谷川俊太郎『どこからか言葉が』(朝日新聞出版、2021年06月30日発行)
谷川俊太郎『どこからか言葉が』は朝日新聞に連載された詩。『こころ』の作品群に比べると若干長い。『こころ』が毎週掲載だったのに対し、『どこからか言葉が』が毎月だったことが影響しているのかなあ。そして、長くなった分だけ、少し理屈っぽくなっている。論理が目立っている気がする。
最初の作品「私事」には「わたくしごと」というルビがある。
バッハが終わってヘッドフォンを外すと
木々をわたる風の音だけになった
チェンバロと風のあいだになんの違和もない
どこからか言葉が浮かんで来たので
ウェブを閉じてワードを開けたが
こんな始まり方でいいのだろうか 詩は
この一連目は、新しい連載の始まりとしてとてもおもしろい。「こんな始まり方でいいのだろうか 詩は」という一行は散文的だが、散文的であるところに、私は詩を感じる。これは「父の死」に通じる。精神が動いていることが、ことばの動きそのものとして、とてもくっきりとわかる。
「チェンバロと風のあいだになんの違和もない」には、それこそ「どこからか言葉が浮かんで来た(詩)」という印象があるが、それだけに「枠にはまった詩」という感じがする。すでにいまは存在しないチェンバロの音の記憶と、いま聞こえる風の音の「あいだ」にあるのは音そのものではなく、音に対する意識である。その意識は、谷川のことばを借りれば「私事」というものだろう。
この「私事」に谷川は疑問を持っていない。
けれども「こんな始まり方でいいのだろうか 詩は」という意識(私事)は疑問の形を持っている。そして、疑問が疑問として書かれているところに、意識の動きがよりわかりやすく描かれている。
それは別なことばで言いなおせば、谷川のことばが、私に強く働きかけてくるのを感じる。谷川のことばに対して、私のことばが動こうとしている、その瞬間の動きを感じる、ということだ。私は自己中心的な人間なので、他人のことばが動いているだけでは、そこに詩を感じない。他人のことばが動き、それにつられて私のことばが動き出そうとする瞬間に、詩を強く感じる。そして、その瞬間というのは、「チェンバロと風のあいだになんの違和もない」というような、いわゆる「詩的」なことばよりも、「散文的」な動きのあることばに触れたときに感じることが多い。
これからしばらくこの紙面に月一回
何かを書かせてもらえることになった
詩として恥ずかしくないものを書きたいが
音楽と違って言葉には公私の別がある
非詩を恐れるほど臆病ではないが
独りよがりのみっともなさは避けたい
この二連目は、著しく散文的である。ここまで散文的であると、私は詩を感じない。「私事」が書かれていないわけではないだろうが、「公にされた私事」という印象がある。言いなおすと、「言い訳」かなあ。
そのなかにあって「音楽と違って言葉には公私の別がある」には驚かされた。私はそんなことを考えたことがない。だいたい、「音楽に公私の区別がない」と仮定して、それでは音楽は「公」なのか「私(事)」なのか。公の場で聞くか、個人的な場(たとえば自分の部屋)で聞くかの違いはあるが、音楽そのものに「公私」の別があるのか、ないのか、私にはわからない。そして、それはさらに、ことばも同じではないかという気がする。つまり「公の場」で発表されたか、公にされず「私事の場」で語られたかの違いがあるだけなのではないのか。「場」のありかたが「公私」を区別するだけで、ことばそのものに「公私」があるとは思えない。
谷川は何を言いたかったのかなあ。
この疑問は、さらに、では、この詩は「公」にされているので、「私事」ではないのか、というと、そうではない。「独りよがりのみっともなさは避けたい」はあくまでも谷川の「私事」の願いだろう。「公にされた私事」という変なものも、ことばにはあるのだ。音楽には、そういうものがあるかな? 誰かに個人的にささげた音楽が、いつかどこかで公開されたという場合は、それにあたるのかな?
三連目。
今これを書いている小屋は私より年長
赤ん坊の頃から毎夏来ている
六十年前ここでこんな詩句を書いていた
「陽は絶えず豪華に捨てている
夜になっても私達は拾うのに忙しい
人はすべていやしい生まれなので
樹のように豊かに休むことがない」
これも「公私」の問題でいえば「公にされた私事」である。そして、その「公にする」という動きは、きっとことばのどこかに影響しているはずである。
どこかなあ。
ややこしいことに「六十年前」のことばが「引用」されている。それは「公」にされたものか、未公表のものか。私のような中途半端な読者には判断がつかない。好きな詩ならば、あ、これは読んだことがあると記憶しているが、読んだときに強く印象に残らなければ記憶していない。私は、最後の四行に記憶がない。
これが、私の書いていることをさらにややこしくする。
「公にされた言葉」だからといって、それがほんとうに「公」のものであるかどうかはわからない。どんなに「公」にされたことばであっても私の意識のなかで「公事」にはならないものがある。そして、それはさらに複雑な問題を引き起こす。谷川の書いたことば(公にしたことば)のなかのどのことばを私(谷内/読者)が「私事/私のもの」として受け取るか、そんなことはだれにも決められないということである。
私は詩を読むとき、いつでも「私事」を探して読む。その詩のなかに、どうしてもあらわれてこないければならなかった「個人的な肉体そのもの」のようなことばを探す。それを「キーワード」と読んでいる。『女に』という詩集では、一回だけ出てきた「少しずつ」がキーワードだった。そういう指摘は、谷川にどう届いたか、私にはわからない。谷川には「少しずつ」に「私事」という意識はないというかもしれない。「公にした」という意識もないかもしれない。でも、その「意識がない」ところに、私は「肉体」を感じ、どうしても何かを書きたくなるのである。
さて。
「言葉には公私の別がある」とは、どういうことだろうか。
まあ、「答え」は出さすに、放置しておく。「結論」には意味がない。考えている途中、ことばが動くだけである。
さて、と私はもう一度書く。考え直す。一連目の最後「こんな始まり方でいいのだろうか 詩は」と谷川は書いていた。私は、それで「いい」と思う。
でも、詩の終わり方は? 新しい詩の終わりが、旧作からの引用? そういう終わり方でいいのだろうか、詩は。
書かれていない一行が、ふっと浮かびあがってくる。そのときの「こんな終わり方でいいのだろうか、詩は」という一行は、だれのものだろう。谷川は、そういうことを思いながら書いたかどうか。こんなことを思うのが私だけだとしたら、それは「私事」の疑問。そのことに気づくと、私は最初に戻って「こんな始まり方でいいのだろうか 詩は」と対話していることになる。
「対話」を誘ってくれるものが、私にとっては「詩」なのだ。というのは「私事」。あくまでも「私の定義」であって、ほかのひとが詩をどう定義するかは知らない。
そして付け加えておけば、私は、いわゆる詩よりも、対話を誘ってくれることばの方に惹かれるのである。プラトンの対話篇。あれはたしかに「散文」と呼ばれるものだけれど、私にはかけがえのない詩。単独で、何にも頼らずに存在している一行の美しさは美しさとして、多くの詩が持っているが、そういう屹立した美しさとは別の、対話を誘い出すことばの方が、私は好き。
「こんな始まり方でいいのだろうか 詩は」は、とても好きな一行である。
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/子供の頃から毎夏来ている小屋/、なぜ別荘と言わないのか?
/人はすべていやしい生まれなのでーーー/。
いやしいなどという、一見ヘリ下り文言は、貴族しか言いません!貧乏人は決して言いません!
谷川さんは詩の神様と言われていますが、賢治のように徹頭徹尾素朴でもなく、三木清のように、100%知的でもなく、山上の垂訓のように崇高でもなくーーー意外に、俗人なんだなあ^^^