丸亀町Gりーんの近くの神社といえば、この前のスケている碑がある神社とここです。仕事が終わってから、同じく仕事を終えたサラリーマンや官庁の人たちがプレミアムフライデー(今日はまだかな)だか何だか知りませんが彷徨いながら家に向かう中、わたくしは神社に向かうのであった。



ビルにひっつくようにしてありました。



戸隠神社といえば、当然、わが長野県のあれな訳である。

なぜ、戸隠というかというと、一説には、スサノオがあまりに不良すぎて怒ったアマテラスが天の岩戸に隠れてしまった時、ストリッパーがお隠れになっているものをさらけ出し踊りまくり、なんだろうか、とアマテラスがちょこっと出て来ようとしたところを見計らって、その岩戸をむんずと掴んで放り投げてしまったのが、アメノタヂカラオであり――。その岩戸が放り投げられたあと、なんと長野県のいまの戸隠あたりに落下したのだというのだ。そこから、戸隠となったという。しかし、その「隠」というのが分からない。だから、もうひとつの説の方がなんとなく分かる。すなわち、鎌倉時代の文献に「「学門」という名の修行者の法華経の功徳によって、九つの頭と龍の尾を持つ鬼がこの地で岩戸に閉じこめられ、善神に転じて水神として人々を助けたという言い伝えが残されている(調伏善龍化伝承)」(Wikipedia)のである。学門は八〇〇年代の人らしいのだが、所謂、「九頭龍伝説」である。実際、戸隠神社には五つの社がある(江戸期以前にもうそうだったらしい)が、上の九頭龍社というのが岩戸伝説と関係ある四つとは全く異なっていて、しかも一番古そうだということである。戸隠は、平安初期にはもう密教と習合した修験道場として有名だったわけで、まあよく分からん。古そうなものが、古いとは限らない。それは地神にもアマテラス関係にも当てはまる。

気になるのは、高松の戸隠神社の由縁であるが……http://marugamemachi.jp/jinja.html によると、


讃岐高松藩主松平頼重公が、高松城に入封した寛永十九年五月十九日(三百三十二年前)から、讃岐松平家が信州の戸隠神社の御分室を勧説して、讃岐国の武運と領内の平安を祈るため、玉藻城内桜の馬場に祭祀されたのがその縁起であり、まことに由緒深い神社である。祭神は手力男命(たぢからおのみこと)で武勇の神さまである。


だそうだ。武の神様として持ってきたみたいな書きぶりであるが、『神社誌』には、「天正年間には玉藻城内桜馬場付近にありて九頭龍権現と称せられし」とかいてある。つまり、戸隠神社以前に「九頭龍権現」だったのである。この権現は水神である。高松としては当然の神様である。上のように、長野の戸隠神社には江戸期以前から「九頭龍社」があった。しかし高松のこの権現で、もう戸隠神社が意識されていたのかどうか。あるいは九頭龍権現なのだから、いっそのこと戸隠神社を持ってくることにしたのか、よく分からない。いずれにせよ、

その後、天明年間に(凡そ百八十二年前)、城内から古馬場町の松平家御用商人(両替商)の伏石屋に下賜され、古馬場町の永しへの繁昌を祈り祀らんがために、町内の氏神さまとして百八十年間祭祀をつづけられてきたのである。

御用商人にくれてしまいました……

伏石屋は屋号であり、苗字帯刀を許された高松きっての家格の旧家であり、明治の御一新の後は鈴木家となったのである。
【鈴木家家系図】
鈴木伝五郎   (初代の高松商工会議所会頭)
鈴木幾次郎 (初代高松市長)
鈴木 義伸 (戦中、戦後に高松市長)
鈴木 陽一 (元共同通信社の野球記者・讃岐の近衛公といわれた人)

なんだこれぁ……。すごいぞ、讃岐の近衛公もいるし……。ある意味全然御一新してない。

昭和二十年の終戦により鈴木家は財産税のために古馬場町の(空襲で焼失した)邸宅地跡を処分したが、その敷地内にある戸隠神社敷地は永久にこれを町内に寄付すると遺言した由。古馬場町の氏子総代故人古川一枝氏(故人、元高松市議・古馬場町内会長)鈴木家に出入りした側近の一人であり、前記の鈴木義伸氏(故人)の遺言を固く信じ、同じ氏子総代の一人だった寒川工務店社長と相談をして、高松空襲で焼失の儘(まま)だった戸隠神社を再建し、毎年、お祭りを欠かさず取行い、これは古川氏の歿後も、他の氏子総代の厚き信仰心と千人といわれる氏子の熱意で年にいたるまで熱烈に継続されている。


こんどは町内に「永久に」あげちゃいました……。やはり、お偉方ではなく、庶民のお金で何とかするしかないのであった!案内板には、再建は昭和五十七年だったとかいてある。



 
境内社。案内板によると、「鎭玉大明神」と「柳大明神」。詳細不明。

【告知】ミュージアム・レクチャー「石碑における文学のテーマ」

2017-10-21 02:05:07 | 大学
http://www.kagawa-u.ac.jp/files/3215/0770/4929/takuhon.pdf

香川大学博物館第20回企画展「森田暁峰コレクション選出 拓本でみる讃岐」

開催期間:2017年10月26日(木)~12月2日(土)10:00~16:00
※火曜日~土曜日の開館(11/3、11/5は特別開館します。)
場所:香川大学博物館(高松市幸町1-1)

第60回、ミュージアム・レクチャー「石碑における文学のテーマ」
日時:平成29年12月1日(金)14:30~
場所:香川大学博物館 展示室

……や、やります。

藤森神社を訪ねる(香川の神社89)

2017-10-19 19:30:00 | 神社仏閣
西野カナと教育勅語、そして「舞姫」の関係を講義しに行く前に寄りました。街中の神社です。


注連石は昭和六十年。



大井戸水神社、亀井戸神社に続く、レノン=マッカートニーならぬ、高俊=頼重水道とも言うべき井戸の遺構である。藤蔓があったから藤森神社だそうだ。いつからの名称だろう……

『香川県神社誌』をみると、井戸のまわりに藤蔓があったというより、藤蔓があるので藤森神社、その境内には井戸があって……という書き方であった。また、戦前のこの神社には神門、拝殿、中殿、本殿、社務所が揃っていたらしいし、琴平神社が境内に入っていたらしい。空襲でやけたんだろうね……。村上金右衛門家記には、生駒さんが宇多津から高松に移ったときにその住居裏に鎮守があって「不思議に人々信仰致候に付西手に突出し……追々繁昌相成申候」らしい。不思議だ……。その後は、寛延年間に改築、明治二〇年に再建らしい。玉藻集には「藤森荒神」はもともと「庄内ノ野外田畑ノ中」にあったらしいが、今のところに移ってきたという。どうやら荒神様だったらしいですね、だから神様が竈の神様なわけだ。

http://www.kamatamare.jp/news/2012/05/post-835.html

「藤まつり」ってやってるらしい。

わたくしの実家にも昔は井戸があったらしいが、我々の親の世代はまだまだ井戸に集まって――、つまり井戸端会議というものをやっていたわけである。人間そう簡単に習慣は変わらない。孤立した部屋には耐えられぬ。普段我慢しているから、集団になると欲望が爆発し、2ちゃんねるでは死ね死ね連発、安倍晋三万歳!安倍はクタバレ!みたいな感じになってしまうのである。井戸が消滅したのは実に民主主義やコミュニティにとって痛い。とはいえ、日本は井戸端会議やっても鬼畜米英、マッカーサーあんたが大将、の体たらくであったから、結局、問題なのは、勉強や法律だ。というより、多様性だ。井戸端会議に参加する人とそうでない人が昔はたぶん分かれていた。いまは、みんな一緒に井戸端ライン会議という感じだからやっかいだ。そりゃ虐めになるわ。


中に入ってみる。


竈三柱神の二人を祀っているらしい。マッカーサー以来、三種の神器などという言葉にだまされて竈神の代わりに、冷蔵庫とかテレビとか炊飯器とかが登場。考えてみれば、三種の神器というのは、そもそもそういう便利なもんかもしれないのであるが、とにかく……いまは


こんな感じの世の中です。





蜂穴神社を訪ねる2(香川の神社88-2)

2017-10-18 23:28:38 | 神社仏閣

もときた参道を眺める。猫が顔を出す。






左手に「銀酒甕」の石塔がある。

 
階段を上りきると、燈籠(天保十四年)あり。また猫がいた。

 
拝殿


拝殿に迫る岩肌


左手に境内社の皆さん(ではなく一つの所謂あれなのであるが)あり


「発起人昭和三十一年」の碑。大正期のものより痛んでいる。


「毛魂之碑」。毛根の魂を感じる!


この神社の境内で、さきほどのノラ猫のなみの次にきれいに調えられているそれは、「髪授神祠」。

案内板に曰く、

「日本一社 髪授神祠」

よっ、日本一!

「髪授神祠は、昭和三十一年四月に建立されました全国唯一の神社であります。」

たぶん京都にも毛髪関係のなんかあったけど……

「その神威は乳児の産毛を供え祈願する時は、其の子は一生美髪に恵まれ、若禿、白毛の防止、体毛の発育にも霊験あらたかであると古来より言い伝えられて居ります。」


すごい神威である。老人になっても美髪に恵まれるのである。逆に怖い気もするが、まあ言いたいことは分かります。体毛の発育は重要ですよ。いまは男の子も毛を抜いたりしてつるつるになりたがるそうですが、髪は神。身体髪膚これを父母に受くあえて毀傷せざるは孝の始めなり。自民党のあの方のように、自分に対する孝行がないからといって「コノハゲー」と言ってはいけませんが、むりやり引っこ抜いたりするのはよくありません。

「祭神は二神あり飽昨能宇斯神(アキグヒノウシノ神)と申し八百緒神の内、私達日本人に髪を授けられ、髪を御守り下さる日本最古の神様であります。」

日本最古か知りませんが、むしろさっき日本一とか言っていたように「日本最高」と言うべきではないでしょうか。アキグヒノウシノさんは、イザナミの腐乱死体をみてしまったイザナギが、噫けがわらしいといって、いろいろなものを投げ捨てたなかの、その冠から生成されたお方。今わたくしは分かりました。イザナギはカツラをかぶっていたのです。冠が毛に変化する訳はありません。あまりにもそれは言語的なセンスです。むしろカツラがスタップ細胞的に自ら頑張ったといって良いでしょう。わたくしも、よく、床屋でわたくしから離れた髪の毛は、ごみ箱の中で少しは生長するのではないかと思うのです。疎外されたものは自然生長すると文戦派も言ってます。

「又、理容業の業祖、北小路采女亮藤原政之を御祭りしてあります。」

北小路采女亮藤原政之は、鎌足の息子です。新羅の人から髪結い術を学び山口や鎌倉で髪結い所で大繁盛!理容業界の神様です。床屋さんが藤原氏の系統だと初めて知りました。そういえば、刀を使ってますからねえ……。

「尚、毛髪の霊を供養する「毛魂碑」が境内に建立されております。髪授神祠奉賛会」


毛髪は毎日少しづつ抜けてますから、すごい数の霊が居るんでしょうね……。「髪授神祠奉賛会」という言葉の響きがいいです。はつじゅしんじほうさんかい。もうこんはつらつふさふさだい、に似ているのではないでしょうか。


左手奥には、「大日大聖不動明王」と「大黒天」。確かに、不動明王は、産まで逆立つ感じで怒りまくっておりますねえ。中を拝してみましたら、けっこうスベスベした石が置いてあったのは、毛的にバランスをとったにちがいありません。

拝殿の右側に回り込んでいくと、素晴らしいものがありました。


お髪、いや「お亀大明神」


三〇センチぐらいの鳥居の皆さんをよくみてみる


昨日のこの方が必ずくぐっていったに違いありません。「鉢穴」に「お亀」とか色っぽすぎてひどすぎるような気がしますが、そんなひどい意味ではなく、たぶん水関係の……甕関係の……。そういえば、香川県には引田にも「お亀大明神」があります。


境内の右下方には、お地蔵さんがおりました。髪の毛はニット帽の下に隠れて見えない


この右下の草葉の陰にも↓


髪の代わりに、コノハで雨をしのぐのであります。

――猫、白龍、犬、髪、不動明王、亀、地蔵、……結局、ここまでくると神社というより、「髪、いや神様ランド」という感じです。

蜂穴神社を訪ねる1(香川の神社88-1)

2017-10-18 19:06:08 | 神社仏閣
昼休みに西宝町の蜂穴神社を訪ねました。


上の写真の向こうは、石清尾八幡宮。山道で繋がっているので、蜂穴神社はある種境内末社ともいえるかもしれません。

 
ここは猫が多いと聞いていたが、入り口あたりにもういました……


昭和七年の注連石

 
狛犬(平成八年)、岡崎型。左の方の手の下にいる方がいい。幸福な日本人民のようです


右側に井戸あり。

 
左側にはいろいろ並んでいる。


「大正二年発起者」

神社誌に曰く、
「傳ふる所によれば貞治元年細川頼之伊豫の河野氏と戦ひし時神夢あり、戦勝凱旋の後石清尾山麓に伊豫三島明神を勧請して奉齋せりと云ふ」

細川頼之は足利尊氏なきあとのごたごたに乗じてか何か分からんが、清氏を滅ぼしたりしたあと土佐と讃岐の守護となって、伊予を仕切っていた河野氏を打ち破って四国を平定する。このあたりの時代は南北朝の争いでもうめちゃくちゃであり、様々な人たちが複雑にいろいろなワルイことをしているに違いない。どうもわたくしの想像するところでは、応仁の乱以降の戦乱の世でみんな何に疲れたかと言えば、戦争にも疲れたが、あっちに気を遣いこっちをだましみたいなことに疲れたのだと思う。天下統一への希求は、そんな心情と関係があるに違いない。学級崩壊よりも管理教育の平和をとったようなものだ。実際、伊予の三島明神を祀ったところで、死者たちのあれはそこら辺を彷徨いているわけで、やりきれなかったに違いない。どうも、このあたりの地形は、ちょっと鬱蒼として奥まった感じがするから、その死者たちのあれを穴を掘って鉢で封をしたところから、「鉢穴」→「蜂穴」となったのではないかと勝手にわたくしの妄想が始まった……鉢は女性器の意味もあるが、さすがにそれだと蜂穴は卑猥すぎるからね……

「其の後社殿火災に罹り明治四十三年改築せり」

上の大正二年は、この四十三年の改築の後である。


「白龍大神」。真言が書いてあるから、弁財天の化身の扱いかもしれん。それにしても、日本の神社って蛇だらけだね……

――つづく

亀井戸水神社を訪ねる(香川の神社87)

2017-10-17 20:20:22 | 神社仏閣
昼休みに寄ってみた。丸亀町G街区にある。



Gとは、決してゴジラとかガメラとかガンダムとかグラッチェとかグラマラスとか言語道断とか、もちろんイヤラシイ意味でのGではない。丸亀町商店街の中央通り、中央公園に近いどんずまりの地区が、Aから数えてGに当たっているからである。一応プランとしては、サンポートから丸亀町商店街を経て常磐街・瓦町のラインを形成して盛り上がろうという訳であって、その常磐街と丸亀町をつなぐ役割をしようということなのであった。Gはグリーンの頭文字ということになっております。

という感じで、G街区開発のHPを見ながら纏めてみたが、どうも何商店街だか何とか通りが多すぎて、高松に住んで*年目になるにもかかわらず、全くまちなかの歩き方が分からない。飲み歩いたりしないせいもあるが、わたくしが八沢商店街と上町商店街を覚えればあとは山――みたいな地域に育ったせいもあるのではなるまいか。スーパーと言えば、「サンマートおじまや」?で、わたくしの商店街記憶メモリはいっぱいである。わたくしの頭は、文学やクラシク音楽のメモリーはたくさんあるようであるが、商店街の名前については、フロッピーディスクぐらいしかない。

わたくしにとって、ユーゴーとか永井荷風とかの空間把握力が変態じみてみえるのはそういうこともある。

案内板によると
「この亀井戸はわき水のでる穴が甕形の穴なので甕井(亀井)霊泉と呼び、その大きさはほぼ東西十八メートル・南北三十六メートルあり、土地の人々は井戸と呼び、主として高松市の東北部に給水したという。その井戸のそばに、頼重は水神社を奉り敬神した。祭神は伊弉册命の御子である水波能売神である。」


それはともかく、この神社は、そのG開発によって移転されリニューアルされたのであった。その計画書が以下の通りである。

http://marugamemachi.jp/jinja.html


以前の方がいいじゃないか……

でも気を取り直して、鳥居をくぐる。

 
いいね




亀さん発見


この口からぴゅいっと出るらしいのである。


左手に井戸あり。

 
本殿

とにかく、スカした感じで綺麗という意味では、この神社がいままで見た中では飛び抜けている。なにしろ、塵ひとつ落ちていないのだ。樹木もたくさん植えてあるが、その一つ一つに名札が付けられ整然としている。これでは、神様たちが草葉の陰から我々を監視することはできぬ。一番すごいのが↓の物。



G計画により、石碑をやめました。

スカしているというより、むしろスケている。いや、水のように澄んでいるのである。内容は、こんな感じらしい(上のHPより引用)。

解説(高松市水道史より)

「高松市街の中央に霊泉があり、この水は甘くかつ清くて、いまだ涸れたことがない。寛永十九年(一六四二)四月、高松藩始祖松平頼重はこの地に封を受け、町の人々が病んで苦しんでいるのを憂い、それは城下町東半分の民家の飲水が乏しいので暗溝で分水して飲水・すすぎに用いさせた。これは正保元年(一六四四)四月のことであり、以来二百五十年、その潤いを受ける者は、およそ二十ヶ町である。」

うんうん、だいたい知ってたよ。霊泉かどうかは知らないが……

「古老がいうには、昔は香東川がこの地の中央を貫流していて、当時は霊泉も川の東堤の下にあって、田の灌漑に用いられていた。天正十六年(一五八八)に生駒親正がこの地を治めてから、川の流れを香西郡に移した。今の香東川である。しかし霊泉は依然ここにあった。」

うん、霊泉強しっ

「また聞くところでは、神亀が出て游ぐゆえにこの泉を亀井という。泉の広さは、東西九間(十六・四メートル)、南北はその2倍あり、浮き草が群生して虫や魚の住みかとなって、飲水にすることができなくなってしまった。これは泉からわき出る水が多く、使用する者が少ないから、常に汚濁しているのである。」


あらっ!その亀さんがいろいろな生物を呼んできたに違いないよ……

「明治十六年に水利土功会を創設し、各町の分水地区から議員を選任し、その工事の協議をしばしば行ったが、水量が多いから改築して縮小すれば、もとのように水は清く澄むが、しかし減量しすぎて給水に困るようになる恐れもある、として協議はまとまらなかった。明治二十三年五月、余(赤松渡)が高松市長に就任し、この水の汚濁を憂い、友人や部下にも相談して施設の方法を計画して、これを土功会議員に謀ると、諸氏ももともと水の汚れを憂慮していたので、すぐに同意し、明治二十四年七月に工事に着工、幾月かかけて完成させた。泉は四間(七・三メートル)四方に縮小し、周囲を石垣で築き、板屋根で覆った。これによって水は鏡の如く澄んで注ぎ出るようになり、水量も各町で使用しても不足にならなかった。(中略)この泉を復興し、昨日まで濁っていたのが今日澄んだのは、これ高松市の隆盛の兆しであり、余は喜んでその顛末を記し、もって議員諸氏の偉績を後世に伝える。明治二十五年」


赤松さんさすがです。やはり何とか長になって議員に謀るというのがいいですねっ。「繰り返しになりますが、私や妻が関係していたということになれば、まさにこれはもう私は、それはもう間違いなく総理大臣も国会議員もやめるということははっきりと申し上げておきたい。」赤松さんも今は辞めている。

ロビンソンと島の人

2017-10-17 05:19:09 | 映画


学生が推薦していたので観てみた「オデッセイ」。監督はエイリアンの人。『コヴェナント』もそうだが、創造主への反抗とかロビンソンクルーソーの世界をまだまだ続けていくつもりがすごい。『オデッセイ』は、この物語に中国まで巻き込んでいる。ここでも潜在的な、というか、あからさまテーマは、ある種の狂人が世界を救うというやつで、遭難した植物学者もちょっと空気の読めない変な人だし、救出プランの決定打を案出するのはあからさまに「アスペルガーでござい」みたいな男。気持ちは分かるのであるが、もっと下働きでうんうんうなってる連中が居るであろうが……。ああそうですか、そういう人は死んでも構わんと?

Vivre ? Les serviteurs feront cela pour nous.

生きることか?そんなもんは召使い共に任せたね。

花★■輝が、別の文脈で使用してしまったのであれなのであるが、これはたしか、リラダンの「アクセル」が愛のための自殺かなんかするときの台詞なのである。ここで「召使い」(公務員?)とか言ってしまうあたりが、ロビンソンとか公務員批判ばかりしている日本の人民みたいでいやである。こういう輩がいつ「死ぬことか?そんなもんは召使い共に任せたね」とか言いはじめるかわかったものではない。ただ、まだアクセルの台詞は孤独が感じられていいと思わないではない。



高松でも『海辺の生と死』の上映が始まった。わたくしは、島尾ミホの同名原作を読んでも吉本隆明みたいにはすげえとは思わなかった記憶がある。しかし、特攻前の島尾隊長とミホの最後の逢瀬を描いた「その夜」なんかが、万葉集のようではない「細密画」であるという吉本の言い方はよくわかった。島尾ミホが「アマテラスが岩屋戸から出現なさった時もかくやありなむ」云々とか、自分はいなばの白ウサギみたい、とか呟き、海にむかって和歌を詠み出す様は、見かけよりも、近代的な「国文学・皇国少女」みたいな側面があるのだと私は思うのであるが、この映画では、天皇や古代文芸に関する彼女の側面がやや後ろに引っ込んでいるようにみえた。この側面が後ろに退くと、細密画はややメロドラマになってしまうと思う。この映画は、編集前は3時間のバージョンがあったらしい。わたくしも、上映版の150分では短すぎると思った。たぶん、少なくとも、最後の逢瀬、終戦の場面はあと30分ぐらいは必要だったような気がする。ミホが島尾隊長と共に死んでもいいと思ったのは、心中というより、島の他の人間も集団自決の可能性があったからに他ならない。このことも重要である。これを神話の中に生きる人々の心性に頼って説明するべきではない気がする。

わたくしは、「死ぬことか?そんなもんは召使い共に任せたね」という台詞の意味がある時が思った。死んでも我々は草葉の陰や山には帰らないとわたくしは思う。平田篤胤の言っていることは嘘っぱちである。

満島ひかりさんは、座ったり熱出して寝転んだりする演技がすごかった。なぜか分からんが、わたくしは、そこに「戦前」を感じた。