山崎浩子『愛が偽りに終わるとき』(文藝春秋1994年3月)
より、引用しました。
著作権上、問題があればすぐに削除する用意がありますが、できるだけ多くの人に読んでいただく価値がある本だと思いますので、本の内容を忠実に再現しています。
なお、漢数字などは読みやすいように算用数字に直しました。
(目次)
□第1章 「神の子」になる
□第2章 盲信者
□第3章 神が選んだ伴侶
□第4章 暴かれた嘘
■第5章 悪夢は消えた
□あとがき
別れの言葉は「またはないよ」
勅使河原さんの、対策をたてるための聞き出しに答える必要はない。私が彼に免疫注射を打つわけにはいかないのだ。
ただ、本当に統一原理が真理かどうか真剣に問いつめる気持ちがあるのなら、一人で牧師のところへ行ってほしかった。
以前、親を納得させるために牧師のところに行った、そんな気持ちと同じように、私を納得させるために行くというのなら、その必要はない。心を開いて、じっくり、ゆっくり聞けば、彼もわかるはずである。T子にできたことが、彼にできないはずはないと信じていた。
私が脱会記者会見をした時は、彼も、
「こうなったら、ぼくが牧師のところへ行くしか手はないでしょう。でも、ぼくが堕ちたら、元も子もないんですけどね」
と、その気になっていたようだ。でも、みんなからよってたかって止められ、神山名誉会長から、
「今はやめた方がいい。対策をちゃんと練ってからにした方がいい。勅使河原くんが、前にどんな説得を受けたのか思い出して、話を聞かせてくれ」
と言われ、その機会を逸したという。
彼は、狭い店内に響きわたるような大きな声で、教義の正しさをまくしたてていたが、話はどこまでも平行線だった。
私はおしぼりを三角柱にしたり、まるめたり、何度も何度も繰り返した。
「とにかく、私は統一教会にも、勅使河原さんの元にも絶対に戻りませんから。そのことはハッキリさせとこうと思って」
この言葉だけは、面と向かって言わなければならなかった。
「それはもう、ぼくからは何も言えないから……」
牧師のところへ行ってほしいという私の願いは、彼には届かなかった。二人の新居から私の荷物を引き揚げた際に渡した手紙、私のありったけの想いを託した手紙を、彼はテレビのインタビューで「ペラ紙一枚のメモ」と表現したぐらいだから、私の願いなど届くはずもなかった。
話の焦点が合わぬまま時が過ぎ、私たちは別れた。
「じゃあ、浩子さん、またね」
何もわかっていない彼の言葉に、
「またはないよ」
と私は答えた。
私と彼との接点はもう何もない。
“愛”とは両親と多くの人に数えられるもの
統一原理を信じる者と、信じていない者とでは、正反対の考えを持つ。どこにも歩みよれる材料はない。彼らが私たちのためにと思うことは迷惑でしかないし、私が彼らに対して脱会を願うことは、サタンに惑わされた行為でしかないのだから。
これで、やっと終わったんだなと思った。
彼はまだ、今までと変わりなく私を愛していると言うだろう。自由恋愛が禁止されている統一教会にあって、再祝福を受けない限り、そう言い続けるのも当然だ。
メシアである文鮮明に「永遠の相対者」と言われた私を、そうそう簡単にあきらめられるはずがない。
それは、私個人を愛しているのとは違う。私自身も、彼個人を愛していたのではなく、神とメシアを信じている統一教会員である彼を愛し、信じていたのだから、今はそれがよくわかる。
統一教会では、父母の愛、子女の愛、夫婦の愛を説く。とても素晴らしいことを説いているじゃないか、と統一教会員は言うだろう。だから、それさえも私が否定するのかと不思議でならないのだろう。でも、そんなことは統一教会じゃなくても、どの宗教だって言っている。何を唱えているかではなく、何をやっているかが問われるべきだろう。
それに、“愛”は私の両親が教えてくれたものであり、私が生きてきた中で、多くの経験を通して、多くの人たちによって教えられてきたものである。
美しい言葉を並べたてて、裏では人の苦しみも神の摂理の前には仕方ないのだと考える人間にしてしまう統一教会は、エバを誘惑したヘビそのものではないか。
「女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた」(創世語第三章六節)
そのごとくに、私はサタンの誘惑に負け、神のようになれると思い、統一教会の“神”を神としてしまっていた。そして人類の救い、神の救いのためにと言いながら、ウソをつくのも、人をだますのも平気な人間になり、サタンの手に堕ちていく。人のために、新体操スクールのために、とがんばった結果、私はみんなに迷惑をかけることしかできなかった。
私は、母が今は亡き存在であってよかったと思った。もし、母が生きていたら、私自身が母を死に追いやっていただろう。
私の母は、「人から何を言われてもいい。ヒロコが幸せなら、それでいいよ」という母ではなかった。「どんな生き方をしてもいい。でも人に迷惑をかけるのだけは、やめなさい」そういう母だった。
だから、私の一連の騒動に、生きている間に巻きこまれたなら、母は私を絶対に許さなかっただろう。
「おまえだけが幸せなら、それでいいと言うのか。人が苦しんでいるのを見てもなんとも思わないのか。おまえは何もやってないというが、霊感商法をやってなければ、それでいいと思うのか」
母はこう言って、涙を流して私に脱会をせまったに違いない。
マインド・コントロールの恐ろしさとは
勅使河原さんは、ある講演の中で、
「浩子さんは、統一原理の美しさをわかっているんだけども、言った(公表した)手前、(統一教会に)戻れないでいる。彼女はだから今、とても苦しんでいる」
と信者に向かって話し、彼女はきっと戻ってくるだろうと彼らを元気づけている。
私は彼に言ったはずだ。
「統一原理なんかメッチャクチャだ。絶対に戻らない」と。
彼が信者に向かって言ってることこそがウソであり、情報コントロール、マインド・コントロールであるということを彼は知らない。
私が苦しんでいるように見えるのは、彼の願望であり、そうでなければ妄想なのである。妄想の世界に生きている彼にとっては仕方のないことなのかもしれないが、決して真実ではないということを、今、明確にしておきたい。
「お父様は首になわをつけてでも(私を)引っぱってこいとおっしゃっている」
と、同じ講演で彼は言っている。
統一教会が「信教の自由」を訴えるなら、私に二度と信仰を強要しないでほしいと思うのは間違いだろうか。
彼や統一教会員は、マインド・コントロールなんか存在しないと言っている。
しかし、マインド・コントロールとはどういうことなのか、きっと本を読んだだけではわからないだろう。マインド・コントロールは現実に存在する。いや、この世はマインド・コントロールだらけだろう。実際に、私は新体操の現役時代、自分で自分をコントロールしていた。また、心理療法として使われることだってある。だから、それらすべてが悪いわけではない。私たちが問題にしなければならないのは他人が他人を、そっとわからないようにしてコントロールし、悪用することである。
私がマインド・コントロールを訴えると、自己正当化していると言われても仕方がないが、彼ら統一教会員の末端信者がいい人であって、いいと思って霊感商法をしていることを知ってほしいだけである。マインド・コントロールの手にかかると、人さえも簡単に殺せてしまう、その恐ろしさを知ってほしいと思うのである。
ただ、マインド・コントロールであろうが、何であろうが、信じて行動したのは自分自身である。その責任を考えたら恐ろしくなるが、だからこそ統一教会は善をふりかざして悪を行う集団として、その罪悪性を訴えずにはいられない。
(つづく)
【解説】
第5章では、洗脳が解けた山崎浩子さんが、統一教会の間違いを冷静に分析しています。
彼や統一教会員は、マインド・コントロールなんか存在しないと言っている。
しかし、マインド・コントロールとはどういうことなのか、きっと本を読んだだけではわからないだろう。マインド・コントロールは現実に存在する。
このように、山崎浩子さんは、マインド・コントロールの恐ろしさを教えてくれています。
獅子風蓮