(その2は
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■浅草寺
山号は金龍山。聖観音宗の総本山。「浅草の観音様」として古くより参拝客でにぎわう。
浅草寺の始まりは、推古36年(628)、漁師の檜前浜成(ひのくまはまなり)、竹成(たけなり)兄弟が、隅田川で聖観音像を網にかけ、それを土師中知(はじのなかとも)が、自宅を寺に改めて安置し、礼拝供養をしたことからとされる。
浅草寺は焼失と再建を繰り返し、近年では、昭和20年(1945)の東京大空襲によってほとんどが焼失したが、伝法院、時の鐘、二天門などは戦災を免れた。
雷門。天慶5年(942)平公雅によって創建され、その初めは駒形付近にあった。鎌倉時代以降現在地に移築された際、風神・雷神が初めて安置されたといわれる。慶応元年(1865)の大火で炎上後再建されず、昭和35年(1960)、95年ぶりに松下電器(現在のパナソニック株式会社)創始者松下幸之助氏の寄進により再建。
仲見世。雷門から宝蔵門までの浅草寺への参道で約250メートルの道沿いには江戸時代から商いを続ける老舗を含め、雷おこし、人形焼、江戸玩具、べっこう細工等約90軒の店が軒を連ねる。江戸時代の元禄~享保(1688~1735)のころ浅草寺境内の掃除の賦役を課せられていた近くの人々に対し、境内や参道上に出店営業の特権が与えられたのが仲見世の始まり。
宝蔵門。昭和39年(1964)に大谷重工業・ホテルニューオータニ創始者の大谷米太郎氏の寄進により再建。門の下層の正面左右に仁王像を安置し、上部二層に近代的防災設備を施した収蔵室を設け浅草寺の宝物を収蔵。
宝蔵門に飾られる全長4.5メートルの巨大わらじ。魔よけの意味がある。
本堂。昭和33年(1958)再建。本瓦葺の鉄筋コンクリート造。東京大空襲で焼失した旧本堂(旧国宝、3代将軍徳川家光建立)と同じ形。堂内には、秘仏本尊聖観世音菩薩、慈覚大師作の前立本尊や徳川家康、徳川家光などの護持仏であった観音像等が安置される。今年の11月まで修復工事中。
五重塔。昭和48年(1973)再建。天慶5年(942)平公雅が建立したのを初めとして、その後数度倒壊、炎上に遭いその都度再建。徳川3代将軍家光により建立された五重塔は明治44年(1911)国宝に指定されたが、東京大空襲で焼失。
塔の正面に現在修復工事中の二天門の二天像(持国天・増長天)が安置されている。
持国天像。
薬師堂。浅草寺に現存する古建築の一つ。慶安2年(1649)、江戸幕府三代将軍徳川家光が建立。
弁天堂。「江の島」(神奈川県藤沢市)、「布施」(千葉県柏市)とともに関東三弁天の一つで白髪のため「老女弁財天」と呼ばれる。
時の鐘。江戸時代、人々に時刻を知らせた鐘で、当初、江戸城中にあったが、江戸市街地の拡大により浅草寺や寛永寺等9箇所に設置された。松尾芭蕉(1644~94)の句「花の雲 鐘は上野か 浅草か」で有名な鐘。元禄5年(1692)第5代将軍徳川綱吉の命により鋳造。鐘楼は東京大空襲で焼失し昭和25年(1950)に再建されが、鐘は幸いにも無事に残った。
二天門。重要文化財。元和4年(1618)に建立と言われ、当初は境内にあった東照宮の随身門であった。東照宮は寛永8年(1631)と寛永19年(1642)の二度の火災で焼失したが門は焼け残った。明治初年の神仏分離令で、門の随身像は持国天・増長天の二天像に変わり、門の名も二天門と改称された。
伝法院の庭園。伝法院は浅草寺の本坊で、客殿・玄関は安永6年(1777)建築。建物の背後にある庭園は江戸時代初期の廻遊式泉水庭園(非公開)。
鎮護堂。「お狸さま」と呼ばれ、火防・盗難除けの守護神として信仰が厚い。お堂は大正2年(1913)建立。
■浅草神社
祭神は浅草寺の観音像を発見した檜前浜成命(ひのくまはまなりのみこと)、檜前竹成命(たけなりのみこと)と観音像を自宅に安置した土師中知命(はじのなかとものみこと)。創建年代は不明。三神を祀る神社なので、「三社様」と呼ばれた。慶安2年(1649)に東照宮(徳川家康)が合祀された。毎年五月に行われる例大祭は「三社祭」の名で知られる。
社殿。慶安2年(1649)に徳川家光が再建したもので国の重要文化財。権現造という様式で、本殿と拝殿とを石の間または相の間などの名で呼ばれる幣殿でつなぐ。
「こち亀」の石碑。人気漫画「こちら葛飾区亀有公園前派出所」の主人公、両津勘吉の少年時代を描いた「浅草物語」にちなんで建てられた。