詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

「豊かさ」について

2024-12-13 15:33:50 | 考える日記

  あるインターネットのサイトでAIと労働が問題になったことがある。AIロボットの社会進出と社会的人間の関係がテーマである。労働が奪われると、人間はどうなるか、と簡単に要約できる問題ではないが、簡単に言えば、そういうことがテーマである。このテーマを最初に持ち出したひとは、「AIロボットが人間の労働を奪うと、人間に影響を与える」ということを懸念していた。私も、人間の本質そのものに影響を与えると考えている。人間は労働をとおして社会を(世界を)認識するからである。
 これに対して、あるひとが、こんなことを言った。
 「AIは人間を労働から解放する。労働に拘束されない人間は感性を楽しむことができる、人生の喜びを味わうことができる」
 この楽観主義に対して私は疑問を持った。だから、こう書いた。
 「働く、というのは、人間関係の基本。働いているときは、あまり実感がなかったけれど、年金生活になって痛切に感じる。働くということは、ことばを使うのと同じ。ことばなしに考えることはできない。働かなくというのは、ことばを失うということに等しい」

 これ対するそのひとの反応は、
 「あなたが仕事以外に人生を豊かにする行動を何もして来なかったからですよ」
 というものであった。そのひとの言う「人生を豊かにする行動」というのは、全体の文脈のなかでとらえると、「人間の感性を楽しむ」「人生の喜びを味わう」ということだろう。そして、その具体例として、
 「道端に咲いてる名も知らぬ花の可憐な美しさ、頬を撫でるそよ風の爽快感、愛する人と生きる喜び」
 と書いている。「人生の喜び=人生の豊かさ=感性を楽しむ」であり、その具体例として、たとえば「道端に咲いてる名も知らぬ花の可憐な美しさ、頬を撫でるそよ風の爽快感、愛する人と生きる」があげられているのだが、「人生の豊かさ」とは、はたして、そういうものだけだろうか。そのことについて、私は疑問に思っている。

 たとえば。

 佐多稲子「キャラメル工場から」の少女は、キャラメル工場で働く少女を描いているが、その少女がトイレで学校の先生からの手紙を読む。そのシーンで、思わず涙が込み上げてこないか。少女はとても「不幸」である。しかし、彼女が「不幸」であることを理解した上で、なおかつ、少女と教師とのあいだにかわされている「人間の交流」に触れ、こみあげてくるものがないか。こらえてもこらえても、涙が出てくる。
 あるいは、その少女が初めて工場へ行くとき電車に乗る。そうすると、その電車の中に、乗り合わせたひとの「息の匂い」がする。味噌汁の匂い。それぞれのひとが食べてきた味噌汁の匂い。ひとりひとりが違う。そのひとりひとりがみんな働きに出ている。その背後にひとりひとりの家庭、事情がある。それを瞬間的に悟る。その描写に、胸を打たれないか。はっとする。その「はっ」は抑えることのできない驚きである。
 あるいは歌舞伎(あるいは森鴎外の小説の)「じいさんばあさん」。ふとしたことから夫が知人を切ってしまう。そのためにふたりは四十年近く別れて暮らす。四十年後、やっと昔住んでいた家にもどり、再会する。苦しくて、つらい人生である。しかし、そのふたりが桜の花を身ながら過去を振り返ることばを聞くとき、胸にあふれてくる思いはないか。思わずすすり泣いてしまわないか。歌舞伎ならば、まわりにひと(観客)がいるだろう。そのひとたちにすすり泣いていることを知られても、それでも泣いてしまうだろう。こらえきれない。
 こうした、こらえきれない感情。そこにあるのは感情の「豊かさ」である。感情が豊かでなければ、その感情は、肉体を突き破る嗚咽や涙にはならない。こらえてもこらえてもあふれてくるものが「豊かさ」というものなのだ。
 野の花の美しさに感動したり、風のさわやかさを感じるだけが「感性の豊かさ」ではない。
 そして、どんな「感性/感情」にしろ、それは「ひとり」で育てることができるものではない。ひととの触れないのなかで、教えられ、学ぶものである。ひとに接しない限り、自分がどういう人間であるか、人間は理解できない。本(ことば)を読まない限り、自画像をことばで描き出すことはできない。他人(生きていく過程で接したひと)や本(他人のことば)に触れない限り、ひとは自分を豊かにすることはできない。ひとに接するいちばんの方法は、働くことである。どんな仕事をするにしろ、そこには他人との接触がある。
 冬の朝、仕事のために駆け込んだ電車のなかで、同じように電車に乗り込んでいるひとの息に気がついた体験、だれかから自分のことを気にかけている手紙を(ことばを)もらったことのない人間、それに通じることを体験したことのない人間には「キャラメル工場から」のことばの切実な美しさはわかりにくいだろう。想像しにくいだろう。そこに書かれていることばが、どんなに美しいか感じることはむずかしいだろう。

 さらに、こう付け足すこともできる。
 「キャラメル工場から」も「じいさんばあさん」も、どちらかというと「不幸なひと」の話である。働かずにすむひとの話ではない。恵まれた人生を歩いてきたひとの話ではない。しかし、多くのひとは、それを何度も読み返す。何度も同じ芝居を見る。もう知っている話なのに、どうしても読み返してしまう。見直してしまう。それは、「読み返したい」「見直したい」からである。それは「泣きたい」からである。「泣くこと」のなかにも「豊かさ」があるのだ。「共感」という「豊かさ」がある。「豊かさ」は「共感」をとおして、さらに大きくなっていくものなのである。
 さらに言えば、この「共感」のためには、「他人」が必要である。知っているひとだけではなく、「知らない他人」ともつながっていく「共感」。その「知らない他人」とつながるためには、どうしても「働く」ということ、「仕事」をとおして「知らないひと」の存在を認識できる能力を身につける必要がある。

 さらに書いておこう。
 たとえば「ロミオとジュリエット」「曽根崎心中」でも何でもが、不幸な恋人の話、死んでしまう恋人の話。ひとは何度でも読み、見る。ストーリーもわかっているし、泣いてしまうこともわかっているのに、読んで、見て、泣く。そのとき、多くのひとは知るのだ。その「結末」は悲しい。それは、できれば否定したい結末である。しかし、その「結末」までに描かれている「ふたりの感情」は、とても充実している。愛に満ちている。ふたりの感情は「豊か」である。多くのひとは、その「豊かさ」にひたり(共感し)、自分の感性を「豊か」にする。
 「豊か」は、いろいろな形をとるのである。その「いろいろな形の豊かさ」を実感するためには、いろいろ他人と出会わないといけない。「働く」というのは、その第一歩である。

 

コメント (1)
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