谷川俊太郎の「ことば」に初めて出合ったのは、いつか。私の場合、はっきり言うことができる。『女に』(マガジンハウス、1991年)を読んだときである。もちろん、「鉄腕アトム」は、それよりもはるか以前に知っている。しかし、それは「谷川俊太郎のことば」という意識とは関係がない。何も知らずに出合っている。『二十億年の孤独』も、その他の詩集も、『女に』以前に読んでいる。いや、読んでいるは正しくない。目を通している。しかし、それは「出合い」ではない。私のまわりに、偶然存在していたにすぎない。『旅』にしろ、『夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった』にしろ、あるいは『定義』『コカコーラ・レッスン』にしろ、読んでも感想を書くことはなかった。ラジオやテレビから聞こえる「流行歌」のような感じで、それが「ある」という印象だった。
『女に』も、最初は、そこに偶然にあった一冊にすぎなかった。
雑誌「詩学」から原稿の注文が来た。テーマは自由。詩について思っていることを書けばいい、というものだった。ちょうど谷川俊太郎が『女に』で、第一回丸山豊賞を受賞したあとだった。すでにいくつもの賞を受けている谷川の詩集に賞を与えることもないだろう。もっと若い人に譲ればいいのに、などということを知人と話したりした。「地方の市が主催する賞、その初めての作品だから、権威あるひとに与えることで、賞の権威を高めたいのだろう」というような「政治的」な感想を交わしたりもした。そういうことを含め、谷川批判を書くつもりで読み始めた。薄い詩集だし、どの詩も短いから、すぐに感想が書けるだろうと思って選んだのだった。
詩集のテーマは、佐野洋子との愛。佐野洋子の絵もついている、おとなの絵本、という感じの一冊である。一読すると、非常に「軽い」。当時、私は中上健次の小説が好きでいろいろ読んでいた。中上健次の小説には、どの作品か忘れたが、主人公が「長々と射精した」ということばがある。そういう力みなぎる野蛮な(?)愛と比べると、なんとも弱々しい。吉行淳之介の、主人公が「弱々しく射精した」(だったかな?)というような、かなしいような切実さとも縁がない。中上とも吉行とも違う何か、中途半端な、簡単に言うと「男」を感じさせないことばである。そんなことを中心に批判を書くつもりでいた。ここに、どんな「新しいことば」があるのか。何もないのではないか。
そして、実際にそう書き始めた。批評を書くときには、特に批判を書くときには、絶対に「引用」が必要である。その「引用」をしていたとき、私のなかで、突然、変なことが起きた。「少しずつ」ということばを含む「会う」を書き写しているとき、それは起きた。
始まりは一冊の絵本とぼやけた写真
やがてある日ふたつの大きな目と
そっけないこんにちは
それからのびのびしたペン書きの文字
私は少しずつあなたに会っていった
あなたの手に触れる前に
魂に触れた
「私は少しずつあなたに会っていった」。意味はわかるが、どうも変である。「少しずつ」のつかい方が、いわゆる「学校教科書」のつかい方と違う。「会う」ことを繰り返して、私とあなたの関係は「少しずつ」かわって「いった」。私はあなたのことを「少しずつ」わかるようになった。わかるようになって「いった」。こうした書き方の方が「自然」だろう。そして、そういう「自然な」ことばの動きを谷川は熟知しているはずである。しかし、それを、あえて踏み外して、「私は少しずつあなたに会っていった」と書いている。なぜなんだろうか。何が書きたかったのだろうか。
次の瞬間。あるいは、同時に。いや、そんなことを思う以前に。
あ、「少しずつ」が書きたかったのだ、と私は直覚した。(先に書いた文章は、あとから「意識」を整理し直したものにすぎない。)
ふたりの関係が「少しずつ」変化していく。そのときの「少しずつ」ということ、それを書きたかったのだと直覚した。愛には、出合った瞬間に、突然燃え上がるものもあれば、出合いがあったはずなのに愛にはならないものもある。谷川と佐野の場合、それは「少しずつ」愛になっていった。会うたびに、少しずつ愛が生まれてきた。愛が生まれた、愛が実った、ということよりも、そのときの「少しずつ」という変化、そのことを書きたかったのだ、と私は瞬間的に「悟った」。そして、それは私が先に書いたように、「学校文法」で整えてしまうと違ったものになってしまうのだった。「私は少しずつあなたに会っていった」と書くしかないのである。
あるいは、こういうべきか。「少しずつ」と書いたために、そのあとの「ことばの運動」が「学校文法」からはみ出していくしかなかったのである。「少しずつ」をつかわなければ、きっともっとすっきりした形で書けたはずである。しかし、ほかのことばをおしのけて、谷川の肉体に隠れていた「少しずつ」が、「ことばの肉体」を突き破ってあらわれ、新しい「ことばの肉体」となって動いたのだ。「少しずつ」ということばが、ほかのことばをかえてしまったのだ。
そして詩集を読み返すと、それぞれの詩に「少しずつ」が隠れている。書かれていないけれど、いくつもの詩に「少しずつ」を補うことができると気がついた。そういうことを私は「詩学」の文章なのかで書いた。
同時に私は、こういう「どこにでも隠れていることば」、ほんとうは書かなくてもいいことばが、どうしても自己主張してあらわれてしまうことばを「キーワード」と名づけた。筆者にとって、わかりきっていることば、書かなくていいのだけれど、あるとき、そのことばがないとどうしても納得できずに書いてしまう、肉体となってしまっていることば。そうしたことばのなかに、作者そのものがいると感じる。それを「キーワード」と名づけ、詩を読んでみよう。私の、詩への向き合い方が決まった瞬間だった。
谷川の詩を読みながら、私は私の「読み方」を発見したのだといえる。そのとき、私は初めて谷川のことばに出合ったのだと確信した。そして、それまで書いていた文章を全部破棄して、新たに書き直したのが、「詩学」に発表した文章である。
(「キーワード」が何か特別なことばではなく、ふつうは省略してしまうけれど、あるときどうしても書かなければならないことばとしてあらわれてくるもの、ととらえたのは今村仁司か、井筒俊彦か、わたしははっきりとは覚えていない。あるアラビア圏の経済学者が書いた「マルクス論」は、ほかの国の誰それの書いたものとそっくりである。違うのは、アラビア圏のひとが書いた文章のなかに「直接」ということばが差し挟まれている。それはなくても意味が通じるが、彼は、それを書かざるを得なかった。「直接」ということばがイスラム教の「キーワード」である、というようなことを指摘していた。その意味を、私は谷川の「少しずつ」を読んだときに感じ取ったのである。だから、その谷川論を含んだ『詩を読む 詩をつかむ』の批評を今村仁司が詩なの信濃毎日新聞に書いてくれた、そこに「キーワード」をつかった詩の読み方を紹介してくれたとき、私はとてもうれしかった。)
「少しずつ」を各詩篇に補いながら詩集を読んでいくとき、私は、なんともいえず興奮してしまった。あ、ここにも、またここにも、「少しずつ」が隠れている。ときには別のことばになっている。しかし、それは「少しずつ」と書き換えても、なにもかわらない。それを見つけることは、隠れている谷川の肉体を隠れん坊で見つけるときのような喜びであり、変ないい方になるが、セックスしている感じでもある。あるところに触れたら、相手の肉体が反応して動く。予想もしていなかった動きがはじまる。動いたのは相手の肉体なのに、自分の肉体がそれに刺戟されて動いてしまう。私が書きたいと思っていたことが、次々に変わっていく。私が動いているのか、相手が動いているのか、わからない。新しい相手が生まれ、新しい私が生まれる。切り離せない。切り離すと死んでしまう。それを私は「ことばの肉体」の動きとして味わっている。興奮して、もう、どうなってもいい、と感じ始める。私のしていること(こうした読み方)が、正しいのか間違っているか、そんなことはどうでもいい。楽しい。私のやっていることは、はたから見れば、きっとみっともない。しかし、セックスというものはそういうものだろう。どんなに上手にやっても、それは不格好なカッコウに見える。見てはいけないカッコウにしか見えないだろう。それでもいい。変だ、みっともない、と批判されてもかまわない。楽しいから。快感があるから。変なことをしないと、新しい快感は生まれないのだ。
私が谷川俊太郎を発見したのではなく、私が谷川俊太郎によって発見されたのだ。
「ことば」を読むということは、相手(筆者)の真実を見ることではない。「ことば」は鏡であり、「ことば」を通してでしか(「ことば」を読むことによってでしか)、私は私を確認できない。「ことば」は私がだれなのか、どういう姿をしているかを映し出してくれる鏡なのだ、私がだれであるかを気づかさせてくれるものなのである。そういうことを、私は『女に』を通して知った。
『女に』は、右ページに谷川のことば、左ページに佐野の絵がある。佐野にとって「ことば」は絵(線)なのだろう。詩集のなかで、ふたりは互いにふたりを発見し、発見することでつぎつぎに、しかし「少しずつ」変わっていく。この「少しずつ」は「確実に」でもある。そんなことをも感じさせてくれる。
谷川のことば。それは、私の最初の「邪心」を打ち砕いた。谷川を批判してやろうという思いを、あっさりと打ち砕いた。谷川のことばには、何か、そういうくだらない「野心」を打ち砕き、そういう邪心をもった人間さえも受け入れ、変えてしまう力があるということだろう。
この『女に』以降、私は谷川の詩を読むのが好きになった。今度はどんなセックス(ことばの肉体のセックス)ができるだろう、と思ってしまうのである。そのあと、どんなふうに私は変わっていけるだろうと、詩を書くときのように興奮してしまう。
この文章もまた、カッコウ悪く、みっともないものだろう。つまり、他人に見せるための「体裁」をもっていないだろう。私はいつでも、私の書いている「相手」のことしか気にしていない。「他人」なんか、どうでもいい。谷川はもうこの文章を読むことはないのだが、それでも私は谷川にだけ向けて、この文章を書いている。それなら公表するな、とひとはいうかもしれない。しかし、谷川は谷川の詩を読んだひとのなかにきっと生きている。私のことばのなかにも生きている。だから、その谷川のことばとセックスするために書くのである。あるひとにとっては、それは「オナニー」にしか見えないだろう。しかし、そんなことは関係ない。「あんたの知ったことではない」と私は思っている。嫌いならひとのセックスを覗くな、というだけである。
(『女に』論を含んだ『詩を読む 詩をつかむ』は、1999年思潮社刊。古書店でなら手に入るかもしれません。)
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