東京・有楽町の歴史を追って歩いてみました。
有楽町の町の名前といえば・・・すぐにある人物の名が浮かぶことでしょう。
そう!織田有楽斎です。
現在の東宝ツインタワービルの前から日比谷シャンテにかけて、江戸時代初期、織田信長の弟・織田有楽斎の屋敷があったといわれています。
明治に入り、有楽町の名前がうまれたそうです。
JRのガードをくぐった辺りは、数寄屋橋門のあったところで、有楽町マリオンが、南町奉行所跡で、東京交通会館の通りの南側に碑があります。
今まで何度も通っていながら、この案内板に気付かないでいました。(^_^;)
う~ん、たしかにこれはわかりにくい(-_-;)
東京都指定旧跡
南町奉行所跡
江戸町奉行は、寺社奉行、勘定奉行とともに徳川幕府の三奉行のひとつでした。その職掌は、江戸府内の行政・司法・警察など多方面に及び、定員二名で南北両奉行に分かれ月番で交替に執務していました。名奉行大岡越前守忠相は、享保2年(1717)から元文元年(1736)にかけて南町奉行としてここで執務をしていました。
南町奉行所は、宝永4年(1707)に常盤橋門内から数寄屋橋門内に移転し、幕末までこの地にありました。その範囲は、有楽町駅および東側街区一帯にあたり、平成17年の発掘調査では、奉行所表門に面した下水溝や役所内に設けられた井戸、土蔵などが発見されました。また、「大岡越前守屋敷」と墨書きされた荷札も出土しました。
再開発事業では、石組下水溝の一部をここに再現するとともに、石材を事業地内でベンチなどに活用しています。
所在地 千代田区有楽町二丁目
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有楽町の町の名前といえば・・・すぐにある人物の名が浮かぶことでしょう。
そう!織田有楽斎です。
現在の東宝ツインタワービルの前から日比谷シャンテにかけて、江戸時代初期、織田信長の弟・織田有楽斎の屋敷があったといわれています。
明治に入り、有楽町の名前がうまれたそうです。
JRのガードをくぐった辺りは、数寄屋橋門のあったところで、有楽町マリオンが、南町奉行所跡で、東京交通会館の通りの南側に碑があります。
今まで何度も通っていながら、この案内板に気付かないでいました。(^_^;)
う~ん、たしかにこれはわかりにくい(-_-;)
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南町奉行所跡
江戸町奉行は、寺社奉行、勘定奉行とともに徳川幕府の三奉行のひとつでした。その職掌は、江戸府内の行政・司法・警察など多方面に及び、定員二名で南北両奉行に分かれ月番で交替に執務していました。名奉行大岡越前守忠相は、享保2年(1717)から元文元年(1736)にかけて南町奉行としてここで執務をしていました。
南町奉行所は、宝永4年(1707)に常盤橋門内から数寄屋橋門内に移転し、幕末までこの地にありました。その範囲は、有楽町駅および東側街区一帯にあたり、平成17年の発掘調査では、奉行所表門に面した下水溝や役所内に設けられた井戸、土蔵などが発見されました。また、「大岡越前守屋敷」と墨書きされた荷札も出土しました。
再開発事業では、石組下水溝の一部をここに再現するとともに、石材を事業地内でベンチなどに活用しています。
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ただ残るのは銘鈑のみですね。でも銘鈑を残すだけでもましですね!