山崎浩子『愛が偽りに終わるとき』(文藝春秋1994年3月)
より、引用しました。
著作権上、問題があればすぐに削除する用意がありますが、できるだけ多くの人に読んでいただく価値がある本だと思いますので、本の内容を忠実に再現しています。
なお、漢数字などは読みやすいように算用数字に直しました。
(目次)
□第1章 「神の子」になる
□第2章 盲信者
□第3章 神が選んだ伴侶
□第4章 暴かれた嘘
■第5章 悪夢は消えた
□あとがき
T子の統一教会への抵抗
私は、彼女から、私がいなくなってからの様々なことを聞いた。
私の失跡が表ざたになる前日の夜中、某スポーツ新聞の記者を東京・松濤の本部に呼んで、勅使河原さんが詳細を説明したのだという。その部屋にはムービーカメラが設置されていて、T子たちは別の部屋のモニターで、その模様を見ていたのだそうだ。
私は、自分も行ったことがあるかもしれないその部屋に、カメラが設置されていたことを思うと、薄気味悪くなった。
彼女は、私の失跡を公表する記者会見は勝手にやらないでくれ、と教会の人に頼んでいた。事が大げさになると、私が大事に思っているスクールに迷惑がかかると思ったからである。
でも、彼女がまた松濤本部に呼ばれた時は、もう各社に記者会見を行う旨のFAXを流したあとだった。
教会はこの「失跡記者会見」の時に、統一教会の敵である「被害者弁護士連絡協議会」の弁護士を会場から追い出した。彼女はそれを見て、私が記者会見をやる時には、反対に統一教会の関係者が追い出されても仕方がないなと思ったらしい。
私の机の上に置いてあった婚姻届は、教会幹部の一人が「書いて出してしまえ」と言ったそうである。さすがにそこまではしなかったが、教会は、私が以前に書いた統一教会を賛美する手記も出版しようとしていた。彼女は、私がいなくなってすぐに、手記を一部でも使ってはならないと、会社の人間として教会の人に釘をさしていたにもかかわらずである。
「本の著作権は、本人にある。いったい、どうなってるんですか」
と彼女はかみついた。教会の人は、
「浩子さんが、どれだけみ言が素晴らしいと思っていたか知らせるべきだ」
という。そして、
「あなたが会社の人間としてそう言うのはわかるけど、御言を聞いている人間としてはどうなの?」
と問いただされた。統一教会員として一番に考えなければならないことを指摘されたのだ。彼女は一瞬ひるんだが、
「統一教会は、山崎が堕ちると思っているんですか? 山崎が出てきてから、“拉致・監禁”まで入れて出せばいいじゃないですか。山崎がいない時に中途半端な形で出すのはおかしいですよ」
と答えた。私の脱会をいちばん信じていなかったのは彼女だったのかもしれない。
教会側の必死の捜索
統一教会は、私の居所を知りたいと、多種多様の手を使った。S牧師には、はやくからあたりをつけていたという。
一度はその場所を発見して、“助けよう”と、人集めのためにその地域にFAXを流したらしい。
「百人ぐらいで行ったんだけど、踏みこんだら、もぬけの殻だったそうよ。どうも内部にスパイがいるみたいなの。対策本部の方もがっかりしているそうよ」
そんなふうに、T子は聞いていた。「内部にスパイがいるようだ」ということを、みんな警戒していて、彼女も誰を信じていいのかわからなくなっていった。
「それねえ、私もちょっと聞いたけど、全然見当違いのところに踏みこんだんだよ。そんなところにはいなかったもん」
私が言うと、彼女は「ア、ソウ」とあきれていたが、私の失跡後は、いつも怯えるようになったのだという。
私がいなくなってすぐに、彼女は、
「(反牧に狙われているのは)次はあなたの番よ」
と、何人もの教会関係者に言われた。24時間体制のボディガードをつけましょうかと言われ、さすがにことわったものの、車のバンを見るとビクビクした。反牧か、そうでなければマスコミじゃないかと不安をつのらせていたのだ。
教会内部も、混乱をきたしていたという。各地からも、いろんな情報が入ってくる。
本部では「お前たちがしっかりしてないから、こういうことになるんだ」と信仰の先輩方から怒られているというし、電話が殺到し、パニックになっていた。
彼女も、神に近いはずの幹部の人たちが、お互いに怒鳴り合っている様子を見て、こういう人たちが中心でやっているんじゃあ、まとまるものもまとまらないなと不信感を持った。
各地で啓示が下りたといって、本部に次々と連絡が入る。
断食をしていて身体が弱っている。黄色い錠剤を飲まされていて、身体が思うように動かなくなって、このままじゃ大変だ。毎日、よってたかって原理を捨てろといわれている。琵琶湖のあたりだ。京都だ。和歌山だ。
各地での“啓示”がおりるたびに、本部ははやく助けなければと翻弄された。
そして霊能師のM先生が、T子に電話をしてきた。
「祈祷してるんだけど、サタンがガードしていて、元信者たちが浩子さんが堕ちるようにと祈っているから、なかなか祈祷が届かないのよねえ。元信者は、元信者だけあって、祈祷してろって言ったら、ずっと祈祷してるからね」
彼女は、「でも元信者より現信者の方が多いんじゃないんですか. こっちには神とメシアがついてるじゃないんですか」と純粋に答えた。
M先生は「あら、そうねえ」と言って電話を切ったという。
「自己犠牲」と「出世」の矛盾
別な時、またM先生から連絡が入った。
霊能者にも得手、不得手があるから、必死で祈っているんだけど居場所がわからない。それで、いい霊能者を知らないか、ということだったらしい。
「わかりました。聞いてみます」と彼女は言い、その後ある人に紹介された霊能者を、M先生に紹介した。その霊能者も同じ教会員だった。
M先生はその人に連絡を入れたあと、
「電話をしたら、私もよく知っている人だったわ。その人のお母さんは能力のある人で、私と昔、よく組んでやっていたのよ。その息子さんも知ってるけど、東京にいたかったのに、地方にとばされたのよ。少なくとも彼は霊眼なんか開けてないわ。M先生、霊眼が開けたんですよォってうれしそうに言ってたから、そんなこと言うもんじゃないってたしなめといたわ」
と彼女に説明をした。
彼女はびっくりしたという。地方にとばされたという表現が、宗教の世界にあるものなのかと意外だったのだ。
それは私も同感だった。そして以前、神山名誉会長からも同じような表現を聞いたことを思い出した。
2月末にあった教会内の講演で、神山名誉会長は昔のことを振り返り、御旨を歩んでいる初期の頃、「私の(教会内の)出世はどうなる?」と思ったことがあったと話していた。話はその後、いかに自己犠牲、自己否定が大切かを話されて、感動したものだった。でもその時に、何かひっかかっていたものが、あざやかによみがえる。
(なぜ、宗教の世界で、出世が必要なのだろう)
「私の出世はどうなる?」
「地方にとばされたのよ」
どちらも、この表現は理解しがたいものだった。
それに、霊眼が開けたと喜んでいる人を怒ってたしなめて、あなたは霊眼なんか開けていないと言うこと自体がおかしい。統一教会の教えでは、御言を学び、神の御旨を歩んでいれば、霊眼が開けてくるはずだった。統一教会の考えからすれば、突然霊眼が開けてもおかしくないはずなのにと、私たちは言い合った。
M先生はその後、環故郷(故郷へ帰る)の摂理ということで、和歌山の方へ移られた。
そこからT子に電話をしてきた。
「やっぱり近くにいると、お祈りが通じるのよねえ」
と喜んでいたらしい。
その頃、私は東京にいた。和歌山の近くなどにはいなかった。私が三重や名古屋にいるという情報が流れていたので、近くにいると思いこんだのだろう。
まあ、それもわからないではなかった。
(つづく)
【解説】
第5章では、山崎浩子さんが脱会記者会見を行ってからのことがていねいに描かれています。
“拉致・監禁”された山崎さんを巡って、教会側が慌てて右往左往するさまが描かれています。霊能者のふるまいが間抜けですね。
獅子風蓮