前回書いた感想の「つづき」。というよりも、前回書いたものは「メモ」である。
この映画は「音」が全体を動かしている。いわば、映画のエネルギー源は「音」である。「ストーリー」の本質は、音のなかにある。
象徴的なシーンが、前回も書いた少年の弾くピアノの音。音楽。練習しているときは、ぎこちない音楽である。ところが、最終証言の前に弾くそのピアノの音が、一瞬、透明な音楽、とても美しい音楽にかわる。これは少年の心が「澄みきった」ことを象徴している。少年には事件のすべてがわかったのである。この「わかった」は、少年が「結論を出した」ということである。
それを裏付けるのが、判決の日のテレビ放送。少年の家でもテレビをつけている。しかし、そのときレポーターの声が聞こえない。少年は判決を聞く必要がないのだ。母親が無罪かどうか、裁判がどう判断するかは関係がない。少年のこころは、すでに判断を下している。どちらであっても、少年は揺るがない。
このあと、観客にもわかるように判決を知らせる「声」が流れるが、それは少年にはどうでもいいことである。
この透明な音楽の美しさと、音のないテレビの対比が、とてもすばらしい。あのとき、少年の耳には、彼が演奏した、あの音楽が静かに響いていたのだと私は思った。すべての雑音(他人の声)をかき消してしまう絶対沈黙のような、あの美しいピアノの音が。
この音、あるいは自然の音(風の音、雨の音)のほかに「声」という「音」がある。「声」は「ことば」であり、「意味」を持っている。しかし、その「意味」は「正確」ではない。
あの「11人の怒れる男たち」でも陪審員のひとりが討論の最中に「殺してやる」と口走ることがあるが、それは「殺す」という意味ではない。
だから「夫婦げんか」の「声(ことば)」が録音されていて、それが実際に再現されたとしても、その「ことば」のすべてが「文字通り」の意味ではない。その場の「文脈」と同時に、そのことばが出でくるまでの「文脈」(夫婦のひとりひとりの文脈)がある。
この問題は、少年の最終証言の「父のことば」についても言える。少年は最初、それを犬の問題だと思っていた。しかし、実は犬について語ることで、父が自分自身について語っていたと「理解する」、解釈し、そう判断する。大事なのは、ここでも少年の判断である。「事実」は、だれにもわからない。
そして、少年だけは「わかっている」。自分が「判断した」ということを。
もうひとつ、この映画には「見どころ」がある。ほんとうのラストシーン。女(母)が寝ていると、犬が近づいてくる。足音で近づいてくるところから表現している。(これも、大切。まず「音」で、これから起きることをこの映画は伝える。それが徹底している。)その犬なのだが。
犬というのは、基本的に「ボス」に従う。しかし、この映画の犬は、家族、父・母・こどものだれのそばにいたか。父のそばでも、母のそばでもなく、こどものそばにいた。父がこどもに語ったように、犬はこどもを守っていた。この犬は「ボス」に従うのではなく、家族のなかでいちばん弱い人のそばにいて、そのひとを支える存在だったのである。
その犬が最後になって、少年ではなく、母のベッドへやってくる。犬は知っている。母がいちばん弱い存在だと。少年は「母は無罪である、父は自殺したのだ」と判断した、いや決断した、決意した。そして、「強い人間」に生まれ変わった。「無罪」という判決は出たが、「事実」はだれも知らない。しかし、犬は知っているのだ。犬にはわかっているのだ。こころが揺れている母のそばで、それを支えようと決意して、少年のそばを離れ、母のところへやってきたのである。いままでいろいろな犬を映画のなかで見てきたが、このラストの「名演」には、心底感激してしまう。もちろん監督の「演出」というか、ストーリーなのだが、犬が自分で判断してやってきたような感じだ。ちょうど、少年が自分で「結論」を出したように。
これは、もちろん私の「解釈」である。私は、母(妻)が夫(父、男)を殺害したと思っているが、「事実」はわからない。裁判で「判決」が出れば、それが「事実」ということに、社会的にはなってしまうが、裁判には「誤審」がつきものである。
「事実」は、本人にしかわからない。
これは逆に言えば、母が父を殺したのだとしても、少年は、父は自殺した。母は殺していないと「信じる」。彼のなかでは「事実」は「父親は自殺した」なのである。そうこころが決めたとき、少年はあの美しい音楽に到達した。私が、あのピアノのシーンをとても美しいと書く理由はそこにある。ひとには、ひとそれぞれの「真実」があり、それは他人の判断とは関係がない。自分が「真実」を発見するかどうかがいちばん大事なのだ。
そして私は、妻が夫を殺害したと信じているが、そう信じていてもなお、いや、妻が夫を殺害したと信じるからこそ、少年が「父は自殺したのだ、母は父を殺害していない」という判断に与するのである。とてもいい判断だと納得するのである。
この映画を「裁判もの」というよりも、「少年の成長物語」と呼ぶのは、そういう意味である。少年は視力障害のある弱い少年ではなく、自分が下した判断に従って「生きていく」ことを決意したのである。その決意は、何よりも尊いものだと思う。
あのピアノの音を聞き逃すと、この映画は何がなんだかわからなくなる。あの一瞬に、観客が何を思うか。それがこの映画の「決め手」である。