詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

中井久夫訳カヴァフィスを読む(85)

2014-06-15 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(85)          

 「午後の日射し」は女性が主人公。カヴァフィスには珍しい作品だ。そのなかに、おもしろい行がある。

戸口の傍に寝椅子ね。
その前にトルコ絨毯。
傍らに棚。そこに黄色の花瓶二つ。
右手に、いや逆ね、鏡付の衣裳だんす。

 「あの家の横を」という作品にもものの羅列が出てきたが、それは「店、横丁、石、/壁、バルコン、窓。」と名詞だけで形容詞を持たなかった。この余分なもの(形容詞)を排除し、本質だけを描出するするというのがカヴァフィスの視力なのだが、「午後の日射し」に登場する女は逆。「トルコ」の絨毯、「黄色」の花瓶、「鏡付」の「衣裳」だんす。女は、ものに附属するものを見ている。「寝椅子」の「寝」さえも修飾語に見える。
 こんなにもののとらえ方が違っては、カヴァフィスと女は相いれないだろう。一緒にいても互いが理解できないだろう。
 とはいうものの、カヴァフィスには、その「声」が聞こえた。こんなふうにものの表面を見て、ものの表面に「意味」を見出す人間がいるということを知った。この詩ではたまたまそれが「女」として登場するが、カヴァフィスの出会った男のなかにも、表面にこだわり、それをいとおしむ人間がいただろう。

ああいう古いものって、まだどこかをさまよっているでしょうね、きっと。

窓の傍らの寝台。
午後の日射しが寝台の半ばまで伸びて来たものね。

 表面の変化。ものの表面を動いていく変化。それが動いていくものだからこそ、「どこかをさまよっている」と想像することができる。「古いもの」とは「もの」自体ではなく、それを修飾する性質である。女にとって本質とは変化しないものではなく、移ろうものなのだ。
 だから、別れるしかない。

……あの日の午後四時に別れたわ、
「一週間」って--それから……
その週が永遠になったのだわ。

 しかし、この三行は、女のことばではないかもしれない。あの日の「変化」は「変化」で終わってしまった。普遍になってしまった。終わってしまうと、その瞬間は「もの」そのものの本質のように「永遠」になる。この三行はカヴァフィスの告白だろう。

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