創価学会の「内在的論理」を理解するためといって、創価学会側の文献のみを読み込み、創価学会べったりの論文を多数発表する佐藤優氏ですが、彼を批判するためには、それこそ彼の「内在的論理」を理解しなくてはならないと私は考えます。
というわけで、こんな本を読んでみました。
佐藤優/大川周明「日米開戦の真実-大川周明著『米英東亜侵略史』を読み解く」
興味深い内容でしたので、引用したいと思います。
日米開戦の真実
――大川周明著『米英東亜侵略史』を読み解く
□はじめに
□第一部 米国東亜侵略史(大川周明)
□第二部「国民は騙されていた」という虚構(佐藤優)
□第三部 英国東亜侵略史(大川周明)
■第四部 21世紀日本への遺産(佐藤優)
〇第四章 歴史は繰り返す
〇第五章 大東亜共栄圏と東アジア共同体
〇第六章 性善説という病
●第七章 現代に生きる大川周明
■「自国の善をもって自国の悪を討つ」
□自己絶対化に陥らないためには……
□各国・地域で形成される「国民の物語」
□日本に残されたシナリオは何か
□あとがき
――第四部 21世紀日本への遺産
第七章 現代に生きる大川周明
「自国の善をもって自国の悪を討つ」
それでは最後に大川周明から21世紀を生きる日本人が学ぶべきことについて、筆者の見解を率直に記したい。『米英東亜侵略史』の主題である外交については、これまでの章で論じてきた。ここでは国際政治、国内政治の枠を超え、「日本の改革」について大川が抱いていた信念を読み解きながら、その核心に迫りたい。
大川は、これまで何度も引用してきた『日本二千六百年史』の中で改革に対する基本姿勢を説明している。改革は歴史に学ぶことから始まる。非歴史的な、あるいは歴史を超越して、いつでもどこでも通用するような改革のドクトリンは、本質的なところでは役に立たないと断言する。
いかなる世、いかなる国といわず、改造又は革新の必要は、国民的生命の衰弱・退廃から生まれる。生命の衰弱・退廃は、善なるものの力弱り、悪なるものの横行跋扈することによる。故にこれを改造するためには、国民的生命の裏に潜む違大なるもの・高貴なるもの・堅実なるものを認識し、これを復興せしむることによって、現に横行しつつある邪悪を打倒しなければならぬ。簡潔に言えば、改造又は革新とは、自国の善をもって自国の悪を討つことでなければならぬ。そは他国の善なるがごとく見ゆるものを借りきたりて、自国の悪に代えることであってはならぬ。かくの如きは、せいぜい成功しても木を竹につぐに止まり、決して樹木本来の生命を更新するのではなく、これを別個の竹たらしむるに終わるであろう。それ故に、建設の原理は、断じてこれを他国に求むべきにあらず、実にわが衷(うち)に求めねばならぬ。しかしてわが衷に求むべき建設の原理は、ただ自国の歴史を学ぶことによってのみ、これを把握することができる。いま改造の必要に当面しつつある時代において、われらはいよいよ国史研究の重要を痛感する。(大川周明『日本二千六百年史』第一書房、1939年、13-14頁)
大川周明の基本認識を、現下日本の情勢分析に筆者なりに敷衍してみると次のようになる。
①改革は、日本人の活力が衰弱し、悪が跋扈するようになったから必要とされている。
②改革のためには日本人の本源的生命力に内在する高貴で堅実な要素を再認識し、復興させることが不可欠だ。
③改革とは、日本人の本源的生命力に内在する善の要素によって、日本人に現れている悪の諸現象を克服することである。
④外国の内在的な思想、例えばアメリカ型の新自由主義を善の要素と思って日本に移入しても、それは短期的な弥縫策で終わることが目に見えている。日本という木に竹を接ぎ木することにしかならず、木の生命を更新できない。
⑤日本の改革の内在的論理は、日本の歴史の研究によってのみ把握することができる。それによって日本国家と日本人の本源的生命力が何であるかを掴むのである。従って、改革と日本史研究は表裏一体の関係にある。
日本では、小泉政権(2001年4月~)の5年間の間に、社会的格差が広がり、圧倒的大多数の国民の生活は苦しくなり、地方は切り捨てられ、生徒・学生の学力は低下し、外交は「八方塞がり」の状態にあるにもかかわらず、政権の支持率は一貫して高い。別に小泉純一郎首相が詐術を用いているわけではない。国民は、改革を真摯に望んでいるから、改革を唱える小泉氏に惹きつけられるのである。外交面では日本国家と日本人の名誉と尊厳を守る毅然たる外交を多くの国民が望んでいる。国民の集合的無意識のどこかに小泉首相ならば、国内改革、外交の両面において日本国家と日本人の本源的生命力を掴み出すことができるのではないかという期待感があるのだろう。
日本の歴史に改革思想を求めるという方法論を構築するにあたり、大川周明は、今から700年前、南北朝時代の南朝イデオローグ北畠親房が著した『神皇正統記』から大きな影響を受けている。少し長くなるが大川が『神皇正統記』の意義について述べている部分を正確に引用する。
後醍醐天皇の建武中興は、たとえ回天の偉業中道にして挫折したとはいえ、まごうべくもなき日本精神の勃興なるが故に、この精神の最も見事なる結晶として、北畠親房の『神皇正統記』が生まれた。平安朝の末葉より鎌倉時代の初期にかけて、国史を等閑に附したることは、必然国体観念の混迷を招き、今よりしてこれを想えば、到底許し難き思想が行われていた。例えば慈鎮(慈円)和尚の『愚管抄』に現れたる思想である。慈鎮は関白藤原忠通の子であるが、その著書の中には天皇のことをみな『国王』と書き、はなはだしきは礼記の百王説をそのままに信受して『皇統百代限り』というがごとき妄誕至極の言をなし、実に『神の御代は知らずに人代となりて神武天皇以後百代とぞ聞こゆる。既に残り少なく八十四代にもなりける』とさえ述べている。八十四代と申すは順徳天皇のことにして、いま十六代にて日本の皇統は亡ぶという驚くべき思想である。かくのごとき時代の後をうけ、わが北畠親房が『大日本は神国なり』と高唱し、神胤長くこの世に君臨して、天壌とともに無窮なるべきことを明確に力説したのは、まさに一句鉄崑崙、虚空をして希有と叫ばしむるものである。まことに神皇正統記は、前に遠く建国創業を望み、後にはるかに明治維新を呼ぶところの国史の中軸にして、この書ひとたびいでて大義名分の存するところ、炳乎として千載に明らかになった(前掲書、19-20頁)
大川周明によれば、中国の「王は百代しか継続しない」という、当時のグローバルスタンダードであるドクトリンをそのまま鵜呑みにする慈円のような人物は、いくら知識をもっていても日本的なるものの「事柄の本質」がわかっていないことになる。これに対して北畠親房は「大日本者神國也」という他国にはない日本国家の存在根拠、伝統的なことばで言う国体の「事柄の本質」を把握しているので、中国の学説によって、日本の皇統が途絶えてしまうのではないかなどと惑わされることがないのである。
【解説】
改革は歴史に学ぶことから始まる。非歴史的な、あるいは歴史を超越して、いつでもどこでも通用するような改革のドクトリンは、本質的なところでは役に立たないと断言する。
賛同します。
獅子風蓮