河津聖恵「月下美人(一)」(「現代詩手帖」2017年12月号)
河津聖恵「月下美人(一)」(初出『夏の花』5月)。非常にひかれる行(ことば)と、ついていけないことばがある。
「なおも咲くのか」と言った直後に「なぜ咲くか」と問い直す。この問い直しに、ひどくひかれる。「咲く」という動詞、人間の肉体にはできない動き。「比喩」としてならつかわれるが、「肉体」そのものにはできないこと。それを前にして、「肉体」が、それに迫ろうとしている。その「切迫感」のようなものを、たたみかける問いの、「たたみかけ方」に感じる。
この感じを河津は「問いもだえる」という形、「問う」と「もだえる」というふたつの動詞の組み合わせで言いなおす。この組み合わさる動詞に、またひきつけられる。
「問う」は「聞く」とか「ただす」とか、いろいろ言い換えることができる。(言い換えながら、「意味」を私は手探りする。)
一方、「もだえる」はどうか。「もだえる」は「もだえる」としか言えない。言いなおし方を知らない。「もだえる」を言いなおすと、どうなる? これが、わからなない。
「もだす」と関係しているだろうか。「もだえる」とき、確かに「明確なことば」は「肉体」から出てこない。では、「明確なことば」のないまま、ひとはどうやって「問う」ことができるのか。「問えない」ではないか。
それなのに「問い+もだえる」。
これは「問いたくて」もだえているのだ。「問いたいけれど、問えない」という矛盾のなかで、どうしていいかわからずに「もだえている」。
あ、これが「なおも咲くのか/なぜ咲くか」なのだ。どう「問う」ていいかわからない。そのために「もだえている」。ほんとうに聞きたいことはきっとほかにもある。しかし、それはことばにならなで「もだしている」、沈黙しているのかもしれない。
「もだえる」ということばのなかに「もだす」があると、私は感じる。
そして「もだえる」のなかには「もだす」と同時に「たえる(耐える)」もある。ことばにできず、「耐えている」。「矛盾」というか、どう解決していいかわからないものを「肉体」に抱えている。それが「問いもだえる」という動詞の中にある。「もだえる」のなかには、そういうものが「もつれ」ている。
そして、この「矛盾」のようなもの、激しい「もつれ」が、次の行で、こう展開する。
うわーっ、美しい。
ことばでしかたどりつけない何かがある。「死ぬ」「生きる」がぶつかり、からみあう。「もだえる」。
「もだえる」は「燃える/萌える」いのち(生きる)と、「絶える(死ぬ)」がからみあい、苦しみ、のたうつことかもしれない。どこへもいけない。その場で、転げ回ることかもしれない。
河津は、それが「ある」とは言わずに「滅んだ」と言う。
「絶対矛盾」と呼びたいようなもの、「そのようなもの」としか言えない何かが、この一行に凝縮している。
この行を中心に、詩は花のように開いていく。咲いていく。
私は月下美人の花を見たことがないのだが、そうか、こんなふうに「絶対矛盾」としか呼びようがないもののように、何もかもを拒絶して、そこに「咲く」のか、自分の存在をあらわすのか、と感動してしまう。
いや、感動しながらも。
ちょっと覚めてもしまう。
「叛乱する」「嫉妬する」。このことばが、わかりやすすぎて「問いもだえる」ほど「肉体」に迫ってこない。「幻想」も「意味」が強すぎるなあ。「死者の無」、その「無」が、もっと「意味」でありすぎるかもしれない。
「無」って、どういう「意味」と聞かれたら、ちょっと答えられないのだけれど、この「答えられない」は「問いもだえる」の「もだえる」を言いなおすとどうなる?というときの「答えられない」とはかなり違う。「肉体」が反応しない。「無」って、ほら、禅とか仏教(宗教)でいう「無」じゃないか、と思ってしまう。言い換えると「無」には「答え」がある。もう、定義されている感じ。「答えられない」は、「自分のことばでいいなおしても、間違いになるから、言えない」ということ。「もだえる」の「意味」が言えないのは、どこかに「正解(答え)」があるからではなく、それが「肉体」の「動き」そのものとして自分の「肉体」にあるからだ。自分の「もだえる」と他人の「意味」とちがんていても、「もだえる」でしかない。「肉体」で感じることは、私にとっては、いつでも「ほうとう」なのだ。
こんな感想でいいのかどうかわからないが。
私は、私が「わかっている」と思っていることが、瞬間的に否定され、わけのわからないものに引き込まれる瞬間が好きな。そこに詩を感じる。河津のこの作品では、
この四行の動きに夢中になってしまう。夢中になりすぎて、それ以外がなんだか嫌いになってしまう。
私はわがままな読者なのだ。
*
「詩はどこにあるか」11月の詩の批評を一冊にまとめました。
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目次
カニエ・ナハ『IC』2 たなかあきみつ『アンフォルム群』11
林和清『去年マリエンバートで』15 夏目美知子「雨についての思索を一篇」18
北川透「「佃渡しで」を読む」21 野木京子「小石の指」31
疋田龍乃介「ひと息に赤い町を吸い込んで」34 藤本哲明『ディオニソスの居場所』37
マーサ・ナカムラ『狸の匣』40 星野元一『ふろしき讃歌』46
暁方ミセイ『魔法の丘』53 狩野永徳「檜図屏風」と長谷川等伯「松林図屏風」58
暁方ミセイ『魔法の丘』(2)63 新井豊吉『掴みそこねた魂』69
松本秀文『「猫」と云うトンネル』74 松本秀文『「猫」と云うトンネル』78
山下晴代『Pale Fire(青白い炎)』83 吉田正代『る』87
福間明子『雨はランダムに降る』91 清川あさみ+最果タヒ『千年後の百人一首』95
川上明日夫『白骨草』107
河津聖恵「月下美人(一)」(初出『夏の花』5月)。非常にひかれる行(ことば)と、ついていけないことばがある。
闇の奥で眼窩たちは息を呑む
一輪の花がいまひらきはじめる
なおも咲くのか
なぜ咲くか
無数の黒い穴は問いもだえる
「なおも咲くのか」と言った直後に「なぜ咲くか」と問い直す。この問い直しに、ひどくひかれる。「咲く」という動詞、人間の肉体にはできない動き。「比喩」としてならつかわれるが、「肉体」そのものにはできないこと。それを前にして、「肉体」が、それに迫ろうとしている。その「切迫感」のようなものを、たたみかける問いの、「たたみかけ方」に感じる。
この感じを河津は「問いもだえる」という形、「問う」と「もだえる」というふたつの動詞の組み合わせで言いなおす。この組み合わさる動詞に、またひきつけられる。
「問う」は「聞く」とか「ただす」とか、いろいろ言い換えることができる。(言い換えながら、「意味」を私は手探りする。)
一方、「もだえる」はどうか。「もだえる」は「もだえる」としか言えない。言いなおし方を知らない。「もだえる」を言いなおすと、どうなる? これが、わからなない。
「もだす」と関係しているだろうか。「もだえる」とき、確かに「明確なことば」は「肉体」から出てこない。では、「明確なことば」のないまま、ひとはどうやって「問う」ことができるのか。「問えない」ではないか。
それなのに「問い+もだえる」。
これは「問いたくて」もだえているのだ。「問いたいけれど、問えない」という矛盾のなかで、どうしていいかわからずに「もだえている」。
あ、これが「なおも咲くのか/なぜ咲くか」なのだ。どう「問う」ていいかわからない。そのために「もだえている」。ほんとうに聞きたいことはきっとほかにもある。しかし、それはことばにならなで「もだしている」、沈黙しているのかもしれない。
「もだえる」ということばのなかに「もだす」があると、私は感じる。
そして「もだえる」のなかには「もだす」と同時に「たえる(耐える)」もある。ことばにできず、「耐えている」。「矛盾」というか、どう解決していいかわからないものを「肉体」に抱えている。それが「問いもだえる」という動詞の中にある。「もだえる」のなかには、そういうものが「もつれ」ている。
そして、この「矛盾」のようなもの、激しい「もつれ」が、次の行で、こう展開する。
死ぬことも生きることも滅んだのに
うわーっ、美しい。
ことばでしかたどりつけない何かがある。「死ぬ」「生きる」がぶつかり、からみあう。「もだえる」。
「もだえる」は「燃える/萌える」いのち(生きる)と、「絶える(死ぬ)」がからみあい、苦しみ、のたうつことかもしれない。どこへもいけない。その場で、転げ回ることかもしれない。
河津は、それが「ある」とは言わずに「滅んだ」と言う。
「絶対矛盾」と呼びたいようなもの、「そのようなもの」としか言えない何かが、この一行に凝縮している。
この行を中心に、詩は花のように開いていく。咲いていく。
宇宙の一点をいま花の気配が叛乱する
穴はいっしんに嫉妬する
月下美人
幻想の名の匂やかな花芯が
死者の無を乳のように吸いよせる
私は月下美人の花を見たことがないのだが、そうか、こんなふうに「絶対矛盾」としか呼びようがないもののように、何もかもを拒絶して、そこに「咲く」のか、自分の存在をあらわすのか、と感動してしまう。
いや、感動しながらも。
ちょっと覚めてもしまう。
「叛乱する」「嫉妬する」。このことばが、わかりやすすぎて「問いもだえる」ほど「肉体」に迫ってこない。「幻想」も「意味」が強すぎるなあ。「死者の無」、その「無」が、もっと「意味」でありすぎるかもしれない。
「無」って、どういう「意味」と聞かれたら、ちょっと答えられないのだけれど、この「答えられない」は「問いもだえる」の「もだえる」を言いなおすとどうなる?というときの「答えられない」とはかなり違う。「肉体」が反応しない。「無」って、ほら、禅とか仏教(宗教)でいう「無」じゃないか、と思ってしまう。言い換えると「無」には「答え」がある。もう、定義されている感じ。「答えられない」は、「自分のことばでいいなおしても、間違いになるから、言えない」ということ。「もだえる」の「意味」が言えないのは、どこかに「正解(答え)」があるからではなく、それが「肉体」の「動き」そのものとして自分の「肉体」にあるからだ。自分の「もだえる」と他人の「意味」とちがんていても、「もだえる」でしかない。「肉体」で感じることは、私にとっては、いつでも「ほうとう」なのだ。
こんな感想でいいのかどうかわからないが。
私は、私が「わかっている」と思っていることが、瞬間的に否定され、わけのわからないものに引き込まれる瞬間が好きな。そこに詩を感じる。河津のこの作品では、
なおも咲くのか
なぜ咲くか
無数の黒い穴は問いもだえる
死ぬことも生きることも滅んだのに
この四行の動きに夢中になってしまう。夢中になりすぎて、それ以外がなんだか嫌いになってしまう。
私はわがままな読者なのだ。
*
「詩はどこにあるか」11月の詩の批評を一冊にまとめました。
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オンデマンド形式です。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。
目次
カニエ・ナハ『IC』2 たなかあきみつ『アンフォルム群』11
林和清『去年マリエンバートで』15 夏目美知子「雨についての思索を一篇」18
北川透「「佃渡しで」を読む」21 野木京子「小石の指」31
疋田龍乃介「ひと息に赤い町を吸い込んで」34 藤本哲明『ディオニソスの居場所』37
マーサ・ナカムラ『狸の匣』40 星野元一『ふろしき讃歌』46
暁方ミセイ『魔法の丘』53 狩野永徳「檜図屏風」と長谷川等伯「松林図屏風」58
暁方ミセイ『魔法の丘』(2)63 新井豊吉『掴みそこねた魂』69
松本秀文『「猫」と云うトンネル』74 松本秀文『「猫」と云うトンネル』78
山下晴代『Pale Fire(青白い炎)』83 吉田正代『る』87
福間明子『雨はランダムに降る』91 清川あさみ+最果タヒ『千年後の百人一首』95
川上明日夫『白骨草』107
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