さぬきいろいろ15
大学からの帰り道……地神さんが見えた。
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処方箋を神様が受け付けているのではない……
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傍らに、紀元(皇紀)二千六百年記念。当時、こういうものもつくっとかないといけなかった理由は何であろうか?本気だったのか、空気を読んだのか?同調圧力か?現在を参考に考えると、ほとんどの人にとっては、「なんとなく」なのであろう。神経質な「空気を読む」などというのはもっと限られた場合なのである。
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地神さんが居るのは、三条北部地蔵堂集会所の敷地内である。地神さんのあつまりがそのまま自治の単位だったのはよくある話であろう。だから、そこは一種の入れ物なのであって、地蔵でもなんでも入る。あるいは、地蔵が入れ物でそこに地神が入るのか。いまは後者の形態をとっているようだ。
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処方箋を神様が受け付けているのではない……
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傍らに、紀元(皇紀)二千六百年記念。当時、こういうものもつくっとかないといけなかった理由は何であろうか?本気だったのか、空気を読んだのか?同調圧力か?現在を参考に考えると、ほとんどの人にとっては、「なんとなく」なのであろう。神経質な「空気を読む」などというのはもっと限られた場合なのである。
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地神さんが居るのは、三条北部地蔵堂集会所の敷地内である。地神さんのあつまりがそのまま自治の単位だったのはよくある話であろう。だから、そこは一種の入れ物なのであって、地蔵でもなんでも入る。あるいは、地蔵が入れ物でそこに地神が入るのか。いまは後者の形態をとっているようだ。
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雨をついて栗林小学校近くの金山神社に行きました。
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昭和三十九年の注連石あり。
http://www.takamatsu.genki365.net/
ここの資料(新川代仕子さん)によると、
「金山神社は地元有志らの芳志により建立、昭和28年7月神社庁より宗教法人「金山神社」として承認されました。」
戦前の香川神社誌に載ってないから、戦後にできたのかも知れませんね。
「古くは神社一帯、畑と竹藪にヘビが住んでいたと伝えられ、数年前までヘビのお供え物として卵をおまつりする氏子も見られました。「金山」の由来は、同所近辺に分銅を作ったり、獅子舞の鉦などを造る鋳造所が多くあったことから名づけられました。」
このあたりは、「木」か「蛇」が関係している神社が多い気がするね……。わたくしの実家にも押し入れやタンスに蛇がおったねえ……。
「境内には、樹齢百年を超えるセンダンの大木があり、神社のシンボル的な存在になっています。」
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これですね……雨粒が激しく落ちてます
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拝殿
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本殿
金山神社なので、たぶん祭神は金山毘古神なのでしょう。火の神を生んだイザナミの吐瀉物から生成されたお方。こんなものからも神が出てしまう日本はすごい国です。歓楽街でこの神様を道路に吐き散らしている方も神様を生成しようとしているのに違いありません。そういえば、金山神社と言えば、神奈川県川崎の金山神社の「かなまら祭」が有名です。ここまでくると木でも蛇でも
この後、わたくしは日本近代文学史の授業を行いました。
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小松左京は、『原爆の子』を見て「腹が立って、唾を吐いた」らしい。そして、原作を同じくする別映画「ひろしま」の方もあわせて、もっと化け物映画にすればよいのにみたいなことを言っている。お岩さんや化け猫が居る程度の化け物映画しかない当時はちょっとナンセンスな意見にも思えたのかもしれないが、小松左京の脳裡にはもっとものすごいものが去来していたに違いない。私見では、小松左京の脳裡にあったようなものは、多くの原爆映画やゴジラ映画によっては実現されず、シュルレアリスムの画家がデザインした「エイリアン」によって実現されたと思うのである。
原爆でも空襲でもそうだが、雨のように降ってきたわけじゃなく、我が国は恐ろしい敵に包囲されて「ヤラレ」たのである。こっちが手を上げたので、相手はチョコレートをくれただけのことだ。相手はいわばエイリアン――当時で言えば「鬼畜」だったのである。もちろん、相手にとってみりゃ、我々の国は今の北朝鮮なんかが日和見主義者にみえるほどであった。なにしろ、妙に統率のとれた融通の利かない猿が爆弾持って突進してくるのである。殲滅するしかない。
この前、「エイリアン・コヴェナント」を観てきた。
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趣向は相変わらずの伝統藝な感じで、あんまり怖くなくなってきたが、もはや問題は恐怖ではなくなっているからでもあろう。あるいは、わたくしが恐怖というものを忘れかけているのか?
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昨日は、授業のために、ここらあたりから復習してみた。考えてみると、チャペック以来、「ロボット」が人造人間というコンセプトを持つ限り、恐怖は減殺されていく可能性がある訳である。人間、ひいては自分が一番恐ろしい、とは本当であって半分嘘である。
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栗林公園の近く、花の宮にあります。
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燈籠(結構古い)
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鳥居(安政五年)、拝殿と本殿。
案内板にいわく、
「伝ふる所によれば、昔此地より東一帯は香西氏の武将唐人弾正の所領にして、父祖数代上村城(琴平電車栗林停留所南約一丁)に居住し、唐渡氏(弾正姓を唐渡と言ふ)の鎮守神として天児屋根命、応神天皇の二神を奉齋せしが明治十三年七月現今の地に奉齋せらありし天照大神の社殿合祀せられしものなりと言ふ。」
実際のところ、合祀してよい、だめはだれが判断できるのであろうか?勝手にやってよいのであろうか。唐人弾正は、秀吉の四国征伐のときに、屋島の方の昔の高松城(喜岡城)に救援に行った。秀吉軍は、宇喜多秀家・蜂須賀正勝・黒田孝高、最後には仙石秀久(
当社に於ては、眼病平癒の神として伝えられています。信念を持って拝願せられたし。
はいっ
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境内社、というより案内板によると、こちらが眼病平癒の神みたいです。本殿にいるのがアマテラスで、こちらが天児屋根命、応神天皇なのかもしれない。
三社神社の後ろをふり返ると、巨大な楠がある。
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立派に囲まれているから、これはこれで、三社神社とは別の括りに見える。「楠大荒神」らしい。荒神様ですね。
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カメラに収まりきらない威容です。一回切られたあとがあるような気がするが、それでもモノともせず伸びたみたいです。
案内板によれば、この大木は戦国時代のものらしい。案内板が建てられた平成元年三月の時点で、周囲6メートル45センチ。高さ、70メートル(これは書き直されていた)。ここらは、郷東川の堤だった。そこに生えていたのが今でも頑張っている。やっぱり説明によると、三社神社の御神木だった。たぶん、高さは25メートルといったところか。
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境内末社の神々
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藤ノ木神社は、栗林町にあります。上は拝殿かと思われます。
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裏に回ると本殿が見えました。
『香川県神社誌』によると
創祀不詳。古くは香川郡上ノ村字深田(楠上町)に鎮座せしが、明治十三年七月二十三日現地に遷座の上社殿を改築す。
楠上町とはいえば、楠川神社のある地区である。そこからやってきたらしい。なぜだろう……
というより、びっくりしたのは、本殿近くに、これが立てかけてあったことであった。
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首を横に傾けて読んでみると、これは、例の松平頼重(水戸黄門の兄で、生駒騒動のあとの高松城主)のお母さん(久昌院)を弔った法華経のお寺の案内板である。――お袖狸を一緒にまつってあると書いてある。なんでここにあるのだろうと思って、横の草むらをみたら
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お袖……がいた
恥ずかしながら知らなかったので、調べてみたら、中野天満宮の近くにちゃんとこのお寺(廣昌寺)はあるようだ。そこにちゃんとお袖狸もあり、案内板も建っている。http://jaimelamusique.blog.fc2.com/blog-entry-571.html 今はないのであろうか?今度行って確かめなくては……
それにしても、お袖狸がなぜ?お袖は、松山市役所の前にいるのではなかったのか?
「小幟や狸を祀る枯れ榎」
「餅あげて狸を祀る古榎、紙の幟に春雨ぞ降る」
「百歳の狸住むてふ八股のちまたの榎いまありやなしや」
以上は子規の作品であるが、なにか彼の合理主義のイヤミがいやだ。もっとも、このお袖は、松山の「坊っちゃん」にでてくるアホ学生のなれの果てであろうお馬鹿が、昭和九年頃、伊予鉄道の工事を拡張して、お袖の住処である榎の木を切り倒そうとしたところ、工事関係者が次々に病気になったり怪我をし続けたのである。
http://home.e-catv.ne.jp/ja5dlg/tanukikai/osode/osode3.htm
によると、「堀之内の連隊営所から見ていた憲兵隊が、狸の崇りなどとは片腹いたい、日本軍人の名誉と沽券にかけても伐り倒して見せんずと買うて出たが、これまた木から落ちたり片腹どころか両腹まで痛み出す兵隊が続出して手を引いてしま」ったらしいのである。お袖恐るべし。たぶん、憲兵隊の朝食に糞でも入れたのではないか。そのあと、松山を去ったお袖であったが、昭和二〇年春、戦争に負ける頃であろうか、神も仏もない単なる地獄絵図があちこちで展開されているなか、伊予大井(今の大西)駅に美しい女学生が降り立った。お袖であった。その頃の女子学生といえば、茨木のり子さんのように、
わたしが一番きれいだったとき
わたしの頭はからっぽで
わたしの心はかたくなで
手足ばかりが栗色に光った
わたしが一番きれいだったとき
わたしの国は戦争で負けた
そんな馬鹿なことってあるものか
ブラウスの腕をまくり卑屈な町をのし歩いた
みたいな感じだったのであった。それに対して、お袖の色っぽさは、見た人が一瞬でお狸お袖と分かる程だったのである。人々は、伊予大井駅の近くの山の明堂院に殺到した。
……と想像したのであるが、どうやら、その女学生が伊予大井駅に降り立ったのは、松山を追い出されてすぐのことらしい。満州事変、五・一五、恐慌、そういえば一時期カタルーニャ州はこの時期に独立している。まもなく二・二六事件であるが、そんな中で、美しい少女が駅に降り立った。お袖であった。その頃の少女と言えば、男と戦艦に乗って闘うみたいな小説もあるにはあったが、
「まあ、おひとが悪いのねえ。」少女は、酒でほんのり赤らんでいる頬をいっそう赤らめた。「私も馬鹿だわねえ。ひとめ見て、すぐ判らなけれあ、いけない筈なのに。でも、お写真より、ずっと若くて、お綺麗なんだもの。あなたは美男子よ。いいお顔だわ。きのうおいでになったとき、私、すぐ。」
「よせ、よせ。僕におだては、きかないよ。」
「あら、ほんと。ほんとうよ。」
「君は酔っぱらってるね。」
「ええ、酔っぱらってるの。そして、もっと、酔っぱらうの。もっともっと酔っぱらうの。けいちゃあん。」他のお客とふざけている日本髪の少女を呼んだ。「ウイスキイお二つ。私、今晩酔っぱらうのよ。うれしいことがあるんだもの。ええ、酔っぱらうの。死ぬほど酔っぱらうの。」
太宰治は、危機的な時代の空気を思い切り吸い込まざるを得ない状況にあった。「死ぬほど酔っ払うの」にも思想を感じるほどの状況である。よって、当時の農民たちも、お袖の色っぽさは、見た人が一瞬でお狸お袖と分かった。人々は、伊予大井駅の近くの山の明堂院に殺到した。一年後、たぶん松山のアホ学生のなれの果ての陰謀であろうが、お袖は松山に帰ったということである。しかし、果たしてそうであろうか。お袖は、松山ではなく、高松に来ていたのである。
そして、なぜか今は、藤ノ木神社の横に仁王立ち。
藤塚町に槻本神社を訪ねる。
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正一位であります。拝殿の下に「定礎 昭和四十三年」とありました。この神社はいまはうえのように可愛らしくなっているのだが、波瀾万丈の歴史を持つもと村社なのである。『香川県神社誌』で、中野天満宮の次に記載されているところからみても、その重要さがうかがわれる、かもしれない。
「創建年代詳ならず。或は孝安天皇御宇の鎮座とも云ふ。」
神武綏靖安寧懿徳孝昭孝安……第6代天皇!欠史八代だけどというか、いつ頃だろう……すごく昔だぞこりゃしかし、ティラノサウルスよりは後であろう
「符宣抄に「太政官符神神祇官正六位上槻本地祇坐 讃岐国 今奉授正五位下 延喜二十年二月十五日下」とあるは當社なりと言へり。」
延喜年間に飛びましたな……。醍醐天皇ですね……。
「中古森本大明神と称せられ、文久四年の神祇官よりの朱印状に正一位森本大明神とあり。」
文久年間に飛びましたな……。
「古くは篦原郷の總鎮守たりしも、細川頼之石清尾八幡神社を再興して氏神とせしより當社は自然衰微の運命をたどれりと。」
細川が四国に来なければ…。かわいそうである。
「別當行泉寺の記録によれば、讃岐二十四社の隨一にて荘内の鎮守たりしが頼之石清尾八幡宮中興以来衰微して東濱村瓦焼(瓦町)の南に小社として残りしを 寛文七年御検地の節、往古より御除地の旨申立 上ノ森本免に替地を被下 享保年中失火の為め棟札等焼失云々と記されありと。」
森本大明神だったのは、このせいであるな。それにしても、八幡の勢いに押されて土地を追われ、火事にも遭って踏んだり蹴ったりである。
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「武運長久」とあり。これはもしかして、八幡に対する当てつけであろうか?
「玉藻集に「往昔東濱中野両村之中間 方百間計其城外諸木繁茂して其神社宏麗也と年暦修造絶て云々」とあり。鎮座地又数度の變遷あり且郷東川の洪水に流され漸次衰ふるに至れり。」
ついに、ゆとり郷東川の気まぐれにも流された。案内板に貼られていた谷本博氏の文章によると、この洪水は元禄十一年、社殿が流出し不毛の土地となり、地名だけが残る有様だったそうだ。谷本氏の文章の横に貼られていた「栗林風土記」によれば、「御神体が行方不明になる」と評されている。そして、このあと享保年間に火事があったんである。もうだめだ……
「一説には、當社は槻本公の後裔坂田氏の創祀せしものに非ずやと云ひ、坂田郷は古くは現在よりも餘程北寄なりきと云ふ。」
……まあ、それはもはやどうでもいいんですが、明治十一年に王政復古の勢いを借りてかしらんが、ついでに森本大明神の名前も捨てて「槻本神社」になりました。谷本氏の文章に拠れば、『古今讃岐名所図会』に、ここらで井戸を掘ると、連抱以上の槻の木が出るんで、よほどでかい森に囲まれた社であった違いない、と書かれているそうだ。森本よりも槻本の方がかっこいいし、それでいいか……「栗林風土記」によると、明治十三年に村社。昭和二年に改築がされて、平方一七〇メートルの神社として完全復活を遂げたのであった。
が、しかしっ、昭和二十年七月四日未明(以下略)
20年後、昭和四十三年、当時の高松市長と有志の浄財によって、いまの社殿として復活。
チンピラ大名達の勢力争い、それによって復活したデカい神社による氏子強奪、洪水、火事、神仏分離、大空襲、戦後世界、などなどの苦難を絵に描いたような神社であった。ここから、怒濤の逆襲のためには、まずは流された御神体を取り戻し、石清尾八幡神社よりも参拝者を多くして、人々に浄財を……
そんなことをしなくても、小さい神社でいいと思うのである。もともと森の中の小さい可愛らしい祠であったはずなのである。人間に合わせて滅びることはありません。
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接写すればでかく見える
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正一位であります。拝殿の下に「定礎 昭和四十三年」とありました。この神社はいまはうえのように可愛らしくなっているのだが、波瀾万丈の歴史を持つもと村社なのである。『香川県神社誌』で、中野天満宮の次に記載されているところからみても、その重要さがうかがわれる、かもしれない。
「創建年代詳ならず。或は孝安天皇御宇の鎮座とも云ふ。」
神武綏靖安寧懿徳孝昭孝安……第6代天皇!
「符宣抄に「太政官符神神祇官正六位上槻本地祇坐 讃岐国 今奉授正五位下 延喜二十年二月十五日下」とあるは當社なりと言へり。」
延喜年間に飛びましたな……。醍醐天皇ですね……。
「中古森本大明神と称せられ、文久四年の神祇官よりの朱印状に正一位森本大明神とあり。」
文久年間に飛びましたな……。
「古くは篦原郷の總鎮守たりしも、細川頼之石清尾八幡神社を再興して氏神とせしより當社は自然衰微の運命をたどれりと。」
細川が四国に来なければ…。かわいそうである。
「別當行泉寺の記録によれば、讃岐二十四社の隨一にて荘内の鎮守たりしが頼之石清尾八幡宮中興以来衰微して東濱村瓦焼(瓦町)の南に小社として残りしを 寛文七年御検地の節、往古より御除地の旨申立 上ノ森本免に替地を被下 享保年中失火の為め棟札等焼失云々と記されありと。」
森本大明神だったのは、このせいであるな。それにしても、八幡の勢いに押されて土地を追われ、火事にも遭って踏んだり蹴ったりである。
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「武運長久」とあり。これはもしかして、八幡に対する当てつけであろうか?
「玉藻集に「往昔東濱中野両村之中間 方百間計其城外諸木繁茂して其神社宏麗也と年暦修造絶て云々」とあり。鎮座地又数度の變遷あり且郷東川の洪水に流され漸次衰ふるに至れり。」
ついに、ゆとり郷東川の気まぐれにも流された。案内板に貼られていた谷本博氏の文章によると、この洪水は元禄十一年、社殿が流出し不毛の土地となり、地名だけが残る有様だったそうだ。谷本氏の文章の横に貼られていた「栗林風土記」によれば、「御神体が行方不明になる」と評されている。そして、このあと享保年間に火事があったんである。もうだめだ……
「一説には、當社は槻本公の後裔坂田氏の創祀せしものに非ずやと云ひ、坂田郷は古くは現在よりも餘程北寄なりきと云ふ。」
……まあ、それはもはやどうでもいいんですが、明治十一年に王政復古の勢いを借りてかしらんが、ついでに森本大明神の名前も捨てて「槻本神社」になりました。谷本氏の文章に拠れば、『古今讃岐名所図会』に、ここらで井戸を掘ると、連抱以上の槻の木が出るんで、よほどでかい森に囲まれた社であった違いない、と書かれているそうだ。
が、しかしっ、昭和二十年七月四日未明(以下略)
20年後、昭和四十三年、当時の高松市長と有志の浄財によって、いまの社殿として復活。
チンピラ大名達の勢力争い、それによって復活したデカい神社による氏子強奪、洪水、火事、神仏分離、大空襲、戦後世界、などなどの苦難を絵に描いたような神社であった。ここから、怒濤の逆襲のためには、まずは流された御神体を取り戻し、石清尾八幡神社よりも参拝者を多くして、人々に浄財を……
そんなことをしなくても、小さい神社でいいと思うのである。もともと森の中の小さい可愛らしい祠であったはずなのである。人間に合わせて滅びることはありません。
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接写すればでかく見える
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讃岐府中駅の近くにあります。仕事の帰りに寄りました。鳥居大正五年。
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明治三二年五月の狛犬。浪速型。
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お祭りモードであります。
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狛犬と鳥居を過ぎて若山橋。小川が流れている。
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面白そうな立て札あり。
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燈籠(寛政三年)。明治三十六年の注連石もあり。
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拝殿
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本殿
由緒案内によると、
「創建については、長和から長元年間(1020年頃)、中納言藤原宅成、又永世から天喜年間(1050年頃)、時の国司藤原家経によって京都の石清水八幡宮の分身を、勧請し城山の社を本宮に、当社を新宮としたという二、三の説が伝えられている。」
家経といえば歌を詠む人で
今よりは心ゆるさじ月かげの行方もしらず人さそひけり
という歌がある。月に誘われふらふらとどこをほっつき歩いていたのかはしりませんが、まわりの人は大変だったでしょう。
「源頼朝は、武神として八幡神を尊崇し、これによって各地に祀られ讃岐でも一郷十八幡に始まり今ではその数100社を越えて祀られている。」
漁夫の利男・頼朝が八幡を頼っていたおかげで、全国には四万(案内板によると)の八幡がある。ここの神社の祭神も、足仲彦天皇、息長足姫命、譽田天皇。すなわち、応神天皇の父母本人である。武神になっている。しかし八幡といえばなんといっても、道鏡がらみの宇佐八幡神託事件であろう。宇佐八幡の神はなんと「道鏡という坊主を天皇にすればイイよ」と言ったというのである。ワケのキヨマロが「嘘でした」と言ったので道鏡は天皇にならずにすんだ。坂口安吾は「道鏡」で面白おかしく終戦直後にそれを小説にしたが、私は、むしろ、宇佐八幡の神が本当に道鏡を天皇にしようとしたのではないかとも思うのである。天皇は道徳的な神である必要がある。もういっそのこと、坊主の道徳を身に纏い……と考えても不思議はないっ。だいたい、ワケのキヨマロの前に出現した八幡神は9メートルの坊さんだったらしいではないか。(参考:昨日読んだよ内田樹『街場の天皇論』)
庶民はさすがにその八幡神の言いたいことを分かっていた。そして、――習合して、八幡大菩薩の誕生である。
ところで、道鏡はきょ★んだという説があり、かわいそうなことに「ドウキョウオサムシ」とかいうのもいるのである。しかし、まだこれは人々の一部の願望を表していて悲しい。平田篤胤の『霊能真柱』の後半など見ると、「「やをれ、夷の頑たぶれ、辛き目見せむ」と雄建びつゝ、賊の軍の中に翔け入りて、蟻の集へる奴原を、八尋の矛をふりかざし、かの燒鎌と敏鎌を以ちて打掃ふことの如く、追ひしき追ひ伏せ、犬と家猪とのものつかせ、或はしや頭ひき拔きすて蹴散かし、うち罰め、山室山にかへり來て、老翁の命に復命まをしてなまし。あな、愉快きかも。」と何だか、こわい。悲劇に襲われると人はなにを想像するか分からない。ドウキョウオサムシも暴れるのも大して違いはないかも知れないが、前者により悲しみを見るのが坂口安吾であろう。よく分からんが……。とにかく、何かに「勝つ」ために八幡に祈る人は多い。しかし、「不良少年とキリスト」の安吾ではないが、誰に、何者に、勝つつもりなんだ。
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乃木大将の「従軍記念碑」(明治三六年三月)。善通寺の第十一師団師団長となっていた乃木希典であったので、この碑も揮毫しておる。「明治二十七、八年の役」(日清戦争)に従軍して凱旋した此の地の人たち二十人の記念碑らしい。撰文と書は丸亀中学校の先生二人が分担している。学校の先生がこういう役回りをしていたのだ。
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地神社
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中に小太りの
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お昼休みに寄ってみました。注連石は、昭和五八年。政治家でもあった巌谷修(一六)の書らしい。
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この神社は小さいけれども有名で、江戸時代の井戸の遺構だからなのである。
高松市教育委員会による案内板によると、
「天正十五年(一五八七)讃岐の領主となった生駒家初代親正は香東川の砂洲上に高松城を築城して城下に武士・町人などを住まわせ城下町をつくったが、香東川がしばしば氾濫して治水に苦しんでいた。」
香東川というのは、いまは高松市の西側しか流れていないが、初代生駒さんの時代は、香川町大野のあたりで二つに分かれ、紫雲山の東側を流れ下って高松城の西側で海に行き着いていたのである。で、本気の流れ方というものを知らんこのあたりの川の特徴で浅いところをうだうだとしまらない「ゆとり中学生」の如き流れ方をしているものだから、急に雨が降るといきなり焦って流れて暴れ川になってしまうのだ。急に勉強してうまくいかず親に八つ当たりをする中学二年生みたく全く使えないやつである。で、しょうがないので、
生駒家四代高俊公(一六一一~一六五九)のとき、家臣西嶋八兵衛に命じて分流する香東川の川筋を香川町大野で一方を塞き止めた
美少年踊りの高俊さんもやる気をだせば意外と良いことやれるのであって、辣腕土木技術者である八兵衛(
が、このため城下の飲料水の質が悪くなったので町の各所に井戸を掘り、傍らに水神社を祀った。
その後、松平頼重公が寛永十九年(一六四二)に高松藩主になり、町の発展にともなう城下町の飲料水対策として、旧川筋に大井戸・亀井戸・今井戸などの給水池を整備し、地中に土管や木樋・竹管などを埋めて町々に配水した。
さすが、松平!
この時を始めとする藩政時代の上水道は、その後引き続いて使用されていたが、現在の上水道が普及するにつれて順次すたれ、水源池となっていた井戸も大井戸を残すのみとなった。
盛者必衰ですね……。しょうがないです。早明浦ダム万歳!
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安全柵や金網に守られた井戸の向こう側に小さい本殿がある。
祀られているのは、一応「水波能賣神」のようである。イザナミの尿から生まれた人である。しかし、どうみても、高俊=八兵衛のコンビが恩人ではないか。
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碑によると、第二次大戦後、放置されて消滅の危機にあったらしいのであるが、昭和五〇年に史跡認定。井戸と神社集会所を復興したらしい。上の集会所もそのときのものであろうか。どの程度消滅の危機にあったのかは分からないが、家が周りに押し迫っているのをみるとだいたい想像がつく。
集会所の正面にも注連石のようなものを用いた入り口がある。そこに掛かったアーチがなんとなく趣がある。
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農村地帯を行く……左手に見えてきているのが、由良山である。由良山は、1980年頃まで「由良石」の産地で人気であった。採掘が進み、山塊の一部が、一瞬オーストラリアに来たかと思うような恐ろしげな風貌になっている山である。皇居の東庭に使われていることは有名だし、広島原爆の、あの人影が映っている石は由良石だそうだ。
神社に着いた頃は片付けしてた……。が、まだまだおじいさん?達を中心にして元気に騒いでいた。子どもが少ないがこんなもんかもしれない。
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神社の左手の登山道を少しゆくと、「由良角力土俵場跡」がある。
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明暦三年(1657年)生まれの「鎌倉一学」であるが、なんと子孫が記念碑を建てていた……
いま気づいたんですが、角力って、目をこらすと「雨力」にみえる。
昨日ちゃんと見なかった部分をよく見る。
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拝殿の象さん
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酒呑童子さん
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なんだかいやらしげに巻き付いている植物さん
そしてあっち側に少し入りかけているという雰囲気のなかで群れている地蔵さんたち
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大師堂のみなさん
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昨日まじまじとは見れなかった「玉取りの龍」。
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この作品は、「逆巻く怒涛と玉取りの龍」とも言われるらしいが、作者の内伝秀蔵は、西浜村の出身。牟礼の仁平という石工の弟子で、京都で絵を勉強したあと30歳で讃岐に帰ってきて由良山の南に住んだらしい。昨日見た、甕塚玉垣にある「剣巻龍」や神社入口にあった「正一位清水大明神碑」の狛犬も彼の作品らしいのであるが……(https://keijiban.e-topia-kagawa.jp/bbs/myblog/54834/?blogid=404297)
やっぱり優秀な個人がいるかどうかですね……、先日、阿修羅像には光明皇后の母の愛が込められているとかテレビでやってたけど、母の愛で作品が創れたら誰も苦労はせん。つくった職人の技量、というか魂ですっ
境内社が沢山の清水神社であります。
拝殿の左側には、すぐさまこれ。
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皇太子、雅子妃ご成婚記念の玉垣のなかには
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「開運碑」
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併せて「しあわせの泉」なるものがあるが、この水の中にはなんだか犍陀多がいる気がする。確かに、暗鬱なるもののなかに安楽もありますよね……
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「天神社」。
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鳥居が素晴らしい。
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詳細は不明だが、徳島にいくつか天神社というのがあって道真を祀ったものなので実質天満宮である。これはどうなのか……分からない。燈籠には、慶応元年とあった。
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これは明らかに「金刀比羅社」。御大典記念(昭和三年)の碑もあった。
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左側にある玉垣の部分がたぶん「玉取龍」(内伝秀蔵作)だろう。龍の住むという由良山……。
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私が頭をぶつけそうになる小さな鳥居。
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正面にあるからたぶんこれが金刀比羅社……
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詳細は分からないが、案内板の記述から推測するに、左手が「歓喜天」、金刀比羅宮を挟んで「弁財天童子」や「不老長寿祈願之神」かな?最後の二対の神社の左側は「天之吹男神」であろうか。イザナギとイザナミとの子で屋根の神様ですね……右側は「雨之……」とみえる。アマノなんとかは沢山いるから分からんね……
いや「歓喜天」があるのがすごいなあ
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そしてこちらが、清水神社といえば必ず言及される「甕塚」です。この神社、「雨乞いの神さん」と呼ばれているのであるが、そこには恐ろしいお話が……
高松市教育委員会による案内 https://www.city.takamatsu.kagawa.jp/6138.html に依れば、
「清水神社は由良山を背にした社である。祭神は景行天皇の皇子の神櫛王で、社伝では、祭神の後孫が甕12口の神酒を奉奠したとされる。」
この景行天皇の息子の墓は、牟礼にある。この人は瀬戸内海の悪いお魚を退治した伝説があるお人で、瀬戸内海の島の海賊をやっつけたり征服したことがあったのかもしれない。それはともかく、子孫がお酒をくれたそうなのであった。
「清水神社の別当寺の自性院の記録によれば、承和8年(841)は大旱魃で、国司の命により空海の弟の真雅によって雨乞いを行うことになった。」
ここでお大師様(の弟)!出現!
「雨乞い神事の際に神櫛王ゆかりの甕を使って祈ったところ大成功したといわれる。」
この前も、観賢和尚がなにか神事と合体したエピソードがあった気がする……
「その後、天正年間(1573~92)に長宗我部元親の兵火にあい、神櫛王ゆかりの者が酒を醸していた甕12個のうち3個を残して社殿は焼失した。」
長宗我部、またお前かっ、という感じであるが、仏教も神道もモノともしないその主体性、文科省推奨のアクティブラーニングでも受けて育ったのであろうか!!
「残った3個の甕を里人たちは大切にお守りしていたが、今度は風水害にあって1個を破損してしまった。」
あー、高松も少しは雨が降るんだよ。油断したなあ~
「残った2個の甕を本殿南側の甕塚に納め、再建した清水神社の本殿床下に破損した甕を埋めた。江戸時代には高松藩の社寺で祈祷をしても雨が降らないときに清水神社で雨乞いをしたとされる。雨乞いの際に、上御盥、中御盥、下御盥から神水を取り、甕を洗えば必ず雨を得たが、甕を洗ったものは必ず亡くなるという伝承がある。」
甕塚の南側には、寛政二年の詳細な経緯を記した碑があって、七日間祈っても全く降らないので甕洗いをしたらいきなり降った。で、その神威に報いるため玉垣を造ったなどと書いてある。――とかなんとかはどうでもいいのだ。――突然おそろしい話がくっついているではないか。本当は誰かいたいけな少女などを★柱にしてたのではなかろうか。聞いたところによると、ここの雨乞いは百発百中である代わりに人が死ぬので最後の手段だったとか。しかし、まあ、話が面白すぎるのが気になりますね。教育委員会が昨年度末に出した報告書には、屋島や他にも似たような伝説があるなどと記されている。……いずれにせよ、早明浦ダムの方がやっぱ良い。近代科学文明万歳!
「平成24年の神事に際し甕を発掘したところ、2区画に分かれた竪穴の石室を検出し、それぞれから甕が出土した。いずれも7世紀の須恵器で、復元できた南側の甕は器高107.6センチ、胴部最大径95センチを測る。甕は神事後再び甕塚に埋納されている。」
おおっ、七世紀に景行天皇の子孫がいたということであろうか?まあ、いてもいなくてもいいのであるが……。というより、むしろ注目すべきは、この『雨乞い神事』が昭和十九年まで行われていたことの方であろう。(塚の近くにあった「雨乞い神事」の碑より)甕を洗った記録まで碑になっていたが、そのなかで明治八年八月の記録がある。この大干魃の時には、「大いに霊験を蒙りたり」と『香川県神社誌』に書いてあった
『神社誌』が書かれた頃は、まだ現役の方法だったのである。
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塚の囲む垣にすごくいい彫刻があった。
「祭神「水汲女」は水の神「龍神」であるから、この社には石に刻まれた龍の彫刻が多い。しかし、何れも風化が強い。寄進者の久保良輔の名前から江戸末期の作品と考えられる。甕塚を巡る玉垣の中に剣に龍が巻きついた彫刻のある石柱は元来は本殿北側最内側に立っていたのであるがこれも風化が強い。この像は、「倶利迦羅龍王」の彫像で、剣に龍が巻きつく姿は「密教事典」によれば、外道を意味する剣を仏教の守護神である明王が蛇身となって呑まんとしているところである。(『川島町史』)
この神社は、今まで見てきた神社の中じゃずば抜けて習合時代のおどろおどろしさを残しているわな……。神社というのは今我々が思うよりはもう少し恐ろしい場所であったのではなかろうか。
拝殿の左側には、すぐさまこれ。
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皇太子、雅子妃ご成婚記念の玉垣のなかには
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「開運碑」
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併せて「しあわせの泉」なるものがあるが、この水の中にはなんだか犍陀多がいる気がする。確かに、暗鬱なるもののなかに安楽もありますよね……
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「天神社」。
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鳥居が素晴らしい。
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詳細は不明だが、徳島にいくつか天神社というのがあって道真を祀ったものなので実質天満宮である。これはどうなのか……分からない。燈籠には、慶応元年とあった。
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これは明らかに「金刀比羅社」。御大典記念(昭和三年)の碑もあった。
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左側にある玉垣の部分がたぶん「玉取龍」(内伝秀蔵作)だろう。龍の住むという由良山……。
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私が頭をぶつけそうになる小さな鳥居。
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正面にあるからたぶんこれが金刀比羅社……
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詳細は分からないが、案内板の記述から推測するに、左手が「歓喜天」、金刀比羅宮を挟んで「弁財天童子」や「不老長寿祈願之神」かな?最後の二対の神社の左側は「天之吹男神」であろうか。イザナギとイザナミとの子で屋根の神様ですね……右側は「雨之……」とみえる。アマノなんとかは沢山いるから分からんね……
いや「歓喜天」があるのがすごいなあ
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そしてこちらが、清水神社といえば必ず言及される「甕塚」です。この神社、「雨乞いの神さん」と呼ばれているのであるが、そこには恐ろしいお話が……
高松市教育委員会による案内 https://www.city.takamatsu.kagawa.jp/6138.html に依れば、
「清水神社は由良山を背にした社である。祭神は景行天皇の皇子の神櫛王で、社伝では、祭神の後孫が甕12口の神酒を奉奠したとされる。」
この景行天皇の息子の墓は、牟礼にある。この人は瀬戸内海の悪いお魚を退治した伝説があるお人で、瀬戸内海の島の海賊をやっつけたり征服したことがあったのかもしれない。それはともかく、子孫がお酒をくれたそうなのであった。
「清水神社の別当寺の自性院の記録によれば、承和8年(841)は大旱魃で、国司の命により空海の弟の真雅によって雨乞いを行うことになった。」
ここでお大師様(の弟)!出現!
「雨乞い神事の際に神櫛王ゆかりの甕を使って祈ったところ大成功したといわれる。」
この前も、観賢和尚がなにか神事と合体したエピソードがあった気がする……
「その後、天正年間(1573~92)に長宗我部元親の兵火にあい、神櫛王ゆかりの者が酒を醸していた甕12個のうち3個を残して社殿は焼失した。」
長宗我部、またお前かっ、という感じであるが、仏教も神道もモノともしないその主体性、文科省推奨のアクティブラーニングでも受けて育ったのであろうか!!
「残った3個の甕を里人たちは大切にお守りしていたが、今度は風水害にあって1個を破損してしまった。」
あー、高松も少しは雨が降るんだよ。油断したなあ~
「残った2個の甕を本殿南側の甕塚に納め、再建した清水神社の本殿床下に破損した甕を埋めた。江戸時代には高松藩の社寺で祈祷をしても雨が降らないときに清水神社で雨乞いをしたとされる。雨乞いの際に、上御盥、中御盥、下御盥から神水を取り、甕を洗えば必ず雨を得たが、甕を洗ったものは必ず亡くなるという伝承がある。」
甕塚の南側には、寛政二年の詳細な経緯を記した碑があって、七日間祈っても全く降らないので甕洗いをしたらいきなり降った。で、その神威に報いるため玉垣を造ったなどと書いてある。――とかなんとかはどうでもいいのだ。――突然おそろしい話がくっついているではないか。
「平成24年の神事に際し甕を発掘したところ、2区画に分かれた竪穴の石室を検出し、それぞれから甕が出土した。いずれも7世紀の須恵器で、復元できた南側の甕は器高107.6センチ、胴部最大径95センチを測る。甕は神事後再び甕塚に埋納されている。」
おおっ、七世紀に景行天皇の子孫がいたということであろうか?まあ、いてもいなくてもいいのであるが……。というより、むしろ注目すべきは、この『雨乞い神事』が昭和十九年まで行われていたことの方であろう。(塚の近くにあった「雨乞い神事」の碑より)甕を洗った記録まで碑になっていたが、そのなかで明治八年八月の記録がある。この大干魃の時には、「大いに霊験を蒙りたり」と『香川県神社誌』に書いてあった
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塚の囲む垣にすごくいい彫刻があった。
「祭神「水汲女」は水の神「龍神」であるから、この社には石に刻まれた龍の彫刻が多い。しかし、何れも風化が強い。寄進者の久保良輔の名前から江戸末期の作品と考えられる。甕塚を巡る玉垣の中に剣に龍が巻きついた彫刻のある石柱は元来は本殿北側最内側に立っていたのであるがこれも風化が強い。この像は、「倶利迦羅龍王」の彫像で、剣に龍が巻きつく姿は「密教事典」によれば、外道を意味する剣を仏教の守護神である明王が蛇身となって呑まんとしているところである。(『川島町史』)
この神社は、今まで見てきた神社の中じゃずば抜けて習合時代のおどろおどろしさを残しているわな……。神社というのは今我々が思うよりはもう少し恐ろしい場所であったのではなかろうか。
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右手の奥には「由良大師堂」とあります。神社はかくあらねばなりませぬ。大正四年の寄付碑あり。
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正面にお堂
左側にすらりと並んでいる
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右側にもずらりと並んでいる
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仏の軍団が、右手の清水神社に睨みをきかしている感じであります。
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元の位置に戻って、正面に、陰鬱な空間があることは私の顔面の痛みで分かる(
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暗さに耐えられずフラッシュをたいてみる
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余計怖くなった。
今度、ゆっくり散策してみたい。由良山には防空壕の跡とかもあるらしいね……
後ろふり返ると、
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いつもの地神さん。この無害な感じが安心する……