デクスター・フレッチャー監督「ロケットマン」(★★★)
監督 デクスター・フレッチャー 出演 タロン・エガートン
見始めてすぐ、これはスクリーンではなく「舞台」で見たいなあ、と思った。タロン・エガートンの演技が、そう感じさせる。
スクリーンと舞台とどう違うか。
スクリーンは細部(アップ)を見ることができるが、肉体がカメラに切り取られるので「全身感」がない。ときには「肉体感」が逆になくなってしまうときもある。もちろんアップによって強調される「肉体感」もあるのだが。
舞台では、当然のことながら「肉体」が切り取られ、アップになるということはない。常に全身がさらけだされ、ときには飛び散る汗がきらきら光り、息づかいまで聞こえてくる。そばにいる、という感じがしてくる。
タロン・エガートンは、この「肉体感」が強い。ふつうの肉体(中肉中背?)という感じで、特にスマートということもない。それが「距離感」を縮める。(似た俳優に、マーク・ウォールバーグがいる。)
で。
おもしろいことに、この映画はエルトン・ジョンの音楽を描きながら、エルトン・ジョンと「他者」との「距離」を浮かび上がらせていて、そのことも「舞台」向きなのだと思う。
「距離」を象徴するのは「ハグ」。幼いエルトン・ジョンが父親に「ハグして」とせがむ。しかし、父親は拒む。その瞬間に、そこにあらわれる「距離」。これがスクリーンでは「ことば」になってしまう。「舞台」なら、きっと「せりふ」を越えて、そこにある「空間」そのものが見えてくると思う。「肉体」と「肉体」の「距離」が、「距離」ではなく「空間」になってしまう。「空間」は「舞台」からはみ出し、観客席にまでつながってしまう。その瞬間、少年の「悲しみ」が観客のものになる。
カメラのフレームは、その「距離感」の絶対性を、ときにあいまいにしてしまう。カメラのフレームによって「距離」が勝手に動いてしまう。でも、「舞台」なら、そういうことはない。観客からは、常に登場人物と登場人物の「距離」が見える。
この「距離」に苦しみ、それをなんとかしようともがくエルトン・ジョン。なかなかおもしろい。
映画の始まりが、エルトン・ジョンがアルコール依存症(薬物依存症)のグループに出かけて行き、そこで自分を語るというところから始まるのも、象徴的だと思う。円を描くように坐り、語り始める。エルトン・ジョンが最初に見るのは、そこに来ている「参加者」ではなく、円の真ん中にある「空間」だろう。それを、エルトン・ジョンはどうやって乗り越えるか。参加者と、どうやって「一体」になるか。まあ、「一体」になる必要もないのかもしれないけれど。ともかく、エルトン・ジョンは「空間」(距離)というあいまいな「哲学」にひっかきまわされつづける。
それを見ながら、私はさらに、こんなことも考えた。
私は音楽をほとんど聞かない。エルトン・ジョンも、実は聞いたことがない。大ヒットしているから、どこかで聞いているかもしれないが、これはエルトン・ジョンと思って聞いたことはないのだが。
何度も出てくるライブシーンを見ながら、エルトン・ジョンはやっぱり「ライブ(なま)」を生きていたのだ思ったのだ。観客に誰がいるか。そのことだけで、もう、「距離」が違ってくる。「肉体」に変化が起きてしまう。
レコードも出しているが、彼はきっとライブなしには生きられなかっただろう。ステージと観客席はわかれているが、ステージに立てば観客の存在がどうしても「肉体」に迫ってくる。その不特定多数の「肉体」にどうやって向き合うか。自分の「肉体」をどうやって届けるか。曲(音楽)だけではなく、エルトン・ジョンは「肉体」そのものを「他人」に近づけたかったのだ。そのときの「緊迫感」を生きたのだ。
派手な衣装はエルトン・ジョンと観客を「分断」するかもしれないが、エルトン・ジョンとしてはきっと観客に近づく(観客の視線を引きつける)ための手段であり、方法だったのだと思う。
音楽を聴かないし、ライブというものに一度も行ったことがない人間が書くと「嘘」になってしまうかもしれないが、音楽はやっぱりライブにかぎると思う。エルトン・ジョンの「声」をつかわず、タロン・エガートンが自分で歌っているのだから、ぜひ、この映画を「舞台」にのせてほしい。それが実現したら、見に行きたいなあと思う。
(ユナイテッドシネマ・キャナルシティ、スクリーン8、2019年08月27日)
監督 デクスター・フレッチャー 出演 タロン・エガートン
見始めてすぐ、これはスクリーンではなく「舞台」で見たいなあ、と思った。タロン・エガートンの演技が、そう感じさせる。
スクリーンと舞台とどう違うか。
スクリーンは細部(アップ)を見ることができるが、肉体がカメラに切り取られるので「全身感」がない。ときには「肉体感」が逆になくなってしまうときもある。もちろんアップによって強調される「肉体感」もあるのだが。
舞台では、当然のことながら「肉体」が切り取られ、アップになるということはない。常に全身がさらけだされ、ときには飛び散る汗がきらきら光り、息づかいまで聞こえてくる。そばにいる、という感じがしてくる。
タロン・エガートンは、この「肉体感」が強い。ふつうの肉体(中肉中背?)という感じで、特にスマートということもない。それが「距離感」を縮める。(似た俳優に、マーク・ウォールバーグがいる。)
で。
おもしろいことに、この映画はエルトン・ジョンの音楽を描きながら、エルトン・ジョンと「他者」との「距離」を浮かび上がらせていて、そのことも「舞台」向きなのだと思う。
「距離」を象徴するのは「ハグ」。幼いエルトン・ジョンが父親に「ハグして」とせがむ。しかし、父親は拒む。その瞬間に、そこにあらわれる「距離」。これがスクリーンでは「ことば」になってしまう。「舞台」なら、きっと「せりふ」を越えて、そこにある「空間」そのものが見えてくると思う。「肉体」と「肉体」の「距離」が、「距離」ではなく「空間」になってしまう。「空間」は「舞台」からはみ出し、観客席にまでつながってしまう。その瞬間、少年の「悲しみ」が観客のものになる。
カメラのフレームは、その「距離感」の絶対性を、ときにあいまいにしてしまう。カメラのフレームによって「距離」が勝手に動いてしまう。でも、「舞台」なら、そういうことはない。観客からは、常に登場人物と登場人物の「距離」が見える。
この「距離」に苦しみ、それをなんとかしようともがくエルトン・ジョン。なかなかおもしろい。
映画の始まりが、エルトン・ジョンがアルコール依存症(薬物依存症)のグループに出かけて行き、そこで自分を語るというところから始まるのも、象徴的だと思う。円を描くように坐り、語り始める。エルトン・ジョンが最初に見るのは、そこに来ている「参加者」ではなく、円の真ん中にある「空間」だろう。それを、エルトン・ジョンはどうやって乗り越えるか。参加者と、どうやって「一体」になるか。まあ、「一体」になる必要もないのかもしれないけれど。ともかく、エルトン・ジョンは「空間」(距離)というあいまいな「哲学」にひっかきまわされつづける。
それを見ながら、私はさらに、こんなことも考えた。
私は音楽をほとんど聞かない。エルトン・ジョンも、実は聞いたことがない。大ヒットしているから、どこかで聞いているかもしれないが、これはエルトン・ジョンと思って聞いたことはないのだが。
何度も出てくるライブシーンを見ながら、エルトン・ジョンはやっぱり「ライブ(なま)」を生きていたのだ思ったのだ。観客に誰がいるか。そのことだけで、もう、「距離」が違ってくる。「肉体」に変化が起きてしまう。
レコードも出しているが、彼はきっとライブなしには生きられなかっただろう。ステージと観客席はわかれているが、ステージに立てば観客の存在がどうしても「肉体」に迫ってくる。その不特定多数の「肉体」にどうやって向き合うか。自分の「肉体」をどうやって届けるか。曲(音楽)だけではなく、エルトン・ジョンは「肉体」そのものを「他人」に近づけたかったのだ。そのときの「緊迫感」を生きたのだ。
派手な衣装はエルトン・ジョンと観客を「分断」するかもしれないが、エルトン・ジョンとしてはきっと観客に近づく(観客の視線を引きつける)ための手段であり、方法だったのだと思う。
音楽を聴かないし、ライブというものに一度も行ったことがない人間が書くと「嘘」になってしまうかもしれないが、音楽はやっぱりライブにかぎると思う。エルトン・ジョンの「声」をつかわず、タロン・エガートンが自分で歌っているのだから、ぜひ、この映画を「舞台」にのせてほしい。それが実現したら、見に行きたいなあと思う。
(ユナイテッドシネマ・キャナルシティ、スクリーン8、2019年08月27日)