日々史跡めぐり

日本のあちこちの史跡、神社仏閣を巡っています

京都の神田明神

2013-09-26 | 平将門
一昨年、祇園祭で京都に行った際、山鉾を見学しながら、京都の神田明神を探し歩いてみました。

京都の神田明神は、四条通新町西入下ル新釜座町にあります。



2月14日といえば世間一般では、バレンタインデーですが、平将門公の命日でもあり、マイバースデ

ーでもあります。

何か将門さまとの縁のようなものを勝手に感じ、将門公の史跡を巡っています。

地図を持って行ったのですが、見つからず、近くの人に尋ねてやっとわかりました。

細い小路の間にあるわかりにくい場所にあります。

この地に将門公の首が晒され、空也上人が手厚く葬ったと伝えられています。





築土神社が祀られた頃、当時“市聖”とあがめられていた高僧の空也上人は京の都において、将門の首が晒された地に堂を建て手厚く供養したという。いつしか「空也供養の道場」と呼ばれるようになり、後にこれがクウヤクヨウ…がなまってコウヤク、細い路地に位置することから“膏薬の辻子(こうやくのずし)”として地名になったと伝わっている。明治2年に南北に分かれていた膏薬辻子を合併し、現在の町名(新釜座町)に変えられるまではこの名で呼ばれていた。江戸時代の地誌類にはいくつかに掲げられている。『京雀』「かうやくの辻子」のくだりには「又此町の南にて行當神田明神の社有」と記載されている。 『拾遺都名所図会~巻一~』においても「天慶3年に平将門の首を晒したところであり、それよりこの地に家を建てると祟りがある」「空也上人は将門の亡霊をここに供養し、石を建てて印とした」という内容が書かれている。 明治に入ってからの、『京都日出新聞』では将門の首塚を発見したという記事が載ったが、大正初年の『京都坊目誌』には将門との縁を否定する文が残されている。(Wikipediaより)
















史跡というよりも、ちょっとしたギャラリーのような雰囲気でした

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烏森神社

2013-09-18 | 平将門
東京のJR新橋駅から2分ほどのところにある烏森神社



天慶3年(940年)、平将門が乱を起こした時、藤原秀郷(俵藤太)が武蔵国のある稲荷神社に戦勝を祈願した際、白狐が現れて白羽の矢を秀郷に与えました。

その矢を持って行ったところ、速やかに乱を鎮めることができたので、お礼に稲荷神社を創建しようと考えていた時、夢に白狐が現れ、神鳥が群がる場所が霊地であるとお告げしました。



桜田村の森に来た所、烏が群がっていたので、そこに神社を創建したのが当社の始まりであるといいます。









境内には心願色みくじというのがあります。



願い事により色が決まるそうです。





例大祭は日比谷神社と交互に隔年で行われているそうです。





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水稲荷神社

2013-09-15 | 平将門
新宿西早稲田にある水稲荷神社は、将門調伏に関わる神社です。



天慶四年(941年)俵藤太秀郷朝臣が、旧社地の富塚の上に稲荷大神を勧請し、古くは「富塚稲荷」「将軍稲荷」といわれました。



江戸中期、境内の大椋に霊水が湧き評判を呼んだことが、神社名の由来の一つであるそうで、眼病のほか水商売および消防の神様としても有名です。



天明8年(1788年)の京都の皇居火災の際、こちらのお稲荷様が消火に努め、天皇から関東稲荷惣領職を賜ったという伝説が残されており、その稲荷神の神託によって、源経基は、将門を滅ぼしたと伝えられています。



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将門塚

2013-09-13 | 平将門
さあ、ついにこの場所にやって来ました。

平将門の首塚「将門塚」です。



場所は大手町のパルビルと三井物産ビルの間に挟まれた緑に囲まれた一画にあります。
ここに来るにはかなりの勇気が要りました。
なぜかと言うと、ここは、いろいろな伝説が残されており、水や花をお供えせずにお参りしたり、塚の写真を撮ると、事故に遭うとかカメラが壊れるとか・・・

とりあえず、お供えする水は持って、塚へお参りすることにしました。



しかし、ここに着いたとたん、雨が風が一層強くなり、ただでさえ、怖いとされている場所なので、訪れたことを後悔させられるような雰囲気になってきました。





それでも何とか撮影を続け・・・



首塚の境内には、多数の蛙の置物が奉納されています。



将門の首が京から飛んで「帰った」ことから、必ず帰る=カエルにひっかけているそうです。

将門塚がある場所は、江戸時代、譜代の重臣・酒井雅楽頭の上屋敷でした。



真正面からのアングルは避け、斜めから撮影

供養碑の後ろにあるのが、もともと将門の墓といわれる石灯籠




将門は、伯父の平国香を殺し、下総・常陸で反乱をおこし、関東を制覇。新王と称したが、940年2月14日、平貞盛、藤原秀郷に討たれた。

東京都千代田区大手町にある将門塚の歴史

この地はかつて武蔵国豊嶋郡芝崎村であった。住民は長らく将門の怨霊に苦しめられてきたという。諸国を遊行回国中であった遊行二祖他阿真教が徳治2年(1307年)、将門に「蓮阿弥陀仏」の法名を贈って首塚の上に自らが揮毫した板碑を建立し、かたわらの天台宗寺院日輪寺を時宗(じしゅう)芝崎道場に改宗したという。日輪寺は、将門の「体」が訛って「神田」になったという神田明神の別当として将門信仰を伝えてきた。その後江戸時代になって日輪寺は浅草に移転させられるが、今なお神田明神とともに首塚を護持している。時宗(じしゅう)における怨霊済度の好例である。

首塚そのものは関東大震災によって倒壊し、周辺跡地に大蔵省が建てられることとなり、石室など首塚の大規模な発掘調査が行われた。その後大蔵省が建てられるが、工事関係者や大蔵省職員の相次ぐ不審死が起こり、将門の祟りが大蔵省内で噂されることとなる。大蔵省内の動揺を抑えるため昭和2年に将門鎮魂碑が建立され、神田明神の宮司が祭主となって盛大な将門鎮魂祭が執り行われる。この将門鎮魂碑には日輪寺にある他阿真教上人の直筆の石版から「南無阿弥陀仏」が拓本された。

この地は、東京駅に近く皇居の間近に位置するため、周辺にはオフィスビルが林立しているが、この一角だけはそれほど広い敷地ではないにもかかわらず鬱蒼とした木が茂り、現在でも、一種異様な雰囲気を醸し出している。敷地内には、蛙(ガマガエル)の置物が数多く石碑の周囲に置かれている(後述)。そして、線香の匂いが絶えることがなく物静かで、そこに表通りの車の音がする場所である。

数十年にわたり地元のボランティア団体が浄財を元に周辺の清掃・整備を行っているが、その資金の預金先として、隣接する三菱東京UFJ銀行に「平将門」名義で口座が開かれていた。

祟り伝説

築土神社や神田明神同様に、古くから江戸の地における霊地として、尊崇と畏怖とが入り混じった崇敬を受け続けてきた。この地に対して不敬な行為に及べば祟りがあるという伝承が出来たのも頷けるものがある。そのことを最も象徴的に表すのが、第二次世界大戦後に、GHQが周辺の区画整理にとって障害となるこの地を造成しようとしたとき、不審な事故が相次いだため、結局、造成計画を取り止めたという事件である。

結果、首塚は戦後も残ることとなり、今日まで、そのひと気のない様に反し、毎日、香華の絶えない程の崇敬ぶりを示している。近隣の企業が参加した「史蹟将門塚保存会」が設立され、聖域として守られている。その一方、一部のオカルトファンに心霊スポットとみられる風潮もある。

隣接するビルは塚を見下ろすことのないよう窓は設けていないとか、それらのビルでは塚に対して管理職などが尻を向けないように特殊な机の配置を行っているといったことが話題に上ることがあるが、これらは都市伝説の類である。(Wikipediaより)

この将門塚にまつわる噂は、単なる噂話かと思ってたのですが、PCに写真を取り込んだ後、SDカードとバッテリーが壊れ、デジカメの調子までおかしくなりました。

これはまさか・・・

後日談

結局、この日以来、カメラは不調のまま。撮影した画像が認識できない状態になってしまうので、新しくデジカメを購入することになりました。

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稲荷鬼王神社

2013-09-10 | 平将門
東京都新宿区にある稲荷鬼王神社。



稲荷神社は、承応二年(1653)将軍家綱の頃、当所の氏神として稲荷大明神を勧請されたもので、鬼王神社は、宝暦二年(1753)当所の百姓田中清右衛門が紀州熊野から鬼王権現を勧請し、天保二年(1831、稲荷神社に合祀されたといいます。



この鬼王権現は、湿疹・腫物などの病に霊験があり、当社に豆腐を奉納して、治るまで豆腐断ちをするといいます。鬼を春の神とみなし、春の節分には、「福は内、鬼は内」と唱えるとか。
神社の説明には、将門公について触れているところはありませんが、「鬼王」という名の由来は、将門の幼名「鬼王丸」から来ているといわれ、将門の霊を祀っているといわれています。



鳥居の左手に力士様と呼ばれる鬼の形をした石の水鉢があります。



もとは、文政の頃、加賀美某の邸内にあったもので、そこから毎晩夜中に井戸で水浴びをするような音がするので、加賀美某が、刀で切り付けたところ災難が頻繁に続いたといいます。そこで、天保四年、刀と共に鉢が当社に寄進されました。
鬼の肩に刀傷が残っているそうですが、はっきりとはわかりませんでした。
この鉢に水を注ぐと、熱病や子供の夜泣きに霊験があるそうです。



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