詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

細田傳造『まーめんじ』

2022-03-10 11:23:43 | 詩集

細田傳造『まーめんじ』(栗売社、2022年03月03日発行)

 細田傳造『まーめんじ』を読みながら、細田傳造は谷川俊太郎に似ていると思った、と書くと、きっとみんな驚くだろうなあ。きのう、谷川俊太郎について書いていて、そこに細田を登場させた。そのときのことが尾を引いているかもしれないが、いや、そうではなく似ているのだ。どこかで似ている何かを感じていたから、谷川について書くとき、知らず知らずに細田のことば(うろ覚えだから、間違っているかもしれない)を引用したのだ。
 どこが似ているか。
 他人との距離が似ている。他人というのは人間としてあらわれるときもあるが、形のないものとしてあらわれるときもある。「匂い」という作品。

くちぼそ たなご はや
釣り上げた小魚の匂い
にびき はいごま じゅんぱく
飼っていた伝書鳩の匂い
黒ちゃん ぱんぱん アーメンの宣教師
棲んでいた町の人間の匂い

十二の歳まで鼻はちゃんとしていた
生き物の匂いを嗅ぎ
生き物のかなしみを知った

十二からこっち
幾百もの腐った牛の肉を食い
幾百もの人間の汗のにおいを嗅いで
わたしの鼻は潰れた
にくしみの臭気を
かなしみの匂いをもはや知ることはない

くちぼそ たなご はや
魚釣りの少年の方を濡らした
六月の霧雨よ
釣り上げた小魚の匂い
ほんとうの季節よ

 「匂い/におい/臭気」。細田はつかいわけている。まあ、つかいわける瞬間、たしかに違いはある。しかし、この「におい」というのは不思議なものである。そのなかにいると感じなくなる。その感じないものを、他人は、気づくときがある。映画「パラサイト」は、そういう「におい」を映画にしていて、とてもおもしろかった。「におい」は、いつも「他人のにおい/自分ではないもののにおい」。「自分のにおい」に気づくときも、そこには「自分ではないもの」が含まれる。たとえば、漏れてしまった糞がパンツにこびりついているとき、それは排除したいもの/自分ではないものにしたいもの。香水をつける女性は、「自分のにおい」をほかのもので隠したいのか。
 ちょっと余分なことを書いた。
 自分のにおいには気づかない。他人のにおいには気づく。しかし、そのにおいにしてもしばらくすると意識できなくなる。においの意識。そのなかで、何と言うか、においの遠近感、においの距離があいまいになる。においの距離感を「意識」しつづけるのはむずかしい。においは鼻腔から肉体の中に入り、肺を通過し、血液にまじり、肉体に浸透してしまうのか。
 私は粘膜が弱い。鼻の粘膜も弱い。したがって、どんなにおいも苦手である。(揮発性のにおいは頭がくらくらしてしまう。)だから、においの「距離感」というものが苦手なのだが。
 細田は敏感であり、そのにおいを、細田のなかで維持できる。一連目が特徴的だ。「くちぼそ たなご はや」を区別している。「にびき はいごま じゅんぱく」。さらに「黒ちゃん ぱんぱん アーメンの宣教師」。この区別は、単に「他者」と「私」の区別をするということではない。「他者」と「他者」の区別をするということである。
 さて。
 ここから、その「区別した他者」と「区別した他者」と「私」の関係。具体的に言いなおせば「くちぼそ」と「細田」、「たなご」と「細田」、「はや」と「細田」を、細田は「小魚」と「細田」という形で整理しているが、(それは他の部分では、伝書鳩、人間、と整理されているが)、その「整理」の過程で、不思議な「距離」が保たれている。私はわがままな人間だから、「距離」に好き嫌いをいれて、「距離」を変化させてしまう。たとえば「くちぼそ」は足で蹴って捨ててしまう。「たなご」はバケツにいれる。「はや」は食べずに、しばらく飼ってみる、という感じ。そのとき、たぶん無意識だろうけれど、そこには「におい」も影響しているかもしれない。細田のことばには、こういう私がいまかいたような「わがまま」な区別がない。平等の「距離」がある。
 平等の距離。
 これが、細田と谷川の共通点だ。「他者」に接するとき、谷川も細田も何か彼ら自身の「ものさし」を持っていて、「他者」との「距離」を保ち続ける。人間同士の「距離」というのは仲よくなったり、ケンカしたり、わかれたり。恋愛し、結婚したかと思えば、けんかして、わかれもする。そういうときも、なにか基本的な「距離」を、細田も谷川も維持し続けていないか。
 私の、単なる印象だけれどね。
 細田は十二歳を境にして「におい」の感覚、「においの距離感」が変わったと書いている。十二歳までは、「におい」そのものの違いだけを識別していた。十二歳以後は、「におい」に別の認識(意識)が加わり、それが「基準」になって「他者」を識別するときに働くようになった、ということだろうか。
 重要なのは、しかし、それを「記憶」しているということだ。「記憶」のなかに、常に、十二歳前の、「におい」だけの「純粋な距離」がある。その「記憶」が細田を律している。こんなことばがいいのかどうかわからないが、なにか「礼儀正しい」ものにしている。どこかで「他者」との距離を一定にする力となって働いている。
 こうした「距離」の取り方は正しいかどうか、それはほんものか、にせものか。
 細田は、最後に、こう書いている。

ほんとうの季節よ

 いまの「距離」の取り方が「ほうとう」ではない、という意識が、十二歳までの「距離」を「ほんとう」と言わせるのだ。この「ほんとう」にはなつかしい気持ちがこもっている。あの、純粋な「におい」だけの識別の世界、そのときの「肉体」。
 涙が出るくらいになつかしい、ひきつけられる、と書きたいが、実は、そういう感じにならない。細田のことばは、そういう「同化」を拒絶している。どこかで、「これが私、あなたではない」という「絶対的な距離」をもっている。

 「まーめんじ」は「けっこんゴッコ」を書いている。「お医者さんゴッコ」から、さらに一歩進んだ(?)「ごっこ」か。
 その後半。

てんねん好色児童の山崎が
ケッコンケッコンとわめきながら
むりやり美子と挙式しようとして
騒ぎになった
あれからぼくたちはみんな
野球少年になってそれを忘れた
けっこんゴッコというあれは
鼻たれ小僧や
まーめんじのちいさなおんなのこしか
してはいけない悦楽だったのだ
おんなのこたちはあれをしなくなって
なにをしていたのだろう

 最後の二行がとてもいい。「おんなのこたち」のことを知らない。「知らない」ということが「他人」になるということである。「他人」というのは「知らない人」のことである。知らない人であっても、私たちは「肉体」があるので、「他人」を知っているつもりになる。理解できるつもりになる。そして、実際に理解するときもある。たとえば、誰かが道に腹を抱えてうずくまっている。うめき声をあげている。あ、腹が痛いのだと思う。「他人の肉体」なのに、その痛みを理解してしまう。わかってしまう。このとき、「他者」と「私」の「距離感」はどうなっているのか。
 少し断線するが。
 いま書いた、路上で腹を抱えてうずくまる誰か。その誰かは、ほんとうに病気のときもある。また、病気を心配してくれて近づく人を待ち構えている掏摸、泥棒ということもある。「ほんとう」はどっちか。細田は、そういうことを見抜ける人間だと思う。何か、「距離」の取り方の達人というか、「他人」が発する「距離の揺れ」を間違いなくつかみとる「方法」を「肉体」として身につけてているように、私には感じられる。
 それは、たとえば、この詩で言えば「てんねん好色児童」ということばにあらわれている。「匂い」で言えば「黒ちゃん ぱんぱん アーメンの宣教師」。突き放している。「絶対的な距離感」というものがある。細田は、絶対に「てんねん好色児童」でもなければ「黒ちゃん ぱんぱん アーメンの宣教師」でもない。しかし、その存在を排除するのではなく、細田と「共存」するのもとして受け入れている。いや、「併存」させている、と言った方がいいのか。たぶん、そうだと思う。
 「併存」と「共存」は、どう違うか。
 いまは印象でしか書けないが、併存というのは、何かを「共有」するということではなく、たぶん安易な「共有」はしない、ということである。「あなたには、あなたのものがある。それはあなたが持っていればいい。私は共有をもとめない。同様に、私には私のものがある。それは共有されたいとは思わない」、と書いてしまうと極論になるが。
 でも、「共有」しないなら、感動はどうやって生まれる?
 それを考えるとき、「匂い」に出てきた「ほんとう」が重要になる。
 それぞれが持っているもののなかには「ほんとう/にせもの」が絡み合っている。人間が特にそうである。「ぱんぱん」と呼ばれる女性。彼女たちがしていることは間違っているということは簡単である。しかし、そうするしかなっかたという「事情」があるだろう。そのときの「ほんとう」。たとえば「ほんとのうかなしみ」。でもね、このことだって「ほんとうのかなしみ」と書いた瞬間に、何と言うか、一種の「理念による浄化」のような不純物がまじりこみ、「ほんとう」ではなくなる。「意味」のまじりこまない「ほんとう」というものが、「意味以前の絶対的な他者」として「ある」。もし「共有」するものがあるとすれば、それである。しかし、それは「単独」では存在し得ないような何かなのだ。だから「併存」するものとして、いっしょに生きる。
 「共存」ではない、不思議なあたたかさ。「併存」の強さ。それが細田のことばのなかを貫いている。

 


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