自民党憲法改正草案再読(12)
第19条に触れる前に、少し復習。
第10条は、国民の定義。
第11条は、国民は基本的人権を持っている。それを国は侵すことができない。
第12条は、国民は基本的人権を濫用できない。公共の福祉のために利用しなければならない。
第13条は、しかし、「公共」(みんな)よりも「個人」が大事。「公共の福祉(みんなの助け合い)」の妨げにならないなら、何をするかは「個人の自由」。つまり「公共の福祉(みんなの助け合い)」に参加しなければならないというわけではない。
第14条は、国民(個人)はみんな平等。差別されない。これは、ここには書いていないが「公共の福祉(みんなの助け合い)」に参加しなくても差別されない、ということ。「信条」によって差別されないとは、そういうことを指すと思う。
そのあと、公務員、犯罪者のことが書かれ、第19条に移る。ここで、もう一度ふつうの、つまり公務員でもなく、犯罪者でもない「国民(個人)」のことが書かれる。「自由」が定義される。私は、国民(個人)は、「公共の福祉(みいんなの助け合い)」を妨害するのでなければ、何をしても個人の自由と、憲法のこれまでの条文から理解しているが、ここからはその「自由」について定義していると読む。
(現行憲法)
第19条
思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。
(改正草案)
第19条(思想及び良心の自由)
思想及び良心の自由は、保障する。
第19条の2(個人情報の不当取得の禁止等)
何人も、個人に関する情報を不当に取得し、保有し、又は利用してはならない。
同じことを書いているように見えるが、私は違うと思う。
現行憲法は「侵してはならない」と「禁止」を明確に書いている。「侵す」の「主語」は国民ではなく政府(国)である。国家権力は、国民(個人)の「思想及び良心の自由」を侵してはならない。まず、テーマが「(個人の)思想及び良心の自由」であり、国家権力は「これを侵してはならない」と「禁止」であることを明確にしている。
「侵してはならない」と「保障する」は似ていて違う。「保障する」では「禁止事項」がわからない。その条項によって、だれの暴走を拘束しようとしているのかわからない。
憲法は、国に対して「〇〇をしてはいけない」という「禁止条項」をまとめたものである。
第9条では、国民を主語にして、「国権の発動たる戦争(国が指揮して行う戦争)」は、「これを放棄する」と書いているが、これは、国民は「国権の発動たる戦争」を国に対して「禁止する(認めない)」といっている。まず、国への「禁止事項」から語り始める。
それは国民の基本的人権も同じ。
(現行憲法)
第11条
国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。
まず「妨げられない」(妨げてはいけない)と書いた上で、こういうことを「保障する」と言いなおしている。「〇〇を守る」では「〇〇を侵してはならない(禁止)」が憲法で言う「保障する」なのである。
改憲草案は、この「〇〇を侵してはならない」という「禁止」をあいまいにしたまま、「守る」(保障する)とすりかえている。「守る」ために何をするか。それは憲法の場合、国は国民(個人)の権利を侵さない(侵してはならない)、なのだが、それがあいまいにされている。
「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」と「思想及び良心の自由は、保障する」という文章を、文章的観点からだけでみると、改憲草案の方が自然な日本語に感じられる。現行憲法は「翻訳調」であり、なんとなくぎくしゃくしている。不自然な感じがする。しかし、これはテーマを明確にし、次に国に対してはこういうことを禁止すると明言するために、そうなっているのである。「ぎくしゃく」していると感じるならば、それは憲法が国に対する禁止事項を国民がつきつけているという「基本」を忘れているからだ。国には、絶対にこういうことをさせない(たとえば戦争をさせない)と要求するときは、その要求がより明確になるよう「文体」を整える必要がある。こういう「文体」を嫌うのは、自民党が「国民から〇〇してはいけないと言われるなんて、真っ平御免」と考えているからである。国民(個人)の視点ではなく、「独裁者」の視点からことばを考えているからである。
このあと、憲法は「思想及び良心の自由」では抽象的すぎるので、「思想(=良心)」とは、具体的には何を指すかについて書いていくのだが、その個別の「思想自由」について触れる前に、改憲草案は、条項を追加している。重複するが、もう一度引用する。
(改憲草案)
第19条の2(個人情報の不当取得の禁止等)
何人も、個人に関する情報を不当に取得し、保有し、又は利用してはならない。
「個人情報」を「不当に取得する」「保有する」「利用する」を「禁止」するのは当然だが、「だれが」それをしてはいけないのか。
改憲草案の「主語」は「何人」である。「何人」は「国民」と同じようにつかわれているが、「何人」は「個人(ひとり)」というよりも「複数(だれであっても)」を指しているように私には思える。一人のこと(個人のこと)を問題にするのではなく、複数の人間をテーマにするとき「何人」とつかいわけているようだ。(きちんと分析したわけではないのだが。)
この条項がいちばん問題なのは、憲法が「国の禁止行為」を定義しているはずなのに、ここでは「何人(国民)」に対して「してはならない」と「禁止」していることである。これでは、国民は他人の個人情報を取得する、保有する、利用することはできないが、国はしてもいい(国に対する許可)のように読めてしまう。
実際、いま「デジタル庁」の創設をはじめ、マイナンバーカードの所持強要なども、国が(自民党が)国民の個人情報を取得、保持、利用するためのものだろう。個人情報(なんと、小学校のときの成績さえマイナンバーカードに記録させるという案があった)を「管理/監視」し、国民を支配しようとしている。
その一方、国民が政府に対して「情報の開示」を求めると、「個人情報があるから開示できない」と言っている。
このことからも、改憲草案の「新設条項(第19条の2)」は、国が「個人情報」に限らず、あらゆる情報を一元管理、支配するための条項だといえるだろう。
すでに何度か書いてきたが、自民党の政策は「改憲草案(2012年)」を「先取り実施」する形で展開されている。思いつきでやっているのではなく、「改憲草案」を踏まえてやっている。
憲法改正ができなくても、憲法を改正したのと同じことができるように政策を展開している。