生姜ちくわのぶらぶら山日記

趣味の登山を中心としたブログです。2014年11月より日本百名山登山開始、2018年9月23日全座登頂。

2011年4月30日 東海道徒歩の旅1(箱根宿)(その3)

2011年05月17日 | 東海道徒歩の旅
(その2はこちら


■箱根旧街道石畳


西海子坂(さいかちざか)。



県道の七曲がりの表示。


七曲がり。あまりの急カーブで自動車の運転も大変そうだ。


■箱根旧街道石畳


橿木坂。現在は急な階段になっている。


橿木坂の説明。階段のきつさに管理人もどんぐりほどの涙をこぼしたくなる・・・。


猿滑坂。


猿滑坂の説明。



4月末でも桜の花が残っていた。


追込坂。


追込坂の説明。


笈の平碑。


笈の平の説明。


■箱根旧街道休憩所
茅葺屋根の建物の無料休憩所。旧街道資料館に展示してあった江戸時代の旅に関する資料の一部が展示。






■甘酒茶屋
江戸時代初期創業の甘酒が名物の茶屋。赤穂浪士の一人、神崎与五郎が討ち入りのために江戸に向かう途中、箱根山中で馬子に言いがかりをつけられたが、「大事の前の小事」と我慢をし、甘酒茶屋にて詫証文を書いたとの講談で有名。




甘酒と黒ごま力餅を注文。どちらも甘いものだが坂を上りつかれた体にはちょうどよい。


■箱根旧街道石畳


天ヶ石坂。


白水坂。


■箱根八里歌碑
箱根馬子唄の一節「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」が刻まれている。




■箱根旧街道石畳


権現坂。下り坂なのでらくらく。


権現坂の説明。


■ケンペル・バーニーの碑
箱根にゆかりのある外国人、ケンペルとバーニーの顕彰碑。ケンペルは江戸時代に箱根の美しさを世界に紹介したドイツ人の医師・博物学者。バーニーは明治時代に箱根を愛し自然保護を訴えたオランダ人貿易商。

ケンペル・バーニーの碑。


バーニー本人が建てた石碑。ケンペルの「日本誌」を引用し、箱根の自然の保護を訴えている。


■箱根旧街道杉並木



■賽の河原
古くから地蔵信仰の霊地として信仰を集め、江戸時代には多くの石仏、石塔があったが、明治時代の廃仏毀釈やその後の観光開発により石仏が失われ規模が縮小。



■身代わり地蔵
鎌倉時代に頼朝の家来、梶原景季が他人と間違われて襲われた際にその身代わりになって景季を救ったとの伝説が残されている。




■箱根旧街道杉並木
江戸時代・元和5年(1619)に植えられたと伝えられているが、実際の樹齢は350年前後。現在、400本を越える杉の木が道の両側に残る。街道の並木は、風や雪、日差しから旅人を守り、風雨や日差しから街道そのものを保護するために設けられた。並木には、海に近い場所では松、箱根では杉、とその土地の自然環境に適した木が選ばれた。






■一里塚

江戸から24番目の一里塚があった場所。


2011年4月30日 東海道徒歩の旅1(箱根宿)(その2)

2011年05月15日 | 東海道徒歩の旅
(その1はこちら



左手は須雲川自然探勝歩道の入り口。左手に進んだほうが面白そうだが県道を直進。


須雲川。


女転し坂。現在は通行できない。


女転し坂の説明。


■箱根旧街道石畳


割石坂。


割石坂の説明。




県道にでて再び旧街道へ。


小川が流れる場所もある。




石畳の構造の説明。排水を考慮した設計をしていることが分かる。


大澤坂。


大澤坂の説明。




斜めの排水路の説明。


■畑宿茗荷屋本陣跡
畑宿にあった勅使や、公家、大名、幕府の公用旅行者等の休憩所の跡。建物は大正元年(1912)に焼失。茗荷屋本陣の庭園は江戸時代の旅人の間で評判だった。畑宿は江戸時代中期頃に栄えた立場(宿場と宿場の間にある村(間の村)の中で、人や馬が休憩する場所)で、名物の工芸品の寄木細工で知られる。




明治天皇の御小休の記念碑。


畑宿の集落。大震災の影響でほとんどの店が閉まっていた。


再び石畳の道へ。


■畑宿一里塚
江戸日本橋から23番目の一里塚。復元した一里塚で、箱根の湯本茶屋、畑宿、箱根の3か所にあった一里塚の中で、唯一その形態をとどめる。塚の頂上に、畑宿から見て右側の塚にはもみの木を、左側の塚にはけやきの木が植えられている。




もみの木が植えられた塚。


けやきが植えられた塚。


2011年4月30日 東海道徒歩の旅1(箱根宿)(その1)

2011年05月14日 | 東海道徒歩の旅
この日は箱根湯本駅から箱根関所の先の箱根町バス停まで東海道を歩いた。もともとは自分の管理コミュのイベントで参加者と一緒に歩く予定だったが、参加希望人数が少なかったため開催を断念、個人的に歩くことにした。

この日のコースは上り坂がひたすら続きとても歩きがいがあった。コース上には石畳の道も多かったが、いつもイベントで履いている靴に厚底ソックスで問題はなかった。

後半になると雲りになり風が強く吹き歩きにくかったが、前半はさわやかな青空の下、新緑の中を気持ちよく歩いた。石畳の道は江戸時代の東海道の風情をしのばせ、難所に挑む江戸時代の旅人気分が味わえとても楽しかった。出女の取締りの厳しい箱根関所は無事通過(?)。

今回歩いた距離は10数キロだったが、江戸時代の人は小田原~箱根~三島の箱根八里(約32キロ)を一日で歩いたのだから江戸時代の人の健脚ぶりには本当に驚かされる。

この日の後、5/2~5/7に箱根関所の先から静岡駅まで東海道を歩いたが、この日と5/2の箱根山越えが一番よかった。


【コース】
箱根湯本駅→早雲寺→正眼寺→一里塚跡→箱根旧街道石畳→鎖雲寺→箱根旧街道石畳→畑宿茗荷屋本陣跡→畑宿一里塚→箱根旧街道石畳→箱根旧街道休憩所→甘酒茶屋→箱根旧街道石畳→箱根八里歌碑→ケンペル・バーニーの碑→箱根旧街道杉並木→賽の河原→箱根旧街道杉並木→身代わり地蔵→一里塚→箱根関所資料館→箱根関所→神奈川県立恩賜箱根公園→箱根駅伝記念碑→箱根町バス停



箱根湯本駅付近。


駅から離れて坂道の続く旧東海道を歩く。


■早雲寺
臨済宗。小田原城主・北条氏の菩提寺。戦国時代・大永元年(1521) 初代早雲の遺言により2代氏綱が創建。天正18年(1590)の豊臣秀吉の小田原攻めで消失したが、江戸時代・寛永4年(1627)菊径和尚により再興。国指定重要文化財「北条早雲像」や「北条氏綱像」「北条氏康像」等の文化財を保存。



惣門。


本堂。江戸時代・寛政年間(1789-1801)建立。


梵鐘。神奈川県重要文化財。豊臣秀吉が小田原攻めの際に石垣山の一夜城で使ったと伝わる。


北条五代の墓。4代氏政の弟、氏規の子孫の氏治が江戸時代・寛文10年(1670)に先祖供養のために建てた供養塔。


宗祇の墓。室町時代の代表的な連歌師の宗祇の供養塔。江戸時代には、芭蕉の師でもあった北村季吟等多くの俳人が訪れた。


本堂裏の枯山水庭園。


■正眼寺
臨済宗。仇討ちで知られる曽我兄弟ゆかりの寺。鎌倉時代・養和元年(1181)に建てられた地蔵堂が前身で、一時期荒廃したが江戸時代・寛永3年(1626)に再興。慶応4年(1868)に明治維新の兵火にあってそのほとんどを焼失。




本堂。国登録文化財。明治37年(1904)に建てられた今村銀行頭取の今村繁三の別荘を昭和7年(1932)に移築したもの。


曽我堂。曽我兄弟を弔う地蔵像を祀るお堂。


曽我堂の近くからの眺め。


槍突石。曽我兄弟が力だめしをしたと伝わる石。


供養塔。曽我兄弟を弔うために建てられた供養塔。


牡丹。


灯籠と山吹。


足湯。境内に足湯のあるお寺は初めて。温泉地だからかな?


■一里塚跡
江戸日本橋から22番目の一里塚跡。




■箱根旧街道石畳
江戸時代・延宝8年(1680)に幕府が旅人の便宜を図るために東海道を石畳の道に改修。改修前は、雨や雪の後はひどい悪路となり、旅人はすねまで泥につかるありさまで、街道に竹を敷き詰めた時期もあったが、毎年敷き変えなければならず、大変な費用や人手がかかった。現在小田原宿~箱根峠~三島宿の旧東海道の一部で石畳が残る。


ここの石畳の道は短い。



石畳を抜けると歩道がほとんどない道を歩くことになる。


須雲川の集落。江戸時代の寛永年間(1624-1644)ごろに作られた集落。街道の維持や旅人の便を図るため一定間隔で集落が作られた。


■鎖雲寺
臨済宗。夫唱婦随で仇討ちの本懐を遂げた浄瑠璃・歌舞伎「箱根霊験躄仇討」で知られる勝五郎とその妻・初花の墓がある。


勝五郎と初花の墓。


初花堂。


寺の入り口にあった霊泉の滝。