「桶狭間の戦い」といえば、誰もが知る永禄3年(1560)の織田信長対今川義元の戦いですね。
しかし、合戦の実態については不確かなことも多く、さまざまな議論を呼んでいます。
豊明市と名古屋市緑区の「本家争い」は、今川義元戦死の地が大脇村(屋形はさま)に属していたか桶廻間村(田楽坪)に属していたかについて、後年のそれぞれの所属自治体(愛知郡豊明村→同郡豊明町→豊明市、知多郡有松町→名古屋市緑区)が自らの行政区域に属すると主張しあうことで、繰り広げられてきたものである。義元敗死の地をもって古戦場と見なす考えかたから、屋形はさまと田楽坪は、現在それぞれ「桶狭間古戦場伝説地」・「桶狭間古戦場跡(桶狭間古戦場公園)」として、それぞれの自治体から史跡の扱いを受けている。
昭和時代の初めに「桶狭間古戦場の碑」が鞍流瀬川の底から引き上げられ、この頃より有松町の田楽坪を今川義元戦死の地とする主張が本格的になったとみられることから、「本家争い」が表面化したのは昭和時代以降の、比較的近年であるともいえる。(Wikipedia)
一昨年の9月、この二つの「桶狭間古戦場伝説地」「桶狭間古戦場跡古戦場」を訪ねて来ました。
まずは、桶狭間古戦場伝説地を紹介します。
桶狭間古戦場伝説地は豊明にあり、国の史跡に指定されています。
桶狭間の戦いの際に今川義元が敗死した推定地のひとつとして「屋形はさま」の名で古くから知られています。
桶狭間の戦い
今川義元は、約2万5000人の軍勢を率いて永禄3年(1560年)5月12日に駿府(静岡)を出発した。17日に岡崎へ、18日には沓掛城に入り、尾張大攻撃の準備をした。
織田信長は、5月19日未明清洲城出陣に際し、幸若舞の敦盛を舞い、馬上の人となった。清洲を出るときは、主従わずかに6騎、途中輪乗りをかけて人数を待ち、熱田神宮に戦勝祈願をした頃は、1000人余りとなり、合戦のときには軍勢3000人ほどになった。
今川軍は、難なく丸根・鷲津を攻め落とし、本陣は桶狭間の松林に休憩して、戦況を聞きつつ昼食をとっていた。その折、天候が急変して夕立となり、狼狽する義元勢をめがけ、太子ヶ根に待機していた信長は一挙に本陣めがけて切り込んだ。信長の家臣服部小平太が、槍で義元を刺し、毛利新助が後ろから組み付いて首を取った。(豊明市HPより)
七石表
今川義元の戦死した場所を示す最も古いもの。
今川治部大輔義元墓
明治9年に建てられたものです。
今川義元仏式の墓
万延元年に建てられたもの。方形の石柱に笠と蓮花弁を模した台座がつく墓塔型式であり、そのため「仏式の墓」と呼ばれています。
桶狭弔古碑
古戦場が放置され荒れ果てていくのを嘆き、その由来を明らかにするとの趣旨が、裏面の碑陰記に記されています。
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しかし、合戦の実態については不確かなことも多く、さまざまな議論を呼んでいます。
豊明市と名古屋市緑区の「本家争い」は、今川義元戦死の地が大脇村(屋形はさま)に属していたか桶廻間村(田楽坪)に属していたかについて、後年のそれぞれの所属自治体(愛知郡豊明村→同郡豊明町→豊明市、知多郡有松町→名古屋市緑区)が自らの行政区域に属すると主張しあうことで、繰り広げられてきたものである。義元敗死の地をもって古戦場と見なす考えかたから、屋形はさまと田楽坪は、現在それぞれ「桶狭間古戦場伝説地」・「桶狭間古戦場跡(桶狭間古戦場公園)」として、それぞれの自治体から史跡の扱いを受けている。
昭和時代の初めに「桶狭間古戦場の碑」が鞍流瀬川の底から引き上げられ、この頃より有松町の田楽坪を今川義元戦死の地とする主張が本格的になったとみられることから、「本家争い」が表面化したのは昭和時代以降の、比較的近年であるともいえる。(Wikipedia)
一昨年の9月、この二つの「桶狭間古戦場伝説地」「桶狭間古戦場跡古戦場」を訪ねて来ました。
まずは、桶狭間古戦場伝説地を紹介します。
桶狭間古戦場伝説地は豊明にあり、国の史跡に指定されています。
桶狭間の戦いの際に今川義元が敗死した推定地のひとつとして「屋形はさま」の名で古くから知られています。
桶狭間の戦い
今川義元は、約2万5000人の軍勢を率いて永禄3年(1560年)5月12日に駿府(静岡)を出発した。17日に岡崎へ、18日には沓掛城に入り、尾張大攻撃の準備をした。
織田信長は、5月19日未明清洲城出陣に際し、幸若舞の敦盛を舞い、馬上の人となった。清洲を出るときは、主従わずかに6騎、途中輪乗りをかけて人数を待ち、熱田神宮に戦勝祈願をした頃は、1000人余りとなり、合戦のときには軍勢3000人ほどになった。
今川軍は、難なく丸根・鷲津を攻め落とし、本陣は桶狭間の松林に休憩して、戦況を聞きつつ昼食をとっていた。その折、天候が急変して夕立となり、狼狽する義元勢をめがけ、太子ヶ根に待機していた信長は一挙に本陣めがけて切り込んだ。信長の家臣服部小平太が、槍で義元を刺し、毛利新助が後ろから組み付いて首を取った。(豊明市HPより)
七石表
今川義元の戦死した場所を示す最も古いもの。
今川治部大輔義元墓
明治9年に建てられたものです。
今川義元仏式の墓
万延元年に建てられたもの。方形の石柱に笠と蓮花弁を模した台座がつく墓塔型式であり、そのため「仏式の墓」と呼ばれています。
桶狭弔古碑
古戦場が放置され荒れ果てていくのを嘆き、その由来を明らかにするとの趣旨が、裏面の碑陰記に記されています。
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コンサートやに美術展を見に行くことが多かったので・・・
昨年は一度も行く機会がありませんでした。
尾張、三河地方はまだまだ見れていません。
今年中に行かないと、11月からは自家用車の旅は止めるつもりです。
昨年7月和歌山市での事故に懲りています。