生姜ちくわのぶらぶら山日記

趣味の登山を中心としたブログです。2014年11月より日本百名山登山開始、2018年9月23日全座登頂。

2011年1月23日 深川散歩イベント主催(その3)

2011年01月31日 | 都内散歩イベント主催
(その2はこちら


■東京都現代美術館
現代美術の普及・振興を目的に平成7年(1995)に開館した美術館。約4,000点の収蔵作品を活かし、現代美術の流れを展望できる常設展示や大規模な国際展等の特色ある企画展示など、絵画、彫刻、ファッション、建築、デザイン等幅広く現代美術に関する展覧会を開催。美術図書室には約10万冊の美術関係図書を所蔵。






題名が不明な作品。


オノ・ヨーコ「東京のウィッシュ・ツリー(願掛けの木)」。特定の時間帯に作品の中に入ることができる。


ダン・グレアム「有孔スチールとカーブしたハーフミラーの三角形」。三角形の中に入ることができる。


リチャード・ディーコン「カタツムリのようにB」。


■木場公園
平成4年(1992)開園の、約24万平米の都立公園。
木場は、江戸から昭和にかけて木材産業の町として栄えたが、昭和44年(1969)に江東再開発構想のなかの防災拠点の一つとして位置づけられ、木材関連業者が現在の新木場へ移転すると公園として整備された。園内には、シンボルの木場公園大橋、 イベント広場、ふれあい広場、都市緑化植物園、木場ミドリアム(緑の展示所)などがあり憩いの場となっている。


木場公園大橋。背後にスカイツリーが見える。


ふれあい広場。


木場ミドリアム。


都市緑化植物園。






イベント当日のイベント広場では陶器市が開催されていた。様々な産地の陶器が豊富にあり見てみて楽しかった。






■三十三間堂跡
江戸時代・寛永19年(1642)に京都の三十三間堂を模して浅草に建てられたが、元禄14年(1701)に深川に移転。江戸時代には、京都の三十三間堂と同様に通し矢が行われていた。明治5年(1872)に破棄解体された。




■八幡橋
国の重要文化財。明治11年(1878)、東京府の依頼により工部省赤羽製作所が製造した国産第1号の鉄橋。長さ15.7メートル、幅3メートル。当初は、中央区に弾正橋として架けられたが、昭和4年(1946)に現在の場所に移され、富岡八幡宮の東隣りということから八幡橋と改名された。アメリカ人技師のスクワイアー・ウィップルの特許を基本としたことから平成元年(1989)国内で初めて米国土木学会より「土木学会栄誉賞」が送られた。




米国土木学会「土木学会栄誉賞」の受賞記念碑。

2011年1月23日 深川散歩イベント主催(その2)

2011年01月30日 | 都内散歩イベント主催
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■霊巖寺
浄土宗。江戸時代・寛永元年(1624)、徳川家康・秀忠・家光から信頼のあった霊巖上人が霊岸島(中央区)に創建。明暦3年(1657)の明暦の大火による焼失後、万治元年(1658)に海浜の低湿地を埋立て、現在地に移転。




松平定信の墓。国の史跡。松平定信(1758~1829)は江戸中期の陸奥白河藩主で、天明7年(1787)老中となり、寛政の改革を行った。


銅造地蔵菩薩坐像。江戸時代・享保2年(1717)ごろ深川の地蔵坊正元が願主となって建てた江戸六地蔵の一つで、高さ約2.7メートルの像。江戸六地蔵は当寺の他、品川寺(品川区南品川2丁目)、太宗寺(新宿区新宿2丁目)、 真性寺(豊島区巣鴨3丁目)、東禅寺(台東区東浅草3丁目)、永代寺(江東区。明治時代の廃仏毀釈により消滅)にあった。


■深川江戸資料館
江戸時代末期の天保年間(1830~1843)頃の深川佐賀町の町並みを実物大で再現した資料館。表通りの大店や土蔵、長屋や船宿等が再現され、建物内には時代や場所、住む人々の家族構成や職業、年齢を細かく設定しそれにふさわしい生活用品を展示。一日の移り変わりを音と光で表現し、季節ごとに展示内容を変えている。








八百屋。


つき米屋。


船宿。


船宿の座敷。


長屋。


木場の木挽職人の住まい。


船宿の船頭の住まい。


天ぷら屋台。


■紀伊国屋文左衛門の墓
紀伊国屋文左衛門(1669~1734)は紀州出身で、若いとき江戸に出て、材木業を営み、幕府と関わり材木豪商となった。後年は、門前仲町一の鳥居付近(門前仲町1丁目)に住み、享保19年(1734)に66歳で没したといわれ、成等院に葬られた。墓は左隅にあり、正面の石碑は、昭和38年(1963)に建てられたもの。


紀伊国屋文左衛門の墓。


石碑。


松下電器産業(現:パナソニック)が奉納した石灯籠。創業者の松下幸之助氏が和歌山出身だったからだろうか。


■滝沢馬琴誕生の地
滝沢馬琴は明和4年(1767)に、この地にあった松平信成邸内で、下級武士の五男として誕生。成人後、山東京伝に師事し黄表紙作家となり、後に読本に転向、82歳でなくなるまで「南総里見八犬伝」をはじめ約470種の著作を著した。
モニュメントは、国立国会図書館に所蔵されている106冊分の原本の寸法を測り、2つの山に分けて積み重ねられた形をしている。




■間宮林蔵の墓
間宮林蔵(1775-1844)は常陸国の出身で、伊能忠敬に測量術を学び、文化5年(1808)から翌年にかけ、樺太(サハリン)全土を探検し、間宮海峡を発見、樺太が島であることを明らかにした。晩年は、深川蛤町(門前仲町付近)に住み、天保15年(1844)に65歳(70歳という説もある)で没し、本立院(平野1丁目)に葬られた。
林蔵の墓は、本立院の墓地であったところにあり、本立院とは離れている。




2011年1月23日 深川散歩イベント主催(その1)

2011年01月25日 | 都内散歩イベント主催
この日は東京都江東区の深川界隈を歩いた。参加者は管理人も含め9名で、内訳は男性5名、女性4名(参加者の皆様、ありがとうございました)。初参加の方は3名。

天気は割りとよかった。ここのところ天気に問題なく開催できているので主催者としては助かっている。

今回個人的に印象に残った場所は清澄庭園だ。泉水を眺めながら庭園をのんびり歩くのは心が安らぐ。園内の石の種類と数の多さにはあらためて驚かされた。石の価値については正直よく分からないが、石に対する情熱に並々ならぬものが感じられた。

木場公園の陶器市は面白かった。いろいろな陶器があってイベントでなければじっくり見て買い物をしていたと思う。


■コース
清澄白河駅→臨川寺→清洲橋→平賀源内電気実験の地→セメント工業発祥の碑→深川図書館→清澄庭園→霊巖寺→深川江戸資料館→紀伊国屋文左衛門の墓→滝沢馬琴誕生の地→間宮林蔵の墓→東京都現代美術館→木場公園→三十三間堂跡→八幡橋→富岡八幡宮→深川不動堂→法乗院(深川えんま堂)→採荼庵跡→小津安二郎誕生の地→伊能忠敬住居跡→深川東京モダン館→門前仲町駅解散


(写真の大部分は下見時に撮影。写真をクリックすると拡大画像を別ウインドウに表示)


■臨川寺
臨済宗。江戸時代・正徳3年(1713)創建。延宝8年(1680)に江戸市中から深川の草庵に移った芭蕉が当寺の仏頂禅師と親交を深め、たびたび参禅したと言われる。




芭蕉墨直しの碑と由緒塚の碑。前者は芭蕉門下の各務支季が京都の双林寺に建立した芭蕉の仮名碑を神谷玄武坊が写して建立。後者は芭蕉墨直しの碑の由来を記したもの。


■清洲橋
国の重要文化財。昭和3年(1928)、関東大震災の復興事業としてドイツのケルンの吊橋をモデルに建てられた、女性的で優雅なシルエットが印象的な吊橋。長さ186.2メートル、幅25.9メートル。橋名は、深川の清澄町と日本橋中洲町を結ぶ橋であることからそれぞれの町名の一字を取ってつけられた。




■平賀源内電気実験の地
江戸中期の本草学者・戯作者の平賀源内が安永5年(1776)にわが国最初のエレキテル(摩擦起電機)を完成し、しばしば深川清住町(清澄1丁目)の自宅で電気実験を行い人々に見せた。




■セメント工業発祥の地
日本初のセメント工場があった場所。明治8年(1875)、工部省が本格的なセメント製造に成功、明治16年(1883)に現在の太平洋セメント株式会社の創業者の一人、浅野総一郎が払い下げを受け、民間のセメント工場として発展した。現在、記念碑や浅野総一郎の像、明治27年(1894)に製造されたコンクリートブロックが残る。


セメント工業発祥の地の碑。


浅野総一郎の像。


明治27年(1894)のコンクリートブロック。


■深川図書館
明治42年(1909)に日比谷図書館に次ぐ2番目の東京市立図書館として誕生した都内でも古い図書館。建物は、平成5年(1993)に改築されたもので、昭和初期の趣が感じられる外観。




■清澄庭園
東京都指定名勝。明治時代の代表的な回遊式林泉庭園。

江戸時代には豪商の紀伊国屋文左衛門の屋敷跡と伝えられ、大名の下屋敷があったが、明治11年(1878)、三菱財閥創始者の岩崎弥太郎が邸地を買い取り、社員の慰安や貴賓を招待する場所として庭園造成を計画、明治13年(1880)に「深川親睦園」を開園。弥太郎の死後、明治24年(1891)に隅田川の水を引いた泉水や全国から取り寄せた名石を配した回遊式林泉庭園が完成。

大正12年(1923)の関東大震災や昭和20年(1945)の大空襲では避難所となり多くの人命を救った。


泉水。昔は隅田川から水を引き、潮の干満によって池の景観が微妙に変化したといわれているが、現在は雨水でまかなっている。


園内からスカイツリーがうっすらと見える。


名石。岩崎家が自社の汽船を用いて全国の石の産地から集め園内に配置。伊予青石、紀州青石、生駒石等が見られる。この他に敷石や橋、磯渡りの石を含め無数の石が園内に配置されている。写真は紀州青石。


根府川石。右側の石がネッシー?のように見えてしかたがない。


仙台石の橋。


磯渡り。


涼亭。明治42年(1909)に国賓として来日した英国のキッチナー元帥を迎えるために岩崎家が建てた。震災と戦火の被害からまぬがれ、昭和60年(1985)に全面改築。平成17年に「東京都選定歴史的建造物」に選定。


芭蕉句碑。芭蕉の最も有名な句「古池や かはづ飛び込む 水の音」が刻まれる。もとは隅田川の岸辺にあったが、護岸工事により当地に移す。


富士山。庭園で最も高く大きな築山。山全体がつつじやさつきに覆われている。


石仏群。江戸時代の庚申塔や阿弥陀仏等4基が置かれる。

大正記念館。最初の建物は大正天皇の葬儀に用いられた葬場殿を移築したものだったが、戦災で焼失、昭和28年(1953)に貞明皇后の葬場殿の材料を使って再建、平成元年(1989)全面的に改築。写真撮影を忘れてしまった・・・。


水仙。

2011年1月9日 東海道散歩8(2日目/小田原宿)イベント主催(その3)

2011年01月15日 | 東海道徒歩の旅
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■明治天皇宮ノ前行在所
清水本陣があった場所で、明治天皇は明治元年(1868)10月の御東行の際を初めとして、5回宿泊された。本陣は勅使や、公家、大名、幕府の公用旅行者などが宿泊・休憩するための施設。清水本陣は小田原宿の4軒の本陣のうちの筆頭で、面積はおよそ240坪あった。




■松原神社
平安時代・久安元年(1145)~久安7年(1151)創建と伝わる小田原宿の総鎮守。北条氏、稲葉氏、大久保氏と歴代の小田原城主に崇敬された。




吉兆の大亀。10円を納めると10日、100円だと100日寿命が伸びる、とのこと。


神社のスタンプラリーはいまや携帯でバーコードを読み取る時代。


■小田原宿なりわい交流館
昭和7年(1932)に建てられた旧網問屋を再整備し、市民や観光客の「憩いの場」として開放。建物は、小田原の典型的な商家の造りである「出桁造り」という建築方法が用いられている。




■徳常院
曹洞宗。



大仏。八百屋お七の恋人吉三郎が、お七の菩提を弔うために作ったという伝承から、吉三地蔵との別称を持つ。正徳3年(1713)に造られ箱根芦ノ湖畔の賽の河原に安置されていたが、明治2年(1869)の廃仏毀釈で東京の古物商に売り渡され運ばれる途中、この地で動かなくなった。像に触れると発熱する者が続出したため地元の人が買い戻して当院に安置した。


■明治天皇本町行在所
片岡本陣のあった場所で、明治天皇は明治11年(1878)の北陸・東海御巡幸の際に宿泊された。




■滄浪閣跡
明治23 年(1890)に伊藤博文が建てた別荘の跡。当時、ここで民法草案の起草委員を命ぜられた積陳重穂、富井雅章らと民法を起草したことから「民法発祥の地」とも言われる。明治30年(1897)の大磯への滄浪閣を移した後、建物は旅館として利用されていたが、大正12年(1923) の関東大震災により全壊した。滄浪閣旧跡の碑と伊藤博文の胸像が残る。


滄浪閣旧跡の碑。


伊藤博文の胸像。


■御幸の浜 
明治6年(1873)、明治天皇・皇后が当海浜で漁夫の地引網をご覧になったことから「御幸の浜」と呼ばれるようになった。夏には海水浴が楽しめ、元旦には初日の出にあわせて新春初泳ぎが行われる。






■おまけ


二宮町のマンホールのふた。


小田原市内のマンホールのふた。酒匂の渡しが描かれている。


参加者の方が食べていた「小田原どん」。「小田原どん」はお店によって内容が異なるが、「小田原の海と陸で育った食材を一つ以上用いること」、「器に伝統工芸品の小田原漆器を使用すること」が満たされる必要がある。


東海道沿いのレストラン。建物がにやりと笑う人の顔に見えてしまう。

2011年1月9日 東海道散歩8(2日目/小田原宿)イベント主催(その2)

2011年01月14日 | 東海道徒歩の旅
(その1はこちら


■小八幡の一里塚跡
江戸日本橋から19番目の一里塚の跡。




近くにあった一里塚バス停。


■酒匂の渡し跡
江戸時代の酒匂川には橋がなく船渡しをしていたが、延宝2年(1674)に船渡しが禁止された後、徒歩渡しが行われた(ただし、冬場は仮橋をかけて往来した)。大雨で川が増水すると川留めとなり、旅人は付近の農家を借りたり、野宿して川明けを待った。


酒匂の渡しの碑。


酒匂川。富士山が山に隠れわずかに姿を現す。


橋の欄干につけられた、歌川広重「東海道五十三次 小田原」を模したパネル。


■新田義貞の首塚
新田義貞の家臣宇都宮泰藤は、越前国藤島で討ち死にし、足利尊氏によって晒されていた新田義貞の首を奪い、主君義貞の領国の上野国に首を届けるために東海道を下ったが、この地に達したとき病にかかり再起できなくなったため、やむおえず義貞の首をこの地に埋葬して、自分自身もこの地で亡くなったと伝えられる。




■上杉龍若丸墓
上杉龍若丸は、室町時代・天文21年(1552)に小田原の北条氏と戦った関東管領の上杉憲政の嫡男で、13歳のときに降伏の使者として従臣とともに小田原に出向いたが、北条氏の命により殺害された。龍若丸と従臣5人の墓が残る。




■小田原宿
日本橋から20里27町(約81.4キロメートル)の距離にあった江戸から9番目の宿場。
前の宿場の大磯宿から4里(約15.7キロメートル)、次の宿場の箱根宿へは4里8町(約16.5キロメートル)あった。
天保14年(1843)の記録によると人口5,405人、家数1,542軒、本陣4軒、脇本陣4軒、旅籠95軒。

小田原宿の成立は慶長6年(1601)。小田原は関東の出入り口として重要な拠点で、戦国時代には北条氏、江戸時代には稲葉氏、大久保氏などの譜代大名の城下町として栄えた。小田原宿は神奈川県内で最大規模の宿場で、箱根の山越えや関所を控えた旅人で大変に賑わった。


■江戸口見附・一里塚跡
小田原城下に入る東海道の東の出入り口。小田原宿の江戸側の出入り口でもある。入るとすぐ枡形となっており、右手に番所があり、通行人の監視が行われた。また、この場所には江戸日本橋から20番目の一里塚があった。






江戸時代末期の小田原宿及び城下町の地図。


■蓮上院土塁
小田原城跡の一部として国の史跡に指定されている。安土桃山時代・天正18年(1590)の豊臣秀吉の小田原攻めに対し、北条氏が築いた総構えの一部。土塁の東側には水掘が設けられ、対岸には徳川家康軍が対峙していた。総構えは延長9キロメートルに及び空堀と土塁が城下町全体を包み込むように築造された。




土塁の一部が大きくへこんでいた。説明板によると終戦2日前の昭和20年(1945)8月13日の空襲によるもの。


■北條稲荷
小田原城東方の守護神として社を建立したと伝えられる他、北条氏政が父の氏康が逝去したのは、城内で死んだ老狐の霊によるものと考えその霊を祀って供養をしたのが始まりとの言い伝えもある。




蛙石。蛙の姿にそっくりの自然石で、小田原城中にあったが、北條稲荷ができるとその社地へ寄進したものだと言われている。蛙石は、小田原に異変が起こりそうになると、必ず鳴いて人々に予告したといわれ、天正18年(1590)の小田原落城の際には、夜な夜な鳴き声が聞こえてきたとの伝説がある。

蛙石の説明後に、北條稲荷の近くにお住まいの老婦人が話しかけてきた。老婦人の話によると、「50年以上前に北條稲荷周辺が火事になった際にも蛙石が鳴いた」とのこと。


■おまけ


東海道から見える富士山。


街道沿いの松並木。


立派な黒塀の屋敷。「社会福祉法人ゆりかご園」の看板がかけられていた。


酒匂川の近くにあった看板。鹿が出没する場所には全く見えないのだが・・・。