フレッド・ジンネマン監督「真昼の決闘」(★★★★★)(2021年08月30日、中洲大洋、スクリーン3=午前10時の映画祭)
監督 スタンリー・キューブリック 出演 ゲイリー・クーパー、グレイス・ケリー
何がおもしろいかと言って……。映画の長さが約90分、映画が始まるのが10時半ごろ、問題の列車が街に着くのが12時。つまり、映画の中の時間と、映画そのものの長さがほぼ同じ。これが緊張感を高める。実際は列車が着いてから「決闘」が始まるわけだから、映画の中の時間の方が、映画そのものの時間よりも長いのだけれど。でも、忘れてしまうね。そういうことは。頻繁に映し出される時計が「時間」が少なくなっていく、という緊張を高める。「007」の何と言うタイトルだったか、時間との戦い可視化し、時限装置の残り時間「007」で終わせるのは、この「真昼の決闘」がヒントになっているかもしれない。
で、何の時間が少なくなっていくか。
ゲイリー・クーパーは復讐にやってくる殺し屋と対決するために町の人の協力を求めるが、なかなか協力者が集まらない。当然協力してくれると思っていた判事は逃げ出す。親友らしい男たちも、自分の命が大切と、戦いを拒否する。最初は協力すると言っていた人間も去っていく。「時間」が減るのと同様に、協力してくれるはずの人間も減っていく。この「正比例」の関係が、なんともいえず、にくい。
いろんな人間模様が描かれるが、教会での「議論」がおもしろい。いま、こういう映画ができるかどうかわからないが、この当時(私の生まれる前)は、こういうことができたのだ。こういうこと、というのは「議論」である。民主主義は、自分にできることに責任を持つこと。それを自分のことばで語ること。「理想」を語るだけではなく、「理想」はそうだけれど自分の「現実」を考えると、こういうことはできない。殺し屋に街を支配されるのはいや、でも戦って死んでしまったらなんにもならない。戦いたくはない。そういうことを、教会の中で語る。その「議論」が正しいかどうかではなく、「議論する」ということが、なんとも刺戟的。アメリカは「民主主義」の国なのだとあらためて思った。いまはどうかはっきりしないが、1952年当時は「民主主義(ことば)」が生きていた。
「ことば」を実行することは難しい。その難しさを、ゲイリー・クーパーが一人でやってのける。ゲイリー・クーパーは背が高いだけの、どちらかというと線が細く弱々しく見える人間だが、それが次第に追い詰められていく。それを見ていると、確かに、これはゲイリー・クーパーのようなやせた男が演じないとおもしろくない、と思った。ジョン・ウェインのようながっしりした男がやると、追い詰められていく感じがしない。美男美女というのは、追い詰められる(いじめられる)と妙に「色気」が出てくる。わっ、追い詰められていくのをもっと見たい、という気持ちになる。トム・クルーズのように小さい(背の低い)人間もだめ。くじけそうになり、くじけながら、その体を立て直していくとき、「長身」でないと、立て直す、という感じ、ふたたび立ち上がるというときの「高さ」の印象がないからだ。(あ、これって、差別発言かな?)
美女で言えば、世界一の美女、「ガス燈」のイングリット・バーグマン。気が触れるんじゃないかと苦悩する顔、よかったなあ。シャルル・ボワイエになって、バーグマンをいじめてみたい、と興奮したことをおぼえている。
グレイス・ケリーも、バーグマンとは違うけれど、苦悩するから美しい。殺し合いなんかいや、逃げたい。でも、ゲイリー・クーパーがいなければ生きていけない。「逃げたい」という気持ちがなければ、「どうすればいいのか」という気持ちがなければ、美しくないとは言わないけれど、美しさが迫ってこない。
途中に、若い男と殴り合うシーンがあるが、血や傷、汚れというのは美男美女にこそ似合う。やっぱり映画を見るなら、美男美女に限る、と思う。ほかにも見どころはあるんだろうけれど、ミーハーなので、ほかのことは書かない。