Facebookのあるサイトで、AIの登場と、労働、社会的人間の関係が話題になった。そのとき、私は「働く、というのは、人間関係の基本。働いているときは、あまり実感がなかったけれど、年金生活になって痛切に感じる。働くということは、ことばを使うのと同じ。ことばなしに考えることはできない。働かなくというのは、ことばを失うということに等しい」というようなことを書いた。
私のコメントに、あるビジターが「あなたが仕事以外に人生を豊かにする行動を何もして来なかったからですよ」とコメントを寄せてきた。私は、そのビジターの名前には見覚えがなかった。知り合いではない。接触したことはもちろんないし、知人をとおしてその人のことを聞いたこともない。私は、そのひとを知らない。だから、私は、そのひとは私のことを知らないだろうと考えた。何を根拠に、そのビジターは「あなたが仕事以外に人生を豊かにする行動を何もして来なかったからですよ」と言っているのか、わからなかった。もしそのビジターが私とは何の接触もないひとならば、なぜそんな批判をされなければならないのか、理由もわからなかった。(いまでも、わからない。)
たしかに私は貧乏な家で生まれ育ったが、それだからといって「豊かではない」と見知らぬひとに、インターネット上で言われる必然性もない。だから、どうしてそういう批判をするのか、私の人生に対してなぜそう判断するのかを問いながら、同時に、そのビジターが書いていることに対する疑問も書いた。
すると突然、「無断転載だ。著作権侵害だ。削除しろ」という要求をしてきた。
だれが何を言うか(書くか)は、表現の自由の問題。そのビジターは、「表現の自由」の権利を行使して、「あなたが仕事以外に人生を豊かにする行動を何もして来なかったからですよ」と批判している。このことに対して、私が質問すると(付随反論を含む)、私のコメントを引用するな。著作権侵害だ」と言う。
この論理は、おかしくないか。
そのビジターには「表現の自由」と「著作権保護」の権利がある。しかし、私には質問する、反論する「表現の自由」はない、ということにならないか。一方的に、自分の「表現の自由」を主張し、他人にその権利を認めないのは「独裁」というものではないのか。
もし気に食わない意見(批評)に対して、それを封じるために「著作権侵害」を主張するのだとすれば、それは「表現の自由」への圧力をかけるというものだろう。だから「独裁」と私は言うのである。
著作権についていえば、私は、他人の文章(ことば)を引用するときは、必ず「出典」を明記している。(今回の文章には、それを省略しているが、それはこの文章を読んでいるひとには自明のことであるからだ。何回か、書いてきた文章のつづきだからだ。)
著作権法にも、たしか「引用」にあたっては、それが引用であることがわかるようにすべきであるという規定があったと思う。それは逆に言えば、引用であることを明記していれば、著作権法には違反しないということである。もちろん、ただ引用するだけでは、盗作・剽窃になる。引用に対する意見が必要である。引用は従、私の主張が主になるように書いている。これも法に従っている。
著作権の問題に関しては、私は、かつて次のようなことを体験したことがある。
ある掲示板(「表現の自由」に関することがテーマだった)の、あるグループから崇拝されているひとの意見について批判した。すると、そのグループのメンバーが「筵に巻いて、玄界灘に投げ込んでやる」とメールに書いてきた。これは、脅迫である。それ以外にも、会社の人事部に電話をかけてきて、私が書いてもいないことを、「こんなことを書いている」と主張し、処分を訴えた。電話については、私は記録を持っていないが、メールは私宛に来たので、持っている。そこでそのメール「筵に巻いて、玄界灘に投げ込んでやる」を公開し、表現の自由を標榜するひとが、表現を殺人によって封じようとしている。脅迫ではないか、と書いた。
すると、なんと「メール(私信)を公開するのは著作権の侵害だ」と主張し始めた。
「脅迫状」を公開するのは、私の自由を守るため。私は「証拠」もなしに批判しているわけではないと主張しているわけではないことを明らかにするためだ。
私は、私の考えに対する批判は、どれもすべて受け止める。反論するときもあれば、しないときもある。求められても反論しないときもある。反論しない自由というものもある。すべてのひとと対話している時間がないからでもある。
私は、あらためて書いておきたい。
「あなたが仕事以外に人生を豊かにする行動を何もして来なかったからですよ」と書くとき、そのビジターは何を根拠に、そう批判しているのか。だいたい、だれかがだれかかの人生を「豊か」かどうか判断する権利を持っているか。「人生」が「豊か」かどうかを判断するのは、そのひとの権利である。その権利と自由を抜きにしては、「社会」は存在しない。それぞれが、それぞれの「豊かさ」を求めて生きる権利を持っている。