谷川俊太郎の十篇(5 タラマイカ偽書残闕)
2014年06月14日(土曜日)
タラマイカ偽書残闕
Ⅰ(そことここ)
わたしの
眼が
遠くへ
行った。
わたしの
口は
ここに
開く。
わたしの
耳が
遠くへ
行った。
わたしの
口は
ここで
語る。
わたしの
鼻が
遠くへ
行った。
わたしの
口は
ここに
黙す。
わたしの心はゆきつもどりつ
わたしの心はゆきつもどりつ
*
この詩の情報量は非常に少ない。書かれている「名詞」が少ない。「動詞」も少ない。けれども抱え込むイメージはとても豊かだ。神話に登場する初めての「人間」の声を聞く感じがする。
わたしの眼が/耳が/鼻が遠くへ行った。そのときの「遠く」は同じところなのか、違う場所なのか。「遠く」の「場」が同じであったとしても、眼で見たもの、耳で聞いたもの、鼻で嗅いだものは同じと言えるか。眼で見たものを耳で聞くことができるか、鼻でかぐことができるか。同じであっても、認識(識別)のありようは違っているだろう。もし識別の仕方、識別というものが違っていたとしたら、それでも「もの/こと」は同じといえるのだろうか。違うのではないだろうか。
--というのはこざかしい「論理」で、そこに「差異」があっても「ひとつ」にしてつかみ取るのが詩であって、その詩の力がこの詩にはみなぎっている。詩のはじまりの、「詩の神話」のようだ。「差異」を未分化のものに引き戻し、未分化のまま凝縮している。結晶にしている。そこを通り抜けようとすると、私のことばはプリズムのなかに入った光のように、入るたびにさまざまな方向へ屈折してはじき出されてしまう。
はじき出されるまま、はじき出されたものを書き並べてみよう。
もし感覚器官によってとらえることができるものが違うとしても、「肉体」にとっては同じ「ひとつの場」であり、同じ「ひとつのこと」。したら、同じ「遠く」へ行ったとしても、なのではないだろうか。「違う」と「同じ」がぶつかりあって、そのときの「肉体」をいきいきさせる。ことばもをいきいきとしたものに変える。
あ、私は何を書いているかな?
谷川は何も書いていないのに、哲学の根源にかかわるようなことが、短いことばから噴出してくる。短く、何も言っていないからこそ、そのことばの原始的な力が闇のなかで輝いている。
でもこんなところで「哲学」とか「意味」につかまっていてはいけない。もっと違うこと--この詩を最初に読んだときの「興奮」は違うところにある。こんなめんどうくさい「論理」を整えるのに時間をかけていてはいけない。どんどん身動きがとれなくなる。
そのことを書きたい。
私の感じた最初の興奮。
と、同じことばが繰り返される。繰り返されるとき、そこにリズムが生まれる。音楽が生まれる。音楽は、メロディーよりも前にリズムがあるのかもしれない。その短く、間違えようのないリズムに載って、メロディーの一部が、眼、耳、鼻と変わっていく。
この変化がとても楽しい。「肉体」が谷川のことばにあわせて、しっかりと自覚できるものになっていく感じ。私にはたしかに眼があり、耳があり、鼻があるということが「わかる」。
それに合わせて、
と、最後の動詞が変化する。
これが「肉体」に響いてくる。そうか、眼で見て、耳で聞いて、鼻で嗅いで、そのとき口は何かをしたくてたまらない。その欲望を、谷川は「いのり」のように厳しく強い「声」で整えている。「口」からことばが生まれてくる--その瞬間に立ち会っているような感じだ。
と、書いたらまた「意味」を書きたくなってしまった。「意味」なんてうさんくさいといいながら、「意味」を書きたい衝動に駆られてしまった。しようがない。書いてしまおう。私が何を考えたか、「意味」にしてしまおう。
感覚器官が変われば、口(ことば?)もまた、その対応の仕方が違う。感覚器官に合わせて、ことばは変化する。
この変化が、もしかすると「意味」というものではないだろうか。ある存在(もの/こと)に対する反応、反応の仕方が「意味」である。
それも「遠く(そこ)」ではなく「ここ」で起きる。
「そこ」とは「かつて」行ったところ、「ここ」とは「いま」いるところ。そして、それが「そこ」であれ「ここ」ここであれ、それは「場(空間)」というより、自分の「肉体」のことである。すべてのことは「肉体」といっしょに「起きる」。眼で(眼に)耳で(耳に)鼻で(鼻に)変化が起きて、言い換えると眼が反応し、耳が反応し、鼻が反応し、その反応によって生まれた新しい何かが口から出て行く。ことばになって。口は、あるいはことばにすることをしないで、その「変化」を肉体の内部にだけ押しとどめるということもある。その結果、「意味」(肉体の内部でうごめく変化の仕方)は複雑になる。
なんだか、いろんな「意味」を言いたくて、私のことばはうずうずしてくる。けれど、それはうずうずするばかりで、明確なことば(意味)にはならない。
でも、強く感じる。谷川は、ここで「神話」のことばを書こうとしている。ことばの誕生を書こうとしている。不完全なまま、それでも「肉体」を突き破って動くものを書こうとしている。
そこに書かれている「意味」は不完全だが、不完全ゆえに、まだまだ生まれてくる。これから少しずつ「意味」を完成して行くという予感がある。
それが、繰り返しのリズムのなかで、リズムそのものとして共有されていく。これから「変化」が生まれる感覚が音楽として共有されていく。「意味」以前の何かが、共有されていく。
共有?
私は自分で書きながら、その共有ということばに驚いている。
この詩には「わたし」というひとりの人間しか出て来ない。それなのに、私は、「わたし」がひとりではないと感じてしまう。この詩の「わたし」のまわりにはたくさんの「わたし」が闇となって隠れている。「わたし」になろうとしている。「わたし」がことばを発したら、そのことばをつかみとって、それを「核」にして赤ん坊のように生まれたがっている「いのち」がうごめいているのを感じる。
あるいは。
この詩の「わたし」は「わたし」という人間を産みだすことで、「社会」を「個人」のように統一しようとしている。統一のための、試行錯誤をしている。「わたし」が生まれて、そのあとに「わたしたち」がわっと生まれてくる。「わたしたち」は「わたし」を共有している。いや、「わたし」を生きている。共生している。
このとき、この「統一」というものと「意味」がたぶん合致するのだ。「統一」のための「認識の仕方(認識のあらわし方)」が「意味」なのだ。「意味」は、そういう視点から見れば重要だけれど、「統一」をめざすがゆえにうさんくさくもある。「統一」に不都合なものを排除しようと動くことがある。
この詩では、もちろん、そんなことは書かれていない。それが、この詩を幸福にしている。
「統一」や「意味」のうさんくささが組織化される前の、ことばになりたいという欲望、力だけがあふれている。力がありすぎて、ことばの「意味」を内部で破壊している感じだ。
「意味」や「統一」が生まれる瞬間のダイナミックな動きが書かれていると感じ、興奮する。
でも、ことばは、どうやって生まれるのか。
最初に、やっともどれた感じがする。
私が書きたいのは、こういうことだ。
ことばは、まず、音としてある。次にリズムとして存在する。繰り返している内に、そこに変化が生まれる。違ったものを言ってみたくなる。違ったものを、そのリズムに乗せてみたくなる。そうすると変化が生まれる。いままで知らなかった音が広がっていく。音が変わると、それを聞いているときの「肉体」そのものが変化する。
だんだん、こうした方が気持ちがいい。楽しい、ということがわかってくる。そして、その方向へ自然に音が並んで動いていく。音の形ができてくる。まるで音の肉体が成長していくような感じ。
強くなったり弱くなったり。それにメロディー(複数の音)が重なり、知らず知らずに音楽に育っていく。ひとつの音だったものが、音の「楽しみ」になり、みんなで共有できる感情(歌)に変わっていく。
この最後の二行は、そうやって昇華された「歌」なのだ。
この詩は「神話」と「歌」が生まれる瞬間をつかみ取って再現している。音が声になり、声がことばになり、ことばの肉体が神話になり、やがて神話のなかに歌がうまれる。神話のなかのできごとを繰り返し語り合う内に、ことばの音が音楽を生み出す。
逆かなあ。音(ことば/声)のなかには最初から音楽があり、それが神話を内部から鍛えているのかもしれない。
どう言ってもいいのかもしれない。どっちも同じなのだろう。
眼で見て、耳で聞いて、鼻で嗅いで、それをことばにしたり、逆にことばにすることを拒んで肉体の内部に隠したりしながら、心は共有されるようになる。
「ゆきつもどりつ」する心が「歌」なのだ。
ことばが生まれ、それが歌に変わっていく--その、太古の音楽がここにある。
『タラマイカ偽書残闕』は十一篇の詩で構成された「長編詩」なのだが、私は、最初の部分がいちばん好き。読んでいていちばん興奮する。初めて発せられたことばのように、「意味」になりきれていない部分、逆に意味の豊穰さを感じる。意味を生み出す力を感じる。
後半に行くにしたがって、ことばが増え、感情も増えれば論理も増えていくのだが、そうした部分を読めば読むほど、同じことばを繰り返しながら、少しずつ変化していく「Ⅰ」の強いリズムがなつかしい感じでよみがえる。
2014年06月14日(土曜日)
タラマイカ偽書残闕
Ⅰ(そことここ)
わたしの
眼が
遠くへ
行った。
わたしの
口は
ここに
開く。
わたしの
耳が
遠くへ
行った。
わたしの
口は
ここで
語る。
わたしの
鼻が
遠くへ
行った。
わたしの
口は
ここに
黙す。
わたしの心はゆきつもどりつ
わたしの心はゆきつもどりつ
*
この詩の情報量は非常に少ない。書かれている「名詞」が少ない。「動詞」も少ない。けれども抱え込むイメージはとても豊かだ。神話に登場する初めての「人間」の声を聞く感じがする。
わたしの眼が/耳が/鼻が遠くへ行った。そのときの「遠く」は同じところなのか、違う場所なのか。「遠く」の「場」が同じであったとしても、眼で見たもの、耳で聞いたもの、鼻で嗅いだものは同じと言えるか。眼で見たものを耳で聞くことができるか、鼻でかぐことができるか。同じであっても、認識(識別)のありようは違っているだろう。もし識別の仕方、識別というものが違っていたとしたら、それでも「もの/こと」は同じといえるのだろうか。違うのではないだろうか。
--というのはこざかしい「論理」で、そこに「差異」があっても「ひとつ」にしてつかみ取るのが詩であって、その詩の力がこの詩にはみなぎっている。詩のはじまりの、「詩の神話」のようだ。「差異」を未分化のものに引き戻し、未分化のまま凝縮している。結晶にしている。そこを通り抜けようとすると、私のことばはプリズムのなかに入った光のように、入るたびにさまざまな方向へ屈折してはじき出されてしまう。
はじき出されるまま、はじき出されたものを書き並べてみよう。
もし感覚器官によってとらえることができるものが違うとしても、「肉体」にとっては同じ「ひとつの場」であり、同じ「ひとつのこと」。したら、同じ「遠く」へ行ったとしても、なのではないだろうか。「違う」と「同じ」がぶつかりあって、そのときの「肉体」をいきいきさせる。ことばもをいきいきとしたものに変える。
あ、私は何を書いているかな?
谷川は何も書いていないのに、哲学の根源にかかわるようなことが、短いことばから噴出してくる。短く、何も言っていないからこそ、そのことばの原始的な力が闇のなかで輝いている。
でもこんなところで「哲学」とか「意味」につかまっていてはいけない。もっと違うこと--この詩を最初に読んだときの「興奮」は違うところにある。こんなめんどうくさい「論理」を整えるのに時間をかけていてはいけない。どんどん身動きがとれなくなる。
そのことを書きたい。
私の感じた最初の興奮。
わたしの
○○は
遠くへ
行った。
と、同じことばが繰り返される。繰り返されるとき、そこにリズムが生まれる。音楽が生まれる。音楽は、メロディーよりも前にリズムがあるのかもしれない。その短く、間違えようのないリズムに載って、メロディーの一部が、眼、耳、鼻と変わっていく。
この変化がとても楽しい。「肉体」が谷川のことばにあわせて、しっかりと自覚できるものになっていく感じ。私にはたしかに眼があり、耳があり、鼻があるということが「わかる」。
それに合わせて、
わたしの
口は
ここに(ここで)
○○する。
と、最後の動詞が変化する。
これが「肉体」に響いてくる。そうか、眼で見て、耳で聞いて、鼻で嗅いで、そのとき口は何かをしたくてたまらない。その欲望を、谷川は「いのり」のように厳しく強い「声」で整えている。「口」からことばが生まれてくる--その瞬間に立ち会っているような感じだ。
と、書いたらまた「意味」を書きたくなってしまった。「意味」なんてうさんくさいといいながら、「意味」を書きたい衝動に駆られてしまった。しようがない。書いてしまおう。私が何を考えたか、「意味」にしてしまおう。
感覚器官が変われば、口(ことば?)もまた、その対応の仕方が違う。感覚器官に合わせて、ことばは変化する。
この変化が、もしかすると「意味」というものではないだろうか。ある存在(もの/こと)に対する反応、反応の仕方が「意味」である。
それも「遠く(そこ)」ではなく「ここ」で起きる。
「そこ」とは「かつて」行ったところ、「ここ」とは「いま」いるところ。そして、それが「そこ」であれ「ここ」ここであれ、それは「場(空間)」というより、自分の「肉体」のことである。すべてのことは「肉体」といっしょに「起きる」。眼で(眼に)耳で(耳に)鼻で(鼻に)変化が起きて、言い換えると眼が反応し、耳が反応し、鼻が反応し、その反応によって生まれた新しい何かが口から出て行く。ことばになって。口は、あるいはことばにすることをしないで、その「変化」を肉体の内部にだけ押しとどめるということもある。その結果、「意味」(肉体の内部でうごめく変化の仕方)は複雑になる。
なんだか、いろんな「意味」を言いたくて、私のことばはうずうずしてくる。けれど、それはうずうずするばかりで、明確なことば(意味)にはならない。
でも、強く感じる。谷川は、ここで「神話」のことばを書こうとしている。ことばの誕生を書こうとしている。不完全なまま、それでも「肉体」を突き破って動くものを書こうとしている。
そこに書かれている「意味」は不完全だが、不完全ゆえに、まだまだ生まれてくる。これから少しずつ「意味」を完成して行くという予感がある。
それが、繰り返しのリズムのなかで、リズムそのものとして共有されていく。これから「変化」が生まれる感覚が音楽として共有されていく。「意味」以前の何かが、共有されていく。
共有?
私は自分で書きながら、その共有ということばに驚いている。
この詩には「わたし」というひとりの人間しか出て来ない。それなのに、私は、「わたし」がひとりではないと感じてしまう。この詩の「わたし」のまわりにはたくさんの「わたし」が闇となって隠れている。「わたし」になろうとしている。「わたし」がことばを発したら、そのことばをつかみとって、それを「核」にして赤ん坊のように生まれたがっている「いのち」がうごめいているのを感じる。
あるいは。
この詩の「わたし」は「わたし」という人間を産みだすことで、「社会」を「個人」のように統一しようとしている。統一のための、試行錯誤をしている。「わたし」が生まれて、そのあとに「わたしたち」がわっと生まれてくる。「わたしたち」は「わたし」を共有している。いや、「わたし」を生きている。共生している。
このとき、この「統一」というものと「意味」がたぶん合致するのだ。「統一」のための「認識の仕方(認識のあらわし方)」が「意味」なのだ。「意味」は、そういう視点から見れば重要だけれど、「統一」をめざすがゆえにうさんくさくもある。「統一」に不都合なものを排除しようと動くことがある。
この詩では、もちろん、そんなことは書かれていない。それが、この詩を幸福にしている。
「統一」や「意味」のうさんくささが組織化される前の、ことばになりたいという欲望、力だけがあふれている。力がありすぎて、ことばの「意味」を内部で破壊している感じだ。
「意味」や「統一」が生まれる瞬間のダイナミックな動きが書かれていると感じ、興奮する。
でも、ことばは、どうやって生まれるのか。
最初に、やっともどれた感じがする。
私が書きたいのは、こういうことだ。
ことばは、まず、音としてある。次にリズムとして存在する。繰り返している内に、そこに変化が生まれる。違ったものを言ってみたくなる。違ったものを、そのリズムに乗せてみたくなる。そうすると変化が生まれる。いままで知らなかった音が広がっていく。音が変わると、それを聞いているときの「肉体」そのものが変化する。
だんだん、こうした方が気持ちがいい。楽しい、ということがわかってくる。そして、その方向へ自然に音が並んで動いていく。音の形ができてくる。まるで音の肉体が成長していくような感じ。
強くなったり弱くなったり。それにメロディー(複数の音)が重なり、知らず知らずに音楽に育っていく。ひとつの音だったものが、音の「楽しみ」になり、みんなで共有できる感情(歌)に変わっていく。
わたしの心はゆきつもどりつ
わたしの心はゆきつもどりつ
この最後の二行は、そうやって昇華された「歌」なのだ。
この詩は「神話」と「歌」が生まれる瞬間をつかみ取って再現している。音が声になり、声がことばになり、ことばの肉体が神話になり、やがて神話のなかに歌がうまれる。神話のなかのできごとを繰り返し語り合う内に、ことばの音が音楽を生み出す。
逆かなあ。音(ことば/声)のなかには最初から音楽があり、それが神話を内部から鍛えているのかもしれない。
どう言ってもいいのかもしれない。どっちも同じなのだろう。
眼で見て、耳で聞いて、鼻で嗅いで、それをことばにしたり、逆にことばにすることを拒んで肉体の内部に隠したりしながら、心は共有されるようになる。
「ゆきつもどりつ」する心が「歌」なのだ。
ことばが生まれ、それが歌に変わっていく--その、太古の音楽がここにある。
『タラマイカ偽書残闕』は十一篇の詩で構成された「長編詩」なのだが、私は、最初の部分がいちばん好き。読んでいていちばん興奮する。初めて発せられたことばのように、「意味」になりきれていない部分、逆に意味の豊穰さを感じる。意味を生み出す力を感じる。
後半に行くにしたがって、ことばが増え、感情も増えれば論理も増えていくのだが、そうした部分を読めば読むほど、同じことばを繰り返しながら、少しずつ変化していく「Ⅰ」の強いリズムがなつかしい感じでよみがえる。
自選 谷川俊太郎詩集 (岩波文庫) | |
谷川 俊太郎 | |
岩波書店 |