二十三日。日照りて曇りぬ。「このわたり、海賊の恐れあり。」と言へば、神仏を祈る。
二十四日。昨日の同じ所也。
二十五日。楫取らの「北風悪し。」と言へば、船出ださず。「海賊追ひ来。」と言ふこと、絶えず聞こゆ。
ときどき、四国の人々なんかは全体として海賊だったんじゃないかみたいな想像をしている人たちがいるが、たぶんそんなことはない。むしろ、最近までいたことが重要である。
私の郷里、小豆島にも、昔、瀬戸内海の海賊がいたらしい。山の上から、恰好な船がとおりかゝるのを見きわめて、小さい舟がする/\と島かげから辷り出て襲いかゝったものだろう。その海賊は、又、島の住民をも襲ったと云い伝えられている。かつて襲われたという家を私も二軒知っているが、そのいずれもが剛慾で人の持っているものを叩き落してでも自分が肥っていこうという家であったのを見ると、海賊というものにも、たゞ者を掠めとる一点ばりでなく、復讐的な気持や、剛慾者をこらしめる気持があったらしい。
――黒島傳治「海賊と遍路」
黒島は島の人間関係をくさしながら、どこかしら海賊(あるいは鬼)とお遍路さんを重ねてみている。略奪者や施しをうける人間達が、どきどき道徳と宗教の執行者となったりする。考えてみると、お遍路さんの起源は海賊だったのではないかと妄想したいくらいだ。そして、そういうポジションでしか、道徳を語ることは出来ないのだ。そうでなければ、人間関係の中で欲望を発散するしかなくなる。
「土佐日記」の作者も、なにかよからぬことを都でしていたに違いないし、過ちを犯さなければやっていけないような人間関係だったにちがいない。そういう人間達を海賊がおってくる。
さぬきにはこれをや富士と飯野山 朝餉の煙ぞたたぬ日ぞなき(西行)
西行はどちらかというと海賊でも島民でも遍路でもなく貫之でもなく――観光でもしに来たのであろう。わたくしは、今日は長寿大学で丸亀に来たのです。