28日から始まった東京での、若者対象の抽選ワクチン接種は、まだ続いているらしい。読売新聞(31日・西部版・14版)の「編集手帳」にこう書いてあった。
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初日はたくさんの希望者が訪れながら、先着順で300人余りの接種にとどまった。小さな規模にがっかりして帰った若者が多数におよんだ◆高齢者にはネット予約を、若者には行列を、というチグハグぶりが際立つ。2日目の28日は抽選に切り替えたものの、倍率は6倍にのぼった。電車賃を使い、暑気のなかを何時間も待たされた末の帰り道になった。外れた人はふたたび酷なくじ引きに挑戦しなければならず、渋谷会場はきょうも変わらず抽選を予定している
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この記事(感想文?)を読みながら思ったのは、若者はなぜ怒らないのか、という疑問。黙って権力(菅や小池)の言うことを聞くだけ? 「がっかりして帰っ」て、それでおしまい? そんなに菅や小池が怖いのか。菅や小池の言うままに、おとなしく「行列」をつくり、「抽選漏れ」に我慢し続ければ、菅や小池が若者を救ってくれるのか。コロナに感染せずにすむのか。さらには、我慢したかわりにたとえば就職の世話をしてくるのか。
この「おとなしさ」に私はびっくりしてしまう。
この「我慢」現象をパラリンピックと結びつけると違和感をおぼえる人もいるだろうけれど、私は、どうしても結びつけてしまう。パラリンピックの「学校観戦」にしても、非常に疑問に思ってしまう。
障碍を抱えながらスポーツをする姿はたしかに感動的だが、これが感動の押し売りだけではなく、もっと進んだらどうなるのか。
つまり。
戦争が起きる。負傷する。負傷者は病院で治療を受ける。しかし、傷が完治したら、後遺症として障碍があったとしても、「動けるのだから、戦場へ」と駆り出されるのではないのか。究極の「総力戦」へと突き進むのではないのか、と不安に駆られる。
スポーツがあくまで「平和」のときの楽しみならば、コロナ感染が拡大している中でオリンピック、パラリンピックをやる必然性がどこにあるのか。
菅はコロナ感染下でもオリンピック、パラリンピックをやり遂げることができた、というかもしれないが、それは「戦時下、障碍者も活躍できる(障碍を抱えていても戦場で戦うことができる)」にかわってしまうような気がする。菅、安倍なら、絶対にそうする。「まず、自助」という菅なら「障碍を抱えていても、自分の命は自分で守る。そして、仲間の命を守るために戦うこと(共助)が重要だ」と言うだろう。
きのうの感染状況。
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国内で新たに1万3638人感染、累計死者1万6千人超え…重症者は最多更新
国内の新型コロナウイルスの感染者は30日、全都道府県と空港検疫で計1万3638人が確認された。46人が死亡し、累計の死者は1万6000人を超えた。重症者は前日から5人増えて2075人となり、18日連続で過去最多を更新した。
東京都では新たに1915人の感染がわかった。前週比532人減で、1日の感染者が2000人を下回るのは約1か月ぶりとなった(略)。都内ではこの日、30~90歳代の男女12人の死亡が判明し、うち男性2人は自宅療養中に亡くなった。
一方、大阪府では月曜日としては最多となる1605人の感染が確認された。軽症・中等症の入院患者は2326人で、病床使用率は90%に達している。
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「重症者」が増えている。自宅療養中に死亡したのは、また2人。この人たちは「重症」と診断され、治療を受けることもなく死んだのである。これは、私の感覚では「殺された」に等しい。菅の、小池の「未必の故意」である。
東京オリンピックは中止すべきだった。パラリンピックは中止すべきだ。