谷川俊太郎『ベージュ』(新潮社、2020年07月30日発行)
谷川俊太郎『ベージュ』を読み始めて、23ページ「にわに木が」に出会う。
にわに木がたっている
木のむこうにそらがひろがっている
そのむこうには
なにもない
いや
あるのだ
ほんとは
みえないけれど
きこえないけれど
うん
私は、何か、異様なものを感じた。その「異様」は簡単に言えば、「この詩は読んだことがない」という感覚である。
だれの、どんな詩でも、ほとんどすべてが「読んだことがない」作品である。だから、ふつうはそんなことは感じない。
詩集になれば、発表ずみのものもあるから「これは読んだことがある」と思うことはあるが、「読んだことがない」と思うことはない。たとえば14ページには「イル」という作品がある。読んだことがある。感想を書いたことがある、と思う。18ページ「この午後」、20ページ「その午後」。これも読んだことがある。感想は書いていないと思う。巻頭の作品、6ページ「あさ」。読んだことがあると思うが、なんとなく、そういう気がするだけである。10ページ「香しい午前」。「読んだ」という記憶はないが、「知っている」感じがする。
と、ここまで書いて。
あ、そうか。「読んだことがない」というのは「知らない」ということか。「にわに木が」には、私の知らない谷川がいるのだ。
「読んだ記憶がある」というのも、「知っている」ということなのだ。
じゃあ、「知らない」って、何?
なぜ、「知らない」と感じた?
うん
この、23ページの最後の行の「うん」に、私はびっくりしたのだ。
その前に出てくる「いや」には、「知っている」谷川を感じる。「論理」を推し進めていくときに、「いや」ということばをつかうことがある。これから反対のものの見方をする、という「予告」である。具体的に作品をあげることができないけれど、こういう「論理」は谷川には非常に多い。「起承転結」の「転」のようなもの、論理の「踏み切り台」が「いや」である。実際に谷川が「いや」ということばをつかっているかどうかは調べてみないとわからないが、「いや」を中心とした論理の動かし方にはなじみがある。
でも、
うん
このひとことに、なじみがない。えっ、谷川って、こんなことばのつかい方をした? これはほんとうに谷川?
私は、そんな具合に驚いたのだ。
立ち止まったあと、24ページ。
てでさわれなくても
あ、詩はつづいていた。一連目は、
にわに木がたっている
木のむこうにそらがひろがっている
そのむこうには
なにもない
いや
あるのだ
ほんとは
みえないけれど
きこえないけれど
うん
てでさわれなくても
だったのだ。
そう気づいて、私はまた驚くのである。
やっぱり、この詩の谷川は「新しい」。
いままでの谷川なら「うん」を書かなかった。「うん」を省略してみれば、わかる。
なにもない
いや
あるのだ
ほんとは
みえないけれど
きこえないけれど
てでさわれなくても
「論理」のスピード感が違う。「うん」がなくても論理(意味)そのものはかわらないが、「うん」があると、そこに一呼吸がはいる。散文で言えば、読点「、」がはいる感じだ。
そしてそれは「論理」を推し進める、あるいは別の方向に動かすというよりも、押しとどめる感じ、肯定することで、深めるという感じ。
この「うん」は二連目で「そう」ということばに変化する。
それはなにか
そう
なんとよんでもいい
にわの木は
むかしからコナラ
あんしんする
なまえ
おぼえているかな
しんだ
あいつ
なまえのかずかず
「そう」はなくても論理、意味は、そのままである。しかし、「そう」があるとないとでは深さ、落ち着きのようなものが違ってくる。
私よりもはるか年上の人に対して言うことばではないが、「あ、谷川が落ち着いてきた」という感じだ。私のような、せっかちな人間が、他人に対して「落ち着いてきたなあ」という感想を漏らしてしまうのは、これは異常なことである。それくらい、私は、この詩に対してびっくりしたのだ。
「うん」「そう」は、また「むかしから」ということばで言い直されている。
むかしからコナラ
この一行は、意味はわかるが、とても不安定である。ことばを補えば、
にわの木は
むかしからコナラ(である、のままである)
になる。「ある」という動詞が省略されているのだ。
ここから逆に、「うん」「そう」ということばは「ある」を確認していることばだといえる。しかも、それは「むかしから/ある」のだ。
谷川は、「むかしから/ある」もののたしかさを、いま、肯定しているのだ。それを「あんしん」と呼ぶ。
谷川はこれまでも「むかしから/ある」ものを肯定して書いているかもしれない。「むかしから/ある」ものを否定してばかりはいないと思う。思うけれど、この詩では、「むかしから/ある」ということを、強く肯定している。
私が驚いた新しい谷川とは、「むかしから/ある」を、いま、ゆっくりと肯定し始めている詩人なのだ。
あ きこえる
とおいおと
バイオリンと
ピアノ
いすにすわって
むかしのひとの
ほんをよむ
ことばは
いま
うまれたばかり
みたいに
といかけられていないのに
わたしではなく
わたしのいのちが
こたえている
「むかしから/ある」は、「いま」ということばで言い直される。「いま/うまれたばかり」と。
「いま/うまれたばかり」は、感動的なことばだが、私にはなじみがある。谷川の、詩の肉体になっている「論理」である。
それがここでは、「いま/うまれたばかり」を強調するのではなく「むかしから/ある」を肯定する、その意味の深まりをじっくり待つという形で動いている。
「わたしではなく/わたしのいのちが/こたえている」を言い直せば(ことばを補えば)、それは
わたしではなく
「むかしから/ある」わたしのいのちが
こたえている
になる。「わたしのいのち」は「わたしが生まれてきてから」のものである。しかし、その「いのち」は「むかし」につづいている。わたしが生まれる前から、わたしのいのちはある。それが、わたしを励ましている。そこに「あんしん」がある。
わたしは
うん
どこか
とおくへいきたいのだ
ここから
とおい
しらないのに
なつかしいどこか
そこには
はやしがある
ちいさなかわがながれている
そこへ
「しらないのに/なつかしい」のは、谷川は知らないが、谷川の生まれる前(むかし)から「ある」ものであり、それを「むかしから/ある」いのちが知っているからである。
ここでも「うん」が繰り返されている。そして、前の連で省略されていた「ある」が「はやしがある」という形で、そっと補われている。
詩は、そして、こうつづいていくのである。
しらないことは
いつまでも
しらないまま
そう
しっているやまをみて
しっているうみのにおいをかいで
いきている
いまも
にわに木がたっていて
そのうえに
そらは
ある
ありつづける
わたしが
うまれるまえから
「うん」とおなじ意味の「そう」がくりかえされ、「ある」が強調され、「うまれるまえから」と念押しがある。
谷川は、いま、そういうものを「肯定」しているだ。
私は、実は、いま引用した27ページの「うまれるまえから」で詩はおわっていると思っていた。
ところが、いま、こうやって引用して気がついたのだが、まだつづいていた。
にわに木がたっていて
そのうえに
そらは
ある
ありつづける
わたしが
うまれるまえから
わたしが
しんだあとまで
たぶん
わたしがそういうと
あなたは
うなずいた
だまってうなずいた
あなたが
すきだ
「肯定」は「うなずく」と言い直されている。「だまって」は「うん」「そう」を言い直したものだともいえる。「うん」も「そう」も、特に何かを主張することばではない。自己主張しない。つまり、「黙っている」ことばなのだ。
さて。
最後に突然あらわれた「あなた」とはだれか。
谷川の傍にいるだれかを想像することもできるが、私は「あなた」が「ことば」だと思った。これは直感であり、説明はしたくない。
「ことば」は「むかしから/ある」。それはいつも谷川を肯定しつづけた。あるいは谷川がことばを肯定しつづけたということかもしれない。
ことばと向き合い、ことばと対話し、ことばに対して「あなたが/すきだ」とあらためて語りかけている谷川。「ことば」が「ある」ということを再確認する谷川。この再確認の「再」が、とても新しいのだと思う。
*
詩集の最後に「初出」が載っている。それによると「にわに木が」は「書き下ろし」である。私が「読んだことがない」と感じたのはあたりまえのことなのだが、しかし、「読んだことがない」と言うことだけでいえば「香しい午前」も「未発表」なので「読んだことがない」。それなのに、二つの作品では印象が違う。「香しい午前」はなつかしい感じがする。どこかに「読んだことのある」谷川が隠れているのに対して、「にわに木が」には「読んだことのない」谷川がいるのだと、あらためて思った。
*
それにしても、私はせっかちである。詩を読みながら、詩が次のページにつづいていると考えない。(小説の場合、読みながら、最後はまだかなあ、と思ったりするのだが。)感動したら、そこでおわり、と勝手に思ってしまう。そして感想を書き始める。書き終わって、次の詩を読もうと思ったら、前の詩のつづきがあった、と知り、びっくりする。
「にわに木が」では、それが3回もあった。
予測がつかない、から「初めて読んだ」という気持ちがいっそう強くなったのかもしれない。
**********************************************************************
「現代詩通信講座」開講のお知らせ
メールを使っての「現代詩通信講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントを1週間以内に返送します。
定員30人。
週1篇、月4篇以内。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円です。
費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。
少なくとも月1篇は送信してください。
お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com
また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571
**********************************************************************
「詩はどこにあるか」6月号を発売中です。
132ページ、1750円(送料別)
オンデマンド出版です。発注から1週間-10日ほどでお手許に届きます。
リンク先をクリックして、「製本のご注文はこちら」のボタンを押すと、購入フォームが開きます。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168079402
*
オンデマンドで以下の本を発売中です。
(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512
(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009
(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804
(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455
(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977
問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com
谷川さん、楽しく遊んでおられるな^^^と。
僭越でしょうねーーー