阻嚼毛類既如師虎。喫鱗族亦過鯨鯢。曾無愛子之想豈有己宍之顧。嗜酒酪酊渇猩懐恥。趁逐望食飢蛭非儔。若蜩若螗不顧草葉之誡。靡晦誰致麻子之責。恒見蓬頭婢妾已過登徒子之好色。況於冶容好婦。寧莫術婆伽之焼胸。春馬夏犬之迷已煽胸臆。老猿毒蛇之観何起心意。向倡樓而喧楽恰似獼猴之戯杪。臨学堂而欠伸還若毚兎之睡蔭。
獅子や虎の如く、鯨の如く食い、猩々や蛭のように飲み、蝉のように歌い、発情期の馬や犬のように女を追いかけ、猿のよう音楽を楽しみ、兎の様に眠りこける、――こんなお前はだめだ。というのだが、こんなに変幻自在の動物への変身は逆にすごいと言わざるをない。この先生は、反対に女は「老猿や毒蛇」のようなものだと言って、そんなこともお前はわからんのかと叱咤しているが、まったくもって女性差別である。このエイジズムと動物差別に断固反対する。
そういえば、「男色大鏡」の最初に、スサノオが老いぼれのくせにクシナダヒメと遊んだために日本中にうるせえ赤ん坊の声が響くようになったと書いてある。断固として西鶴のエイジズムに抗議する。
教育現場では残念なことにというか、最悪なことにというか、生徒や学生による学校批判が当てつけのような表現をとった場合、それを読めない教員によって彼らが病気扱いになることがある。最悪の場合、このような風景をみせつけられた発達障害者が、ひたすら従順さをめざしてしまうようなディストピアが出現する可能性がある。発達障害が結局は指導しない言い訳に使われたり、学校嫌いの人間に対するレッテルとして使われたりしているのをみると、ほんとこの社会はやべえと思うわな。かかるときに、上の様なエネルギッシュな不良はびくともせんだろうが、心弱き者や自らの心に懐疑的な者は、学校的所作と表面的な同一性をたもつ生き方を選ぶ。こうして、ファシズムや全体主義は簡単に成立する。
褒めてそだてるみたいな方法論は、対象を分析をできないルサンチマンを合理化している場合がある。アメリカもロシアもいいとこあるよねー程度の認識を人間に対しても当てはめているのである。そんなことで何かが説明出来るはずはない。国策系(笑)の学問の論文て、一発ではデータをうまく理念にあうように改竄出来ないから、何回も設定とかを変え複数の論文のプロセスを通じて、やんわりと現実を改竄している場合があるよな。。。
現実では上記のような論文の様な詐欺は行えない。だから防衛機制としての即席判断が行われる。ツイッターの「いいね」、教室でのとりあえず褒めるみたいなロボット的反応であって、これは、社交辞令でさえない。今流行のいいこぶった知識人のキャラクターは、自分の仕事が天から降ってきたり学会内部でのジャーゴンに根拠や目的を持つ欺瞞を隠蔽すること、つまり仕事の外部をシャットアウトするための技術なのである。そのためには、外部に対しては「いいね」とか「ありがとう」とか言っておけばよいわけだ。怒るのがハラスメントみたいなもっともらしい理屈は、かかる背景によって合理化されている部分があると思う。
余思楚璞致光必須錯礪。蜀錦摛彩尤資濯江。戴淵変志登将軍位。周處改心得忠孝名。然則玉縁琢磨成照車器。人待切瑳致穿犀才。従教如円則庸夫子可登三公。逆諌似方則帝皇裔反為匹傭。木従縄直已聞昔聴。人容諌聖豈今彼空。
玉は磨かなければそれとならず、錦は洗わなければならず、人もごしごしと磨き洗うことが必要だ。だから、人の言うことをきかにゃだめだというのだ。磨かなきゃ帝王の子孫もつまらない人に成り下がる。木材は墨縄によって真っ直ぐな木材と成り、人も同じだ、と。
そりゃま、そうかもしれない。しかし、そこらの石や木材も、ちゃんと仕立てようとしてももともとだめな素材というものがあるわけである。われわれも随分、中学の頃、「磨かなきゃ才能とは言わぬ」とか言われたが、そもそもわれわれの大多数は自分が、ウンコの入った袋ぐらいに思って居るのである。そんなものを磨いたら大惨事ではないか。墨縄なんか付けられたら黒い筋がついちゃうじゃないか。
というわけで、帝王の子孫の例を出しておだてても大概のバカは更生しない。努力をしたいほど自分を評価していないからである。しかしそれでも自己肯定感とやらが低下して大変なわけではない。自分を評価していないことを高く評価しているからである。
自分を良くわかっているかかる人間に関しては、ウンコの帰趨を知っているかどうかのほうが大事である。
田舎育ちでぼっとん便所(トイレではない)の記憶が生々しい私が思うに、――自分の排出したブツがどうやって片付けられているのか知っている人間と、しらんうちに水が流してくれてると思っている人間とは世界観が違うのだ。後者はすべて主張や正義が清潔感に通じているため、ごしごし洗うか流すことしか思いつかぬ。われわれは自分が関わるものに対しては応答責任があり、ウンコに対してもそうなのである。
たしか七十年代に司馬遼太郎が、空海が大学を飛び出さなかったら、憶良みたいな世をはかなむつまらない役人でおわったかも、みたいなことを書いていた。いいたいことは分かるのであるが、こういうことを書く人間はわしは嫌いである。憶良だって、空海だって、自分のウンコの帰趨を知っていたタイプだと思うのだ。役人だってウンコであり、我々が社会の一員である限りはそれに対する応答責任がある。「山月記」のように甘やかすのは好きではないが、ウンコを馬鹿にするのは許せない。
さっき単に思いついたのだが、現代日本人にはコンビニ難民とファミレス難民、コーヒーチェーン難民、スシロー難民、漫画喫茶難民、などがあり、全体として難民として捉えることが重要だと思われる。――と思ったのだが、逆で、自宅が難民キャンプである可能性もあるのだ。我々は昔からこういう難民的なところがあるのである。空海だって断固決然、大学の外に飛び出したのではなく、難民としてふらふらしていた側面があるのだと思うのである。それを普通、二点の間をふらつくのが我々だとすれば、三教の三角形をつくったのがさすがなのかもしれない。司馬遼太郎も、道教を入れたのはなぜだろうと言っていた。
遂与頭蝨以陶性。将終晋歯而染心。表若虎皮之文。内同錦袋之糞。視肉之譏具招一涯。戴盆之誚永伝万葉。豈不辱乎亦不哀哉。
蝨だか黄歯だかもその環境としての人間のせいであり心も同じように染まるモノである。表には虎の皮を被っているようにみえても、そのなかは錦の袋にウンコが入っているようなやつがいるのであり、そういうのは、視肉――肉とみれば食らうことしか考えない禽獣だ、という譏りを一生涯うけることになるであろう。大空を視ずにお盆を頭上に掲げている人は昔の人が言う「戴盆」というやつで、こんなはずかしいことありますか。哀れなことありますか。
水に落ちる石のような我々の本性は、蝨黄歯ウンコ視肉獣戴盆のような物体であり、せめて空を見ろ、というわけであった。
空をみろ、星を見ろ、宇宙をみろ、彼方から迫り来る赤い火を
たしか、ウルトラマン太郎の主題歌にこういうのがあったが、ウルトラマンというのは、地球人というウンコ(特に子ども)が空を見上げてせめてまともになろうとする、儒教的番組であったのかもしれない。生きよ墜ちよという作家はもちろん、ネトウヨクソフェミクソリベケツナメ野郎の宮台真司氏に至るまで、教養に裏打ちされた罵詈雑言は一定の教育的・政治的な役割を果たしてきたことはたしかである。
教養をつけなければならないのは、悪口も教養でなんか違うものに化けるからだよ。政治や教育はこれがないとやってられない。むろん、ひどい思い上がりを伴うが、必要悪なのだ。源氏が、
才を本にしてこそ大和魂の世に用いらるる方も強うはべらめ
というのは、別にコミュ力としての大和魂ということではなくて、才がなければ亀才みたいな罵詈雑言で啓蒙・政治ができないからであった。
竊惟清濁剖判最霊権輿。並稟二儀同具五体。於是賢智如優華惷癡若鄧幹。是故仰善之類猶麟角。耽悪之流既欝龍鱗。操行如星意趣疑面。玉石殊途遙九等。狂哲別区遠隔三十里。各趣所好如石投水。並赴所悪似脂沃水。
清ではなく濁の中から人間が生まれ、二儀(陰陽)の影響を受けながら体を作っており、故に賢人や智者は三千年に一度咲く優(曇)華のようにまれにしか存在せず、愚人はそこらの森の木の数ほど多い。だからっ、善を望む人は麒麟の角より稀で、悪に流れる輩は龍の鱗よりも多いのだ。(←なんだか、ここでフィクション度が上がっている。わざわざ「是故に」と言っているし。。。)。人の行いは星によって異なり心も顔のように違うものだ。玉と石は全然違うし、狂人と哲人は三〇里違う(←もっと遠くにしといた方がよいのではっ)。各々、好きな方向に進めば、石を水に投げたようになるし、好きじゃない方向に進めば、水と油みたいになってしまうぞ。
要するに、濁からうまれた我々は基本的に重いのであろう。軽い人だけが、優曇華の花のように上に向かって咲けるし、麒麟の角みたいに上にむかって伸びる。我々は本性に忠実に水の中で沈んでいるべきで、本性に逆らうと、無駄に表面上で争い、水と油みたいなことになるのであった。
亀毛先生はたしかに自分でも言っているように、あんまり話がうまいようにはみえない。やたら比喩を連発して饒舌である教員みたいなものだ。比喩は、小学校なんかだと、その喚起力で考えさせ楽しませる効果があるよね、みたいな説明を行うことが多いかも知れない。が、その実、それを使う人間の欲望が顕わな危険な手法なのである。――この場合、ほんとは比喩じゃなくて世界の生成に人間を置いて考えた結果、人間の心が自然現象の具体物に対応して配置されているような説明になっているわけであろう。
この対応は、ほんとは影響関係かも知れない。最近は、猫や犬みたいになっているひとも多い。我々は何かを実現するためにありえない事物さえ作り出すし、そこから自ら影響を受けたりする。
以前、新潮社から『パンデミック日記』という物書きや音楽家さんたちのリレー日記みたいな本があって買って読んだ。その五二人の文体は違っているはずなのに、きわめて文体も内容も均質化されているような印象をうけた。(生活がコロナでより似てしまったというのはあるが、原因はそれだけとは思えない。日本での日記は半ば公開されることを前提に書かれていることがあるし、いまのツイッターやブログだってそんなもんだが、さすがにほんとの日記は他にあるだろうというかんじが彼らの文章から感じられる。確かに、彼らは日記に書かれるような生活においてはむしろ非現実的であり、作品で現実的になるわけだ、というのは優等生的な回答過ぎると思う。)――そう感じたわたくしの主観が問題だ。文体というのが案外長いものの印象だということがあるかもしれない。個々の表現の違いは、文章の長さにかなわない。リレー日記を一人が書いたように我々は読んで文体を感じる。文体は、まさに「体」であり、文は「体」を持った場合に、相互に影響を与え合って我々に対してその印象をつくっているのである。
愛亀毛先生心橤神煩忙燃長息。仰円覆以含慨。俯方載以深思。喟焉良久囅然咍曰。三勧慇懃。叵拒来命。今當傾竭微管標愚流之行迹。尽涸拙蠡陳攝心之梗概。但懸河妙辯舌端短乏。北海湛智心府匱窶。筆謝除痾詞非殺将。欲披彼趣悱悱口裏。黙而欲罷憤憤胸中。不得抑忍。聊事搉揚。宜示一隅孰扣三端。
亀毛先生、もったいぶったかんじの「いやだけどしかたないから教えてやるわ」という主張である。ため息をついたり天を仰いだりするだけでなく、――自分の見識は狭い、鄭玄には劣る、陳琳みたいに文章で病気を治したり、史記のエピソードみたいに矢文で人を自殺に追い込むなんて事はない(←そもそもそんな事要求してねえだろっ。不良を更生させろと言ってるだけだ)、何かを言おうとすると言えない感じでもじもじしちゃうけど、言わなければ胸の中がもじもじしちゃう、押さえがたいよね、古今の事例を挙げて許して下さいませ、自分は一隅だけ言うんで後の三偶はよろしく、というかんじで、絶対空海は無理に面白がって書いている。
確かに、世の先生というのは、こういう態度で自らをかわいがるモノであって、論文だって、「管見では」、とかいいつつ誰もそんな知識は持ってねえぞというレベルのことをこれでもかと並べ立てるのである。大学が、自分の能力のなさを発見するところだと、しばしば大学人が主張するが、かならずしもそうではないのはこういうことである。勉強すればするだけ、当たり前であるが、人間はいやらしく増長するのである。
ただし、たんに自分が教えてやるでも、知識には限界があるとだけいわずに、AでもないよBでもないよ、と煙に巻きながら教育が行われるのには意味がある。例えば、文学や政治に挫折した多くの人々が、なんとかとなんとかの狭間、という表現をけっこうするけれども、大概現実逃避で、理想と現実と狭間とか、抵抗と服従の狭間とか、たいがい何もしませんでしたと言いたくないだけなのである。やった人は、狭間とか言わない。狭間ではなく、狭間に見えるなにかを言うためには、対義語の否定が重要なのである。わたしもそうだが、しばしば我々は自分と世の中に対する絶望と肯定が足りなくて、理想でもなく現実でもなく、と考えることを忘れてしまうのであった。でもだからといって、AやBを勉強しておかないとその否定が起こらない。
この勉強の世界というものはおそろしく、見えない物がみえはじめる。因果と言ってよいが、、、そういうものが見え始めるのである。「裸の王様」というのはいまのプーチンみたいなありふれたものではなく、もっと怖ろしい事態である。彼は馬鹿には見えない服を着てるというのだから。そういう物を信じるインテリにしかそういう物はみえない。そして実際にみえるのである。つまり、こういう裸の王様は一般の社会ではなく大学院とか学会とかで起きる「現象」なのである。
最近の社会は、たしかに、知恵を付けた人間が情報の束となって因果を形成したがる。裸の王様は現実の政治家にというより、本格的に我々のなかに育ち始める。そこらのガキが「王様は裸だ」と言ったとしても、簡単にはそれは認められない。ガキも情報として存在してしまっているので。
于時兎角公語亀毛先生曰。蓋聞王豹好謠巳変高唐。縦之翫書亦化巴蜀。橘柚徙陽自然為枳。曲蓬糅麻下扶自直。
謡とか学問が好きな人がいるとみんな染まるよ、という理屈にくわえて、橘が枳になり、蓬が麻の中で真っ直ぐになるようにと加える兎角公。要するに環境による反映論みたいなことを主張している。現代での教育論もこんな理屈がほとんどである。ところが、亀毛先生はまったく納得しない。
先生曰。我聞上智不教。下愚不移。古聖猶痛。今愚何易。
論語にあるとおりである。賢者はどんなところでも賢者であり、愚者はどこでも愚者である。環境とは関係ない。いまも先生たちは、教育を断念するときにこんなことを常に言っている。兎角公は諦めない。
兎角公曰。夫体物縁情先賢所論。乗時摛藻振古所貴。[…]又有鈍刀切骨必由砥助。重絡軽走抑亦油縁。無智鐵木猶既如此。有情人類何不仰止。
環境決定論も能力内在論も人間を単なる物=自然物として見ている点で間違っているのである。我々は物に対して情を持ち、詩を作ってそれを表してしまうことを尊ぶ人間である。これは文学の問題ではなく、物を自然に対してより有効に使う人間の本質である。骨を切るには砥石を使い、車には油が必要なのである。木や鐵を使うときでさえそうなのに、人間には情があるんだから、教えには反応する筈だ、というわけである。
いま、サイバネティクスに関する論文をちょっと読んでいるんだが、――情報社会になったということは、よけいにその情を持つ人間に対する情、ではなく作品が必要じゃないかと思うのである。人間は物である。しかし物の表面のかわりに情がある。これは根本的にケア的なものの重視に傾斜していかざるを得ない事態である。
だから、日本の宗教論を開始したとも言われる三教指帰が、教育論であったことは重要かもしれない。甥のボンクラにしても、ぐれているとはいえ、ヤマトタケルみたいに、兄貴を刺し殺してオヤジに報告するようなレベルではない。孔子が言っていた愚者とはほんとうにそういうものであったのであろうか。
安部・菅のような言葉よりもまずヤってしまうタイプの後に出てきたのが、まずは言葉を整えてしまう首相であり、――こっちのほうが大概の日本人にとって居心地が良く、これまたタイミング良く戦争まで起こってしまって、コミットメントをまずは避けようという空気がそれを合理化しているようにみえるのはわたくしだけではあるまい。岸田首相の言葉は、専門家が認めたくないほど、ケア的なのである。
サイバネティクスの理論が、戦争の技術からでてきて、戦争の事実によってその脆弱さが顕わになっているのかもしれない。三島が、日本では過激な保守からしか革命は出てこないし近代化もなされないと言っていたが、――これは日本だけの話ではなかった。表面の情、情報をケアするだけではだめだといって、いまなら西洋化した日本はやっぱりダメだという主張がでてくることは必然だとしても、その先はだれもいつもやっていない。大概は、かかるダメだという主張だけが人を攻撃するだけに終わっている。
於是兎角公之外甥有蛭牙公子者。其為人也狼心很戾不纒教誘。虎性暴悪匪羈礼儀。博戲為業鷹犬為事。遊侠無頼。奢慢有餘。不信因果。不諾罪福。醉飲飡嗜色沈寝。親戚有病曾無愁心。疎人相對莫敬接志。狎侮父兄侈凌一耆宿。
蛭牙公子の紹介であるが、現代語訳ではただのだらしないデカダンス的不良に思えるけれども、漢文を読み下したかんじでは、断固決然、仁王のような勢いの輩なのである。それは狼であり虎であり犬を従えているイメージで、まんが的に言えば「ドカベン」の犬飼兄弟みたいな感じである。やつらはまだ玉遊びに夢中になっているからあれだが、この男は他人の言うことを聞かず粗暴で礼儀を知らず、博奕狩猟、ヤクザな仲間とつるみ驕り高ぶっている。また現代文で説明してしまったが、とにかく自意識がひねくれているというより、言動が激しく外れている輩なのである。因果や報いを信じないといっても、現代で言うなら、キャリア教育や健康教育など無視して飲食を暴走させている、なかなかの男ではないか。体のことばかり気にして、物事に熱中できない、何を目的に生きているのかわからなくなっている羊人間よりははるかにましと言わざるをえない。
結局のところ、こういう人間だからこそ、更生が可能なのであって、――自意識過剰で、口先野郎、やりたいことよりも健康を気にしたりする、いわば自意識アスリートみたいな人間は、論外だ。ダンテなら、地獄の環外において永遠の彷徨をさせておくような人間は何をやっても、いや、やらないから駄目なのである。ただし、バイタリテイのかたまりのような人間が何かを引きおこしてしまうこともたしかであった。
光源氏が紫の上を引き取るのは、かわいいのでということに加えて彼女の境遇に同情した側面があるわけだが、それで引き取れてしまう権力やらなにやらをもってしまっていることがすごく問題を複雑にしてしまったわけである。われわれ凡人は「出来ない」ことでいろいろな問題から逃げられている面もあるのだ。
金あると金なきの実際上の当惑より生ずる怨恨、嫌悪は甚だ少なくして、 彼等が人生の同源泉より流れ来りたるに、其の驕傲なる風態、其の奢侈を極はめ、放逸に縦横に馬を駆り車を走らして、 己れ等を蹂躙し奴隷視する者、是れ即ち彼等が怨恨の因つて生ずる所、不平の因て萌ざす所なり。 是を救ふ者奈何、曰く同情のみ。同情。同情によりて来らざるの慰藉はなし。
――北村透谷「慈善事業の進歩を望む」
北村透谷の言うような「同情」というのは、いまの「寄り添い」系とは全然違うもので、それは恋愛に近い。鷗外のエリスに対するあれもそれであろう。同情が恋愛となってしまうようなパワーは間違いを犯すであろう。しかしその間違いに認識の萌芽はあり、それ以外には欺瞞がある。現代人は、コンプライアンスとかなんとか言うて、積極的に後者を選んでいるわけである。
有亀毛先生天姿辯捷面容魁悟。九経三史括囊心藏。三墳八索諳憶意府。三寸纔発枯樹栄華。一言僅陳曝骸反宍。蘇秦晏平対此巻舌。張儀郭象遙瞻飲聲。
亀毛先生というのがいて、弁舌爽やかで容姿が立派である。あらゆる本を読んでいる。――ここまでは、いまも大学内にいなくはないと思う。むかしは学者といえば、絶対こいつは人としておかしいという面容で猪かみたいな人が多く(←わたくしの偏見です)、わたくしもそういえば、赴任当時「ミニタンクみたいな人」と褒められていたが、どうみてもミニタンクとは本心からの言葉ではなく感情労働的であって、肥満ちび丸の言い換えであったろう。しかし、特に最近は、なんか美男美女みたいな学者が出現し、コミュニケーション能力爽やかに正義を語っている(←わたくしの僻みです)。ふざけるな、であるが、遺伝子と食料事情のせいだから別にいいと思う。
しかし、「三寸纔発枯樹栄華。一言僅陳曝骸反宍」とは如何なのであろう。先生の舌が動くと、枯れ木に花が咲きみだれ、言葉がでると、野ざらしの髑髏が生きかえるのである。
花咲爺とかハリウッドのエジプト映画なんか、鼻息で吹き飛ぶレベルである。そういえば、わたくしの研究室にある、このまえ四年生からいただいた花など、わたくしの邪気のせいなのか、なぜか枯れてきている。髑髏はあまり最近は道に落ちていないのでわからないが、以前、家のベランダにトカゲの木乃伊が落ちていて、私が息を吹きかけても2ミリ動いただけだった。論語でも話せば、生き返ったのかもしれないが、風に乗ってどこかに逝ってしまったので、確かめようがない。
この亀毛先生――いきなり、ここまですごいのが出てきているのに、例のぼんくらの甥はまだ更生しないのでしょうか。教育は難しいのである。
受験勉強もキャリア教育も主体的で深い学びもなんとかサイクルもまったく同じものであって、一言うるせえとしか言いようがないものであるが、世の中、上の亀毛先生みたいなものばかりではないのである。普通のひとは、努力と根性でやるしかないのである。思い上がるのもいい加減にしろと。努力と根性とは、ある意味、人間を捨てて犬猫亀とおなじようになれという意味である。極端になると、軍隊の新人教育みたいに「お前らみたいなウジ虫に価値などない」みたいな事になるのであるが、これはだめである。しかし、ウジ虫をバカにしてはいけない。ウジ虫の根性は人間以上なのである。
しかも、ここででてきたのは亀毛である。
亀と言えば、ガメラであるが、あいつの体型はミニタンクに似ているのでいやだ。対してゴジラはスタイルがいい。しかも頭がいいと思うのだ。彼はなんだかだいたい日本にきて暴れてるんだが、これには必ず理由があるはずであって、ボードレールとか闇の自己啓発とか、あるいは宮台真司とかを読んで加速主義的にくるんじゃないだろうか。ハリウッドはあいかわらずイグアナとしか扱ってないひどい奴らだと思うのは勝手であるが、とりあえずこの原爆怪獣にたいして漱石の猫ぐらいの知恵者である可能性を考えとかないとまずいのではなかろうか。ゴジラは、死んでも死んでもよみがえってくる、まるで我々のようなしぶとさである。絶対、勉強家でもあるはずだ。
彼此両事、毎日起予所以、請亀毛以為儒客、要兎角而作主人、邀虗兦士張入道、屈仮名児、示出世趣。倶陳楯戟並箴蛭公。勒成三巻、名曰三教指帰。唯写憤懣之逸気。誰望他家之披覧。
憤懣の逸気を写しただけで、誰に読んで貰おうとするんじゃないよ、と執筆動機を説明しているのであるが、――かんがえてみりゃその悩みの種であった甥にはよませなくてよいのであろうか。よいのであろう。罪を憎んで人を憎まず。ボンクラはもうどうでもいいのであろう。彼は、すでに空海の中では、蛭牙公子になってしまっているからである。
今日は、菊池寛記念館で「〈働き者〉の文学史」と題してしゃべってきましたが、この〈働き者〉というのも、蛭牙公子のようなものである。だれも見たことはないが、そこに必ず存在している。最後は、ハンナ・アレントを引用してベタベタな展開になってしまったが、考えてみると、日本では「人間の條件」は映画で満州での悲惨を示していた。ハンナ・アレントの「人間の条件」はそういう現実を示すのではないが、確かに人間の話をしている。これは、現実と抽象のちがいではない。人間をどういう条件として考えるかの違いだけがある。そしてそれは、憤懣の逸気の性格によるのである。
復有一表甥。性則很戻鷹犬、酒色昼夜為楽。博戯遊侠以為常事。顧其習性、陶染所致也。
お大師のすごいところは、我々の心は魚や鳥のように違うよと、生悟ってばかりいないところにある。
最近は、人新世だか種の論理だかしらないが、またまた八〇年ぶりぐらいの生悟りブームであり、そのうちに教育や政治がめちゃくちゃになっている。いや前者は結局、後者からの逃避でありニヒリズムなのである。ファイティングポーズをとっている人間をよく見てみるがよい。背後に敵がいる。
お大師さま、下々よりも100倍以上頭がいいのに、ハンティング、酒女博奕にふけるぼんくらの甥を心配している。ちゃんと教育が為されれば更正されるのというのだ。たぶん、そんな教育をしてもハンティング酒女博奕をやるやつはやるぜ、と大衆教育をやってみた現在の日本國民は思うのであろうが、――御大師はそういう数だけ多い大衆のことを言っているのではない。目の前のだらしない甥が許せなかったのである。
空海が出家した理由が、こういう目の前のぼんくらの教育であったところがしゃれている。いまは、こういうちょっと勘違いな必死さも教育者からはなくなりっつある。寄り添いとかコミュニケーション能力とか協同的な学びとか、お上の指令のオウム返しを激痛に耐えながら実質化しようとがんばっている、心弱き教育者たちがたくさんいて、――こころあるひとがそれは現実的でも理念的でもありませんよ、むしろ役に立たないという研究結果が出てますよと言っても聞く耳を持たぬ。画一化すら起こさないその政策は理念が間違っているので現実化もしないわけである。で、そのなんかうまくいかない現実を、造反的な人間に帰していじめを始める。先の総動員体制の時に起こったのはそれだったし、いまもそれを反復している。連合赤軍事件やオウム事件が、理念の暴走を可視化させたので、そのいじめはゆっくり進行し、それゆえの見えにくさでやめることも出来なくなっている。
協働とか協同とやらが、戦時中に孤独な?インテリを脅しつける用語だったのはよく知られていようが、協同を求める人間たちはその目標自体が協同の結果であることを自覚しているために、その目標を否定すると自分を否定してしまうことになるからまずいわけだ。むかし、文化研究の勃興の時もそういう風景をみた。作品を独立していない政治的な所産とみることは、研究者みずからの処世の現実をあからさまに示していたのである。
閑話休題。――ともかく空海は、この甥を救わなくては、よっし「三教指帰」書いちゃうぞ、と言って実際に書き、甥は置いてけぼりにして大思想家となった。こういうのが教育者である。甥をおいてけぼりにするのがいいのは、ある種のキリスト教の理念を真面目に受け取り過ぎた人みたいに、目の前の人を救おうと頑張りすぎると、敵を皆殺しにしたりするからである。
最近も「進撃の巨人」というマンガがそれをえがいていた。親を巨人に食われたエレンやミカサたちは、軍隊に入るが、まずそこを疑えと。なぜ世の中を歎いて出家しないのだ。エレンとミカサは好き合っているのならなぜいちゃいちゃしないのだ。
爰有一多親識。縛我以五常索。断我以乖忠孝。余思、物情不一、飛沈異性。是故聖者駆人教網三種。所謂、釈李孔也。強浅深有隔並、皆聖説。
出家しようとする空海に親族や先生たちは、忠孝の道に反すると言って反対した。空海は思う「物の情一ならず、飛、沈性異なり」と。やっぱりもはや現代のマルチスピーシーズだか、パースペクティズムなんかを反抗期の段階で気付いていた大師さまであった。物の心はひとつではない――ここまではみんな違ってみんないいの類いであるが、鳥は飛ぶし魚は水に潜るじゃないか、ということを直ぐさま言っているのがすごい。われわれの心がことなるのは、鳥や魚の生活が違うことと同じだと。これは擬人法ではなく物の見方というのは本質的にそういうものだというのである。夢応の鯉魚レベルのことを言っているのではない。
そして、すごいのは、その鳥と魚の違いを、「釈李孔」(仏教・道教・儒教)の違いに直結させることである。空海は三教の比較宗教学をやっているのではなく、鳥と魚と人の違いを考察しているのであった。それらはみな「聖者」である。これがしかし、みんなちがってみんないいにならないのは、ちゃんと浅いのと深いのがあるかもと断っているからである。
こんな歌がどこからともなく晴れやかに聞こえて来ましたので、勘太郎は不思議に思って眼を開きますと、自分はいつの間にか見事な寝台の上に寝かされて、傍には大勢の美しい天女が寄ってたかって介抱しています。勘太郎は又夢を見ているなと思って眼を閉じようとしますと、不図自分の枕元にこの間夢で見たお姫様がニッコリ笑って立っているのに気が付きました。
勘太郎は驚いてはね起きますと、どうでしょう。自分はいつの間にか髪から髯まで真白になって、神様のような白い大きな着物を着ています。それと一所に気持ちまでも神々しく清らかになって、今までの苦しかった事も悲しかった事もすっかり忘れてしまいました。
「そら、神様のお眼ざめだ」
と大勢の天女たちは皆一時にひれ伏しました。
勘太郎はそのまま神様の気持ちになってそこに止まりました。もう何も食べる事も心配する事もありません。只毎日天女たちの春の歌を聞き、面白い春の舞を見ているばかりでした。
或る日、勘太郎は大勢の天女たちと一所に住居を飛出しました。門口を出てからふり返って見ると、自分達の住居はこの間山奥の岩の間に立てかけた樫の丸太の中程にある小さな小さな虫の穴でした。
勘太郎は何より先に自分の昔の住家の処に来て見ました。見るとそこには昔の通りに自分の家があって、前にはこれも昔の通りに炭焼竈があります。オヤ、今度は誰が炭を焼いているのだろうと思って見ていますと、間もなく家の中から出て来たものは昔の勘太郎そっくりの男で、着物までも同じ事です。
――夢野久作「虫の生命」
もっとも、鳥も魚も分かった気になってしまう天才もいいが、こういう不気味なものに突き当たりつづける近代の動揺もわるくない気がするのだ。我々はこの動揺によってより魚や鳥を一生懸命に見つめるかも知れない。
遂に乃ち朝市の栄華念念に之を厭ひ、巌薮の煙霞日夕に之を飢ふ。軽肥流水を看ては電幻の歎き怱ちに起り、支離懸鶉を見ては因果の哀しび休せず。目に触れて我を勧む。誰か能く風を係がむ。
現代人の、メンタルがーとか思いガーとかいう、言文一致の文のだらだらとした歎きを聞いていると、空海のように「電幻の歎き怱ちに起り」と言って事態を片付ける必要性を感じる。「軽肥流水を看ては電幻の歎き怱ちに起り」(衣服車馬の立派さ、豪勢な暮らしなどを見、水の流れの如きすぐさま消失する無常なものだと歎きが忽ちに起こり)――に範囲を広げると、マルクスの階級闘争なんか、世の争いに拘りすぎてるんじゃないかとも思われるくらいである。彼のこの世に対する明瞭な歎きは、風のようである。「谷響を惜しまず、明星来影す」のように、風が吹くように、彼は出家せざるを得ない。彼のその出家の運動は、この簡潔な世界の描写と同じ速度で行われる。
確かに、近代文学の叙述文体は、浮雲にはじまりライトノベルに行き着き、――ますます運動を遠ざける心理を細かく綴るようになってしまった。
そもそも、心理を対象物として描くように構成するというのが、体が動かない描写の視点なのである。かつて喘息で身動きがとれなかったわたくしはそれがよく分かる気がする。
たしかヴァレリーと独歩は同い年だが、昭和初期のオシャレな文人はヴァレリーに学んで独歩に学ばない。けしからぬ。彼らは、ますます心理の裏にも言葉のあやを見出すようになってしまった。
『お前は日本人か。』『ハイ日本人でなければ何です。』『夷狄だ畜生だ、日本人ならよくきけ、君、君たらずといえども臣もって臣たらざるべからずというのが先王の教えだ、君、臣を使うに礼をもってし臣、君に事うるに忠をもってす、これが孔子の言葉だ、これこそ日の本の国体に適う教えだ、サアこれでも貴様は孟子が好きか。』
僕はこう問い詰められてちょっと文句に困ったがすぐと『そんならなぜ先生は孟子を読みます』と揚げ足を取って見た。先生もこれには少し行き詰まったので僕は畳みかけて『つまり孟子の言った事はみな悪いというのではないでしょう、読んで益になることが沢山あるでしょう、僕はその益になるところだけが好きというのです、先生だって同じことでしょう、』と小賢しくも弁じつけた。
この時孫娘は再び老人の袖を引いて帰宅を促した。老先生は静かに起ちあがりさま『お前そんな生意気なことを言うものでない、益になるところとならぬところが少年の頭でわかると思うか、今夜宅へおいで、いろいろ話して聞かすから』と言い捨てて孫娘と共に山を下りてしまった。
――独歩「初恋」
このあと、この孫娘と「僕」は結婚してしまうのだが、そこには言い訳もなきゃなんで惚れたのかも分からないのだ。しかし、それでよい。初恋みたいなものは、恋の心理ではなくて、行動なのである。「先生」が漢文の先生だったのは非常に示唆的である。