『山上宗二記』 茶湯者の覚悟 「濃茶呑ヤウ」 その一考察
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前田秀一 プロフィール
1.ジョアン・ロドリーゲスが見た「濃茶」運び手前
キリスト教宣教師が、茶の湯の見聞録をイエズス会に報告したのは1565年10月25日付ルイス・デ・アルメイダ発信書簡が初見で、厳冬期の長旅による病気療養で25日間世話になった日比屋了珪の茶室における体験についてであった6)。永禄12年(1569)3月、ルイス・フロイスは茶室を清浄で地上の安らぎを与える場であると認め、茶室は在地のキリスト教信者を集めミサ聖祭を捧げるに足る神聖な場所であると報告した7)。
フランシスコ・ザビエル 堺港上陸(1550年)顕彰碑(堺市・ザビエル公園)
天正9年(1581)、日本におけるキリスト教布教状況巡察のため来日したアレサンドロ・ヴァリニャーノは、日本人の新奇な風習として茶の湯が身分の高い領主たちに最も尊敬され、客に対する愛情と歓待を示す作法であることおよび領主たちが自ら茶を点てるために茶の湯を習っていることに注目した8)(23頁)。
「日本では一般に茶と称する草の粉末と湯とで作る一種の飲み物が用いられている。彼らの間では、はなはだ重視され、領主たちはことごとく、その屋敷の中にこの飲み物を作る特別の場所をもっている。日本では熱い水は湯、この草は茶と呼ばれるので、この為指定された場所を茶の湯と称する。日本では最も尊重されるから、身分の高い領主たちは、この不味い飲み物の作り方を特に習っており、客に対し愛情と歓待を示すために、しばしば自らこの飲み物を作る。」
五畿内巡察の後、「日本の風習と形儀に関する注意と助言」と題する在日イエズス会員の「礼法指針書」を著し8)(256頁)、日本でイエズス会員が修道院や教会を建築する際には、「日本の大工により日本風に建築され階下には縁側がついた二室からなる座敷を設け、そのうち一室は茶室にあてるがよい」と記した9)(22頁)。
その成果は、織田信長自らが安土城のおひざ元に土地を手当し、高山右近の献身的な尽力もあって、天正9年(1581)7月茶室を有する立派なセミナリオ(神学校)として実現した9)(15頁)。
内容的には、「茶と称する草の粉末」という表現とその後に銘物として「鉄の五徳蓋置」を挙げている点から推察して日比屋了珪の茶室での体験を報告したアルメイダの報告を引用したものであった。
日本からヨーロッパに茶葉が輸出されたのが1609年、平戸からオランダ船に積み込まれ、バタビアを経て1610年アムステルダムへ運ばれたのが初めてであった10)(155頁)。従って、ヨーロッパ人として茶葉について驚きを持って表現したのはやむを得ない。
ロドリーゲスは、1622年10月31日付マカオ発総長宛書簡で『日本教会史』を著したことに言及し、「私は日本に45年間滞在して、今では最も古参の者となった。・・・私は関白殿の迫害〔天正15年(1587)伴天連追放令〕前後の日本のことについて、今日までのところ誰よりもよく知っており、日本の言語と歴史に精通し、宗教に関しても特に研究したので何人にもまして知っているからである。日本国のことと習慣については、すでに大部分を正確に記述した。・・・特に一言しておきたいことは、私の目的は事実を明らかにすることであって、文章を整えることではない。文章のことは、その名声とともに、他人のために残しておく。」と書いた11)(40頁)。
茶の湯については正確に理解し、その中で第32章から第35章の4章にわたって詳細に書きあらわし、茶の湯の記録書としても高く評価されている。
その一端として、茶葉について高い認識を持っていたことは注目に値する。「通常、茶に四種類、四等級があって、精製の度合いがちがっている。第一のものは最上で、いちばん優れた最初の芽の葉であって、極上(Gocujo)と呼ばれる。すなわち最高級の茶という意味である。それに次ぐ第二のものは別儀(Bechigui)、第三のものは極揃(Gocusosory)、第四のものは別儀揃(Bechiguy sosory)と呼ばれる。これ以下のさらに下等な茶に別の等級があるが、それは問題にされないし、珍重される部類に入らない。ここ数年来、第一級の良質のものの中で、さらに優れたものを精選した。それには名はつけられなかったが、白袋(Xirabucuro)と呼んでいる。」11)(572頁)
「茶の普通の価格は次のとおりである。第一級の極(Gocu)は一カテにつき銀六テールで、別儀は四テール、そして極揃は二テール、最後に別儀揃は一テールである。」11)(574頁)。
本論で対象とするお茶のもてなしのあり方については、「碾かれた緑色の粉末は、上質の漆の小筥(棗)、または同じ用途を持った陶土の小さな一種の壺(茶入れ)に入れる。そして、それ専用の竹製の小匙(茶杓)で、これらの粉末を取って一匙か二匙磁器(茶碗)に入れ、この場合のためにいつも用意してある沸騰した湯をすぐその上に注ぎ、かねてこのために調えてある竹製の小さな刷毛(茶筅)で、優雅に、かつ器用にそれを撹きまぜる。そうすると、緑色の茶の粉末が溶けて粒がなくなり、同じ色をした湯のようになる。このようにして茶そのものを飲む。」11)(586頁)「この普通方法のほかに、特殊な歓待と好意をもって、ある客人をもてなすために、別の特殊な方法が移入された。それを茶の湯(chanoju)と呼んだが、今日では数寄(suky)といっている。」11)(587頁)
数寄の家(茶室)で特別な客人に濃茶でもてなす作法として以下の記述がある。
「戸を少し開き、戸をあけることで客人に入って来てもよろしいとわからせておいて、奥に引きさがる。客人は手と口を洗ってから、再び家の中に入って、新たにまたそこに置かれたものと茶を飲ませるための道具を最初と同様に改めて見直し、ごく静かに各人の席に帰って着座する。家の主人が出て来て、茶を飲みたいかどうかを聞き、客人が礼を述べて飲みたいというと、主人は必要な器物を持って来る。もし貴重な小壺を持っているならば、碾いた茶をそれに入れ、絹の小袋に包んで持って来て、それから袋を取って小壺を置き、磁器(茶碗)を洗ってきれいにし、その磁器の中に竹製の匙で茶を入れる。粉を小匙一杯注いで、「どうぞ皆様方薄い茶を召し上がってください。それは悪い茶ですので」という。その時客人は、それが上等なものであって、濃くして飲むものだと知っているので、濃くするように家の主人に頼む。そこで、主人は十分なだけさらに茶を加えて、その用途にあった器(茶柄杓)で深鍋から湯を汲みとり、たいそう熱い湯を粉の上に注いで、竹の刷毛でかきまわす。このようにしてそれを客人の前の藁座(畳)の上に置く。
客は誰から飲み始めるか、たがいに会釈し合って、最初に主賓からはじめ、それを三口飲んでから第二の人に渡す。こうして皆が飲み終わるまで、つぎつぎに渡って行く。また、初めて壺の口を開いた時には、どのようになっているかを見るために、最初に家の主人が自分に試飲させてほしいと請うことが往々にある。」11)(630~631頁)
客に伺いを立てたうえで要望に応えて濃い茶を点て、参加者の内でも主賓に敬意を表して濃茶を飲みまわすと記した記述は、客をもてなす亭主の心を見事に観察した表現である。この記録は、アルメイダやフロイス、なかんずくアルメイダの報告を引用したヴァリニャァーノの形式的な表現を超えて現実を踏みこんで観察したもので、千利休が大成した運び手前の茶の湯の心を十分に理解した記録として貴重である。
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