約320年前の12月14日が赤穂浪士討ち入りなので、我が街笠間市の笠間藩と赤穂浪士関連で調べてみた。
浅野家と笠間藩との関わりは、戦国武将の浅野長政(ながまさ)が慶長2年(1597)から翌年の慶長3年(1598)までの2年間浅野家として初めての笠間藩主となり笠間を治めたことに始まる。
その24年後の元和8年(1622)に浅野長政の三男である浅野長重(ながしげ)が真壁藩から笠間藩に転封となり寛永9年(1632)までの10年間、その後浅野長直(ながなお)が寛永9年(1632)から正保2年(1645)までの13年間藩主であった。
浅野家は3代にわたり、延べ25年間笠間藩主を務めたことになる。
浅野長直は、その後赤穂藩に転封し浅野家初代の藩主となる。
浅野長直は、松の廊下事件の浅野内匠頭長矩(ながのり)の祖父であり、浅野内匠頭長矩は赤穂藩浅野家の第3代目の藩主である。
赤穂浪四十七士のうち、笠間藩時代からの浪士は3人おり、吉田忠左衛門(よしだちゅうざえもん)、小野寺十内(おのでらじゅうない)、堀部弥兵衛(ほりべやへえ)。有名な堀部安兵衛は、この堀部家の養子で旧姓は中山安兵衛だ。
ちなみに、大石内蔵助良雄(くらのすけよしお)はその曽祖父にあたる大石良勝(よしかつ)が浅野長直当時の家老になり、その後大石家は代々浅野家の家老職に。また、大石家の家老は、代々内蔵助を名乗っていたようだ。
笠間には大石良勝及び大石良欣(よしたか、大石内蔵助良雄の祖父)の屋敷跡がある。
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