友岡雅弥さんは「すたぽ」という有料サイトに原稿を投稿していました。
その中に、大震災後の福島に通い続けたレポートがあります。
貴重な記録ですので、かいつまんで紹介したいと思います。
カテゴリー: FUKUSHIMA FACT
FF9-「故郷」をつくること 「故郷」を失うこと
――飯舘村・浪江町の、もう一つの歴史(その9)
アクティビスト、ソーシャル・ライター
友岡雅弥
2018年4月1日 投稿
【フレコンの中身は“ふるさと”】
佐藤健太さん――。
父親とともに、村で小さな工場を営み、村の商工会の青年部長でした。震災のときは、まだ20代。震災以後、かなり高線量にも関わらず、避難が行われなかった状況に疑問を抱き、SNSで、全国、全世界と繋がり(例えば、BBCが佐藤さんの投稿を放送、大きな反響となった)、やがて、それが村を動かし、やっと4月22日に、飯舘村全村が「計画的避難区域」となったのです。
しかし、一ヶ月以上も、高線量のなかに留め置かれた不安は大きく、佐藤さんたちは、「愛する飯舘村を還せプロジェクト 負げねど飯舘!!」(以下、「負げねど飯舘!!」)を作ります。
「負げねど飯舘!!」は、さまざまな活動をしましたが、「健康生活手帳行動記録」を19歳以上の村民全員に無料配布は特筆されるべきでしょう(費用は「負げねど飯舘!!」に寄せられた全国からの寄付、また18歳以下は「負げねど飯舘!!」が村に提案し、村から「までいなからだ健康手帳」が配布)。
手帳は、日記形式で、どこにいたかを記録していく、記憶の手助けになるように、毎日毎日の村での出来事が詳細に記録されています。放射線被爆についての専門知識も掲載され、またさまざま領収書などの書類を貼れるようにもなっています。
それから、御高齢のかたでも開きやすく、勝手に閉じないよう、バインダー方式になっています。
当事者なら不安になる、気になることへの、こまやかな配慮がなされて、佐藤さんから見せていただいたとき、その配慮にとても驚きました。
(写真:健康生活手帳 行動記録)
*佐藤さんは、昨年の村会議員選挙で当選。今は、 村会議員としても活躍されています。
佐藤さんの話――
「5センチの深さにはぎ取った表土の代わりに、山の砂を入れる。ぱっと見たところきれいな明るい砂地のように見えているところがそこらじゅうにありますよね。あれが、除染跡です。
でも、あれは田畑ではないんです。開拓して、長年かかって土地を育ててきた。その土地がはぎ取られたあとなんです。そして、そのはぎ取られた土を入れた黒いフレコンバッグの中身が、開拓以来の農家によって作られた『ふるさと』なんです」
表土をはぎ取ったあとのことについて、思いだしていただきたいのは「石」のことです。
飯舘村の開拓は「石との闘い」でした。表土をはぎ取ったあとの、田畑、特に、牧草地は石だらけの層が、再び、現われてしまったのです。また、開拓当初に戻ったのです。
また、除染あとに「地力回復」の耕うんも行われたはずなのですが、その耕うん作業を行ったのは、農業専門の業者ではなく、建設業者。根切りや土砕きなどの、農業用の耕うんではなく、建設用の整地そのもののやり方だったのです。
「待ってる時間と費用は無駄だったかも。私たちが、また0から耕し直しだね」。ある農家さんのつぶやきです。
黒いフレコンの中身は、ゴミではないのです。半世紀以上もかけて、耕され、育ててきた住民の宝だったものなのです。森を開き、石だらけの固い土から作り育て続け、子々孫々まで残したいと夢見た「故郷」そのものなのです。
ここを離れるということは、単なる「引っ越し」ではありません。村への思いは単なる「郷愁」ではありません。自分たちの、また仲間たちの、先人たちの苦労の歴史を捨てる、ということなのです。
佐藤健太さんは、これから何年、いや何十年とかかる、村の未来の復興のことを考えると、絶望的な思いに何度もかられたと言います。でも、そのたびに思い出し、前進の糧にするのは、飯舘村の大先輩のことばです。
「わしらには、『一代飛ばし』ということばがある。開拓は、子の時代までには間に合わないだろう、だから孫の時代までの尺度で、結果が出ればいい。焦る必要なない。林業なんて、100年後にならないと木はできない。二代飛ばしだよ」
松川仮設でも、「わしらが一代飛ばしでがんばる。開拓の決死隊だ。孫たちが大きくなったら、その時、帰ってきたらいい」と仰るかたが多くいらっしゃいました。
開拓農業や林業は、努力の成果が現われるのは、自分の代ではなく、孫子(まごこ)の時代なのでしょう。その思いで、今までがんばってこられたのでしょう。その長期的なスケール、そしてそれを現実にする、倦まずたゆまずの努力。今、「性急さ」に追い立てられる私たちの社会には、もっとも必要なものです。学ぶものは、とても大きい。
でも、それを美談で終わらせてはいけないと思います。
現実の飯舘村や浪江町、葛尾村の「今」について、私たちは、その思いや行動を傍観するだけでいいのでしょうか?
「もう終わったもの」と、視野から消していいのでしょうか?
佐藤健太さんは「とにかく、飯舘村に来て欲しい。来て見て知って欲しい。そして、そこで感じたことを、自分の住む場所で、なんらかの形で、実践して、社会を変えていって欲しい」と、語っていらっしゃいます。
仮設住宅で、たまたまお昼ご飯をご馳走になっていたとき、同じ仮設のご近所さんが訪ねてこられました。いろんな、世間話のなかで、こんな話がありました。
震災後あちこちの大学の学生とか、役所らしき人(誰が何だか分がらね!)アンケート調査に来て、いつも同じような質問で、答えることが煩わしかった。
自分たちが「実験動物」みたいで、いやだった。
どうしても、役者みたいに被災者を演じる答えを書いてしまう。
相手が書いて欲しい答えを書くんだよな。
戦後、岩手県の農村に、自分たちの生活を自分たちの手で、記録していこうという活動が生まれ、活発に展開していきました。
その活動の先駆者であり、リーダーだった大牟羅良さんは、著書『ものいわぬ農民』のなかで、うわべだけの調査や取材では、「ものいわぬ農民」と見える人たちが、炉辺の雑談のなかで、大声ではなく淡々とですが、とても饒舌に本音を語ってくれる経験を、なんども記しています。
「『これはお上(かみ)の調べでがんすか、アメリカさんの命令だべすか?なじょに書けばよがすべ?』と相談を受けたことがあります」「統計の中には、現実に生きている農村や農民の姿とは、縁もゆかりもない数字が出ていることがあるような気がしてならないのです」(大牟羅良『ものいわぬ農民』岩波新書)
数字だらけの統計やクリシェ(決まり文句)を繰り返すニュースなどでは、分からないことがたくさんあります。
佐藤健太さんが切望しているように、是非、「その場」に足を運んで欲しいと思います。
膨大な人々の「炉辺の声」を記録してきた民俗学の巨人、宮本常一はこう語っています。
「一般大衆は声をたてたがらない。だからいつも見すごされ、見おとされる。しかし見おとしてはいけないのである。記録をもっていないから、また事件がないからといって、平穏無事だったのではない。孜々(しし)営々として働き、その爪跡は文字にのこさなくても、集落に、耕地に、港に、樹木に、道に、そのほかあらゆるものに刻みつけられている。
人手の加わらない自然は、それが雄大であってもさびしいものである。しかし人手の加わった自然には、どこかあたたかさがありなつかしさがある。わたしは自然に加えた人間の愛情の中から、庶民の歴史をかぎわけたいと思っている」
――宮本常一「庶民の風土記を」(『風土記日本』第二巻月報)
営々と、石だらけの土地に刻みつけられた豊かな人々の営み、数多(あまた)の無念さを内封した豊かな歴史を、かぎわけたいと思っていま す。
だから、また、飯舘村に行ってこようと思います。浪江町にも。飯舘村は、もう村内で宿泊できるので、村営施設か、知り合いの家に泊まってこようと思っています。
(写真:飯舘村の春 一昨年、4月15日)
(写真:飯舘村の春 一昨年、4月15日)
【解説】
黒いフレコンの中身は、ゴミではないのです。半世紀以上もかけて、耕され、育ててきた住民の宝だったものなのです。森を開き、石だらけの固い土から作り育て続け、子々孫々まで残したいと夢見た「故郷」そのものなのです。
ハッとする指摘です。
「わしらには、『一代飛ばし』ということばがある。開拓は、子の時代までには間に合わないだろう、だから孫の時代までの尺度で、結果が出ればいい。焦る必要なない。林業なんて、100年後にならないと木はできない。二代飛ばしだよ」
松川仮設でも、「わしらが一代飛ばしでがんばる。開拓の決死隊だ。孫たちが大きくなったら、その時、帰ってきたらいい」と仰るかたが多くいらっしゃいました。
開拓農業や林業は、努力の成果が現われるのは、自分の代ではなく、孫子(まごこ)の時代なのでしょう。その思いで、今までがんばってこられたのでしょう。その長期的なスケール、そしてそれを現実にする、倦まずたゆまずの努力。今、「性急さ」に追い立てられる私たちの社会には、もっとも必要なものです。学ぶものは、とても大きい。
共感します。
いろいろ学ぶところの多いレポートでした。
このシリーズは、ひとまず終了します。
獅子風蓮