上の段にある御旅殿をはじめてちゃんとみた……。灯籠は嘉永4年のものである。側面には、水無大明神、伊勢皇大神宮、と書いてあった。
金比羅灯籠になれすぎたわたくしにはお伊勢さんは新鮮だなあ……。だれだよ新年早々、子分連れて伊勢神宮参拝しているボス猿は……。NHK観てたら、「トランプ詣行きますか?」と経済人に聞いているニュースをやっていた。ひどいな……
わたくしもお偉方に負けじと水無神社に零下3度のなか出陣する。何しろ、わたくしの★◎式をここがやってるのである。
これは関山公園の方からの参道の入口にある鳥居。(たぶん5、6年前の写真)天保15年、山村代官親子によって献納されたらしい。
駒ヶ岳どのに映える天照らす
入口左にある忠魂碑。敗戦後、いちど危機にあったらしいが、――今に至る。
竜神殿の後ろの石版には嘉永3年とあった。
狛犬さん。
寒くて凍えそうなので、5、6年前の夏の写真をどうぞ……
これは、一昨年、初詣の大雪時の狛犬さん。
拝殿。昔は、硝子窓が付いてなかったらしく、雪が中で舞っていたらしい。
江戸期からの絵馬が拝殿の内部にずらりと並んでいるのであるが、だいぶ痛んでるものある……
神明造の本殿をのぞむ。拝殿を含め(明治6~12)らしい。
社務所発行の「水無神社略記」に曰く、
「鎮座、創立の年代は詳らかではないが、弘安年間に飛騨一の宮水無神社を御勧請奉斎したものと伝えられる。」
これが正しいとすると、北条時代ですね。『木曽福島町史』によると、もともとこの神社は岩郷村の氏神だったらしいのだが、それはともかく、上の弘安2年の根拠になった棟札の形と文面が当時のものとしては疑わしいらしい。ともかく、町内にあるお寺より歴史が新しいとみられるのであるが、一見、神社の方が古いですよオーラを放っているのは面白いですね。御勧請の際に、戦乱のなか飛騨の水無神社から無断で神様を持ってきてしまった宗助幸助というのがいた……というのが例の伝説です。
「現存する記録によると、延文二年(1357年)6月、越後守藤原家有(木曽領主、木曽家有)によって社殿の再興がなされたんを始めとして木曽氏代々の守護神として木曽総鎮守と称された御嶽神社と共に深く崇敬されて来た事が知られる。」
御嶽神社は700年代の創建らしいので、まあ新興勢力だったのではなかろうか。
「天正年間木曽氏は下総へ移封となり、木曽は尾州藩の代官山村氏の統治するところとなったが、山村氏も又代々崇敬厚く、木曽氏と同様に、社殿の修築、神領の寄進等も再度に留まらず、近郷十一ヶ村をして奉仕せしめた。社領は木曽家より寄進あり後尾州家累代除地を賜った。明治維新に至り山村氏美濃へ移った後はすべて福島町氏子のみの奉仕するところとなったが近郷町村に崇敬浅からず明治5年11月村社に昇格、ついで大正13年3月には郷社に、更に昭和10年12月に県社に列せられた。昭和二十一年四月国家の管理を離れ宗教法人として神社本庁に所属している。」
木曽氏→山村氏→福島町氏子(国家の管理あり)→神社本庁。
「国家の管理を離れ」というせりふに義仲の魂を感じる
この狛犬は、昭和4年みたいです。所謂「出雲式」というやつであろうか。
お尻。
以前、拝殿の中から撮った右側の狛犬さん↓
「出雲式」にしては、頭の位置が高いな……
例の御神輿。
……つづく