伊藤悠子『まだ空はじゅうぶん明るいのに』(思潮社、2016年04月30日発行)
伊藤悠子『まだ空はじゅうぶん明るいのに』を読みながら、思わず棒線を引いた行が二か所。
ともに「私」を含んでいる。
なぜ、気になったのか。
「湖岸」から読み直してみる。
「銅版」は「銅版画」を彫る前の無傷の銅のことだろうか。その「無傷」が「無人」を感じさせる。その「無人」の風景にふいに「私」が入ってくる。
二行目の「花の群れのなかにいて」の「いて」は「私」という主語を含んでいるのだが、「風景(菜の花の群れ)」の方が「主語」のように思える。「私」が省略されているせいもあるが、「私」を見落としてしまう。
そこへ「私」が突然入ってくる。それで印象的なのか。いや、少し違う。「私」は入ってくるのだが、あいかわらず「菜の花は」と「菜の花」の方が主語である。「私」は控えめに引き下がっていく。この「控えめ」、私の不在、私がいるのに私がいない感じがなぜか、印象に残る。
現代詩が「私は、私は、私は」と「私」を押しつけてくるからだろうか。
「滔々と坂道」の方はどうか。後半部分。
「私のいない坂道」は、「私が下ってきた坂道」。なぜ、そこにいないかといえば「私はバスに乗っている」からである。そして、「そこにいない」とわかるのは、「そこにいた」からでもある。
ほんとうは「いる」。
文法的には「いた」(過去形)なのだが、「いない」と現在形で書いてしまうのは、ひとはいつでも「現在」を生きているからである。「現在」から世界をみるからである。
「いない」は「いた」ではなく、「いない私がいる」のである。
と書いてしまうと、文法的におかしいが、「いない私」が「坂道にいて」、その「いない私」が「バスに乗っている私」を見ている。
現実的に言いなおすと、「バスに乗っている私」が「私が歩いてきた坂道」を見ているのだが、この「時系列」というか、「主語」のあり方が、どこかで交錯している。入れ替わっている。入れ替えて読むことを求めてくる。
奇妙な言い方しかできないが、この詩集の「主語」は「いない私」なのだと思った。「いた私」、「いま思い出すかつての私」という「あり方」が「主語」なのである。
「思い出す私」は「いま/ここ」にいる。けれど、それは「主語」ではない。「主語」は、「かつて/そこにいた私」であり、それが「いま/ここにはいない」という形で「私」を揺さぶってくる。
そのときの「動揺」というとおおげさすぎるが、そのときの「揺さぶられる」感じが「主語」となって動いている。
「いない私」を見ることで、「いま/ここに私がいる」のだが、「主観」の方は「いない私」といっしょに動いている。
「いま/ここにはいない私」が「いま/ここにいる私」に対して、「いま/ここにいる私」もいつかは「いま/ここにいない私になる」と語りかけてくる詩、といえばいいのだろうか。
「まだ空はじゅうぶん明るいのに」の全行。
「しずか」と「いま/ここにいる私」は、実は「いま/ここにいない」という「悟り」のような形で立ち止まっている。
「影をなくしている」は「命をなくしている」、「命がなかったもののおだやかさ」になっている、ということだろうか。
遊具の動物たちは、「いちども命がなかったもの」と呼ばれているが、わざわざそう呼ばれているのは、動物たち自身には「命がある」からである。「命がある」のだけれど、そういう「命」を否定して、ないものとして、「いま/ここ」にある。「命がある」のを知っていて「命がない」と呼んでいる。そしてそれを「おだやか」と結びつけてとらえている。「おだやか」は四行目の「しずか」と重なるだろう。
うーん。
でも、それでは「私」が詩を書くのはどうしてなのだろう。伊藤は何を主張したくてことばを書いているのだろう。
この最後の一行が伊藤の書きたいことかもしれない。
「いま/ここにいる私」はやがて「いま/ここにいない私」になる。そのときも、しかし「この星」はある。「この星」があり、それがあるかぎり、そこには「いま/ここにいない私」が「いる」のだ。
どこかで時間を超越した「永遠(普遍)」を見ている視線がある。そういう視線が詩集全体を貫いている。
伊藤悠子『まだ空はじゅうぶん明るいのに』を読みながら、思わず棒線を引いた行が二か所。
菜の花は私と同じ丈だ (「湖岸」)
私のいない坂道は (「滔々と坂道」)
ともに「私」を含んでいる。
なぜ、気になったのか。
「湖岸」から読み直してみる。
銅版のような湖がある
岸辺の菜の花の群れのなかにいて
菜の花は私と同じ丈だ
おかしいのか
うれしいのか
菜の花は交差しながら笑いかけてくる
「銅版」は「銅版画」を彫る前の無傷の銅のことだろうか。その「無傷」が「無人」を感じさせる。その「無人」の風景にふいに「私」が入ってくる。
二行目の「花の群れのなかにいて」の「いて」は「私」という主語を含んでいるのだが、「風景(菜の花の群れ)」の方が「主語」のように思える。「私」が省略されているせいもあるが、「私」を見落としてしまう。
そこへ「私」が突然入ってくる。それで印象的なのか。いや、少し違う。「私」は入ってくるのだが、あいかわらず「菜の花は」と「菜の花」の方が主語である。「私」は控えめに引き下がっていく。この「控えめ」、私の不在、私がいるのに私がいない感じがなぜか、印象に残る。
現代詩が「私は、私は、私は」と「私」を押しつけてくるからだろうか。
「滔々と坂道」の方はどうか。後半部分。
のろのろと坂道を下っていく
バス停に着いたらやってきたバスに私をしまう
私のいない坂道は
なぜか明るい
「私のいない坂道」は、「私が下ってきた坂道」。なぜ、そこにいないかといえば「私はバスに乗っている」からである。そして、「そこにいない」とわかるのは、「そこにいた」からでもある。
ほんとうは「いる」。
文法的には「いた」(過去形)なのだが、「いない」と現在形で書いてしまうのは、ひとはいつでも「現在」を生きているからである。「現在」から世界をみるからである。
「いない」は「いた」ではなく、「いない私がいる」のである。
いないわたしがいる坂道は
と書いてしまうと、文法的におかしいが、「いない私」が「坂道にいて」、その「いない私」が「バスに乗っている私」を見ている。
現実的に言いなおすと、「バスに乗っている私」が「私が歩いてきた坂道」を見ているのだが、この「時系列」というか、「主語」のあり方が、どこかで交錯している。入れ替わっている。入れ替えて読むことを求めてくる。
奇妙な言い方しかできないが、この詩集の「主語」は「いない私」なのだと思った。「いた私」、「いま思い出すかつての私」という「あり方」が「主語」なのである。
「思い出す私」は「いま/ここ」にいる。けれど、それは「主語」ではない。「主語」は、「かつて/そこにいた私」であり、それが「いま/ここにはいない」という形で「私」を揺さぶってくる。
そのときの「動揺」というとおおげさすぎるが、そのときの「揺さぶられる」感じが「主語」となって動いている。
「いない私」を見ることで、「いま/ここに私がいる」のだが、「主観」の方は「いない私」といっしょに動いている。
「いま/ここにはいない私」が「いま/ここにいる私」に対して、「いま/ここにいる私」もいつかは「いま/ここにいない私になる」と語りかけてくる詩、といえばいいのだろうか。
「まだ空はじゅうぶん明るいのに」の全行。
まだ空はじゅうぶん明るいのに
フェニックスも松も
影をなくしている
それでこんなに景色はしずか
海沿いのホテルの庭の
遊具の動物たち
ライオン、パンダ、ウサギ、カメ、イルカがみえる
五つでゆるやかな弧をえがいている
このしずけさにふさわしいものはこうしたもの
小さいひとを驚かさないようにいつも先にぼんやり驚いているような
ライオン、パンダ、ウサギ、カメ、イルカ
いちども命がなかったもののおだやかさで
この星にいて
「しずか」と「いま/ここにいる私」は、実は「いま/ここにいない」という「悟り」のような形で立ち止まっている。
「影をなくしている」は「命をなくしている」、「命がなかったもののおだやかさ」になっている、ということだろうか。
遊具の動物たちは、「いちども命がなかったもの」と呼ばれているが、わざわざそう呼ばれているのは、動物たち自身には「命がある」からである。「命がある」のだけれど、そういう「命」を否定して、ないものとして、「いま/ここ」にある。「命がある」のを知っていて「命がない」と呼んでいる。そしてそれを「おだやか」と結びつけてとらえている。「おだやか」は四行目の「しずか」と重なるだろう。
うーん。
でも、それでは「私」が詩を書くのはどうしてなのだろう。伊藤は何を主張したくてことばを書いているのだろう。
この星にいて
この最後の一行が伊藤の書きたいことかもしれない。
「いま/ここにいる私」はやがて「いま/ここにいない私」になる。そのときも、しかし「この星」はある。「この星」があり、それがあるかぎり、そこには「いま/ここにいない私」が「いる」のだ。
どこかで時間を超越した「永遠(普遍)」を見ている視線がある。そういう視線が詩集全体を貫いている。
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