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濃茶とミサ 「濃茶呑ヤウ」 考察

2021-02-25 00:22:29 | 茶の湯

『山上宗二記』 茶湯者の覚悟 「濃茶呑ヤウ」 その一考察

詳しくは こちらから

前田秀一 プロフィール

4.「濃茶呑ヤウ」(飲み様) 考察

 『茶会記』の記録(表‐1,2,3)から、総じて濃茶には上質の茶葉を使用し、薄茶に先んじてもてなされた。千利休が茶の湯を大成する過程にあった天正14年および15年の頃には独自のヤキ茶碗と組み合わせてもてなされた。また、利休は茶の湯の空間を客人と相互に敬い、常に、一生に一度の出会いであるように緊張感を持って接する静かな境地とすることを求めた。
 その方法として、伝統的な唐物の道具類を置いて見せる大型の棚や大きな掛け物など設える余地を省いて茶室を四畳半から三畳、二畳に詰め、道具類は茶を点てる時に運び入れる運び手前を創案して点前を見せる侘び茶の基本とした。15)(127頁)
 『山上宗二記』に「茶湯者の覚悟」(茶の湯を嗜む者の心得)が記されており、その中に本論に関わる二条に注目した。3)(92頁)
 「薄茶ヲ建ルカ専一也、是ヲ眞ノ茶ト云、世間ニ眞ノ茶ヲ濃茶ト云ハ非也、濃茶ノ建様ハ手前ニモ身モカハズ、茶ノカタマラヌヤウニ、イキノヌケヌヤウニ建ルカ習也」
 「濃茶呑ヤウ」
 濃茶は、茶葉の固まらないようにともかく一生懸命かき混ぜることが肝要であり、その点、薄茶の場合は点前の作法の美しさを表現することに意義があり、むしろ薄茶の方が真の茶の湯であるとした。
 濃茶については、むしろその飲み方に意義を見出していた。

 

南宗寺 実相庵 松孤軒 濃茶席(平成24年4月27日)

 ロドリーゲスは、秀吉による伴天連追放令発令(1587年)前後の日本については誰よりもよく知っていると自負し、『日本教会史』に著した濃茶に関する記録は大変貴重で、特に、濃茶の飲み方については重要な手掛かりとなる。
 「客は誰から飲み始めるか、たがいに会釈し合って、最初に主賓からはじめ、それを三口飲んでから第二の人に渡す。こうして皆が飲み終わるまで、つぎつぎに渡って行く。また、初めて壺の口を開いた時には、どのようになっているかを見るために、最初に家の主人が自分に試飲させてほしいと請うことが往々にある。」
 濃茶は、一座の客人を自慢の高級茶葉でもてなすことを目的としており、ましてミサにおけるぶどう酒のように聖なるものとの機縁を込めた儀式としてではなく、客人を主体にその求めに応じて自慢の茶をもてなす謙譲の形として記している。
 また、飲む段にあっては、その順番は主賓からと一座の客の間で暗黙の了解があり、主賓の後は、相互に同席の客人に礼を尽くしながら順番に飲みまわしていく互礼の形式として著しており注目に値する。茶葉を保存している壺の口開きをする場合は、主人が客人に先立って試飲する許しを請うこともしばしばあった。
 1596年、すでに司祭の資格を取得していたロドリーゲスは11)(35頁)、ミサにおけるぶどう酒の飲みまわしとの共通性を示唆することなく茶の湯の作法としてのみ記述した。
 利休の高弟七人衆(利休七哲)の中には、高山右近をはじめキリシタンとなった大名が4人もいたため利休のキリシタン説が話題にされているが、ロドリーゲスに先立って日本での宣教活動に取り組んでいたルイス・フロイスは、著作『日本史』の中で「宗易はジュスト(高山右近)の親友であるが、異教徒である」と断定的に述べ21)(239頁)、ロドリーゲスとともに、当時、織田信長や豊臣秀吉の茶頭として社会的地位が高かったにもかかわらず異教徒の千利休について触れることはなかった。
 一方、『松屋會記』や『宗湛日記』にも茶の飲みまわしに関する記述がある(9頁参照)。中でも特異なのは、一座の人数が多い場合は、飲みまわしの順番をくじ引きで決めること
もあった(『宗湛日記』:天正15年1月3日、『松屋會記』:天正17年9月24日朝)。これは、一座の客人の数が多いための手っ取り早い対処策として講じられたものであった。
 増淵宗一氏は利休居士宗易が天正15年5月吉日付川崎梅千代に宛てた伝書「利休客之次第」から「茶を飲むに、上座ののみたる、其のみ口をちがはぬように、其次々の人も其ののみ口よりのむ事肝要にて候」を引用して濃茶の飲みまわしの背景を以下のように説明している。2)(132頁)
 「中世、利害を共通にする農民などが神前あるいは一座でお神酒あるいは神水を飲みまわし連帯感、つまり一味同心の感情を喚起し一揆などを起こすことがあった。確かに、濃茶の飲みまわしには、小間同座での連帯感や親密感を強める意図があったかもしれない。」
 中世の頃、一揆が社会的に許容され、多くの人々が共同で飲食して一体感を呼び起こす「一味同心」の風潮が強かった。
 自治都市・堺にあっては、会合衆と呼ばれた有力者によって治められており、その顔触れは紅屋宗陽、塩屋宗悦、今井宗久、茜屋宗左、山上宗二、松江隆仙、高三隆世、千宗易、油屋常琢、津田宗及など10人衆で、高名な茶人を含んでいた。15)(109頁)20)(125頁)
 これら会合衆は、利害の異なる諸集団を一つの都市としてまとめる調停機能を持ち、さらに外交・自衛組織となり幕府や守護と関わる役目があり相互の信頼関係の構築と結束が求められる立場にあった19)。茶の湯を通して一味同心の環境づくりには腐心していたと考えられる。
 従って、日常的に身近なところで戦乱の絶えない戦国時代にあって、茶の湯の席においては、上質の茶葉を使用して手間と暇をかけ丹精をこめて点てられた濃茶の賞味は貴重な機会であり、一つの茶碗から相互に回して飲む方式によって、その場に居合わせた同志相互の信頼関係を築き確かなものとしようとしたと考える。

 

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