鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

=天理教と聖書の奥義=15    ~聖句主義方式の生成状況~

2023年05月15日 | 天理教と聖書の奥義

 

 

聖句主義方式では「究極の解釈(教理)はこれだ」と結論できませんし、行いません。
 
その状態で、スモールグループを中心にして聖句吟味を続けます。
 
変な方式に見えますが、これは歴史のなりゆきとしてできました。
 
+++
 
その状況は、「ルカの福音書」の著者ルカが『使徒行伝』という書物に記しています。
 
これは本来「ルカの福音書」の後編としてルカは書いたものでした。
 
だが後の聖書編集者たちが、独立の書物として新約聖書に収録しました。
 
それは「ヨハネの福音書」のすぐあとに収録されています。
 
 
@@@
 
イエスは十字架刑で殺され、墓に葬られた後、復活して弟子たちに現れました。
 
そして、「エルサレムに留まるように」と命じて天に昇っていきました。
 
ここでいう弟子たちとは、いわゆる11使徒ではなく、広くイエスを信じる人々を意味しています。
 
その数は200人ほどいました。
 
 
+++
 
彼らは、エルサレム神殿の敷地のすぐ外側にあった大きな部屋に集まって祈っていました。
 
これは後に「マルコの部屋」と呼ばれます。
 
そこであるとき異変が起きました。
 
大きな爆発音とともに、弟子(信徒)たちに聖霊が下りました。
 
聖霊を霊に受けた弟子たちの口から奇妙な言葉があふれ出ました。
 
後に「異言(いげん)」と呼ばれるその言葉は、語っている当人もその意味がわからない言葉です。
 
 
+++
 
エルサレム神殿には、いつも各地から多くの人々の参拝に来ています。
 
爆発音に驚いた彼らは、「マルコの部屋」に飛び込みました。
 
そして、各信徒が彼らの各々の国の言葉で(当人は意味もわからず)ベラベラしゃべっているのを見た。
 
「信徒たちは酒に酔っ払っているのだろう」と彼らは評しました。
 
 
+++
 
その時、使徒のリーダー格の一人、ペテロが立ち上がって事態を、旧約聖書の聖句(『ヨエル書』と『詩編』の中の)を解読することでもって、説明しました。
 
人々は思いもかけない聖句解読を聞いて、目を開かれました。
 
そして、このような解読が出来る出来ることを切望し、弟子たちの集団に加えて欲しいと願いました。
 
使徒たちは受け入れました。
 
このようにして新参加者が出来上がりましたが、その数は、その日だけで3000人だったとルカは記しています。
 
その後も噂を聞いての参加者は続き、エルサレムだけでも3万人くらいいたと推定されています。
 
こうして出来た人類史初のキリスト教会は、「初代教会」と呼ばれています。
 
 
+++
 
だが使徒たちが彼らをどうしたか、は、ルカは一言も記述していません。
 
けれども、米国南部でサザンバプテスト教会を体験した筆者は、それを推定できます。
 
それは、初代教会の方式を、後述する迫害に耐えて、そのまま継承していると言われていたからです。
 
だから、サザンの教会から初代教会で使徒たちがおこなっていった、新参加者への処遇が推定できるのです。
 
 
@@@
 
彼らはこのシリーズ(=天理教と聖書の奥義=)の13に示したように、
人々を数人のスモールグループに分けたでしょう。
 
そのうちの一人の家で聖句を自由吟味させたでしょう。
 
このグループは後に「家の教会(house church) とも呼ばれます。
 
今回は、初代教会の出来方とその方式について、序論的なところを話しました。
 
 
(続きます)
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=天理教と聖書の奥義=14   ~聖句と教理~

2023年05月13日 | 天理教と聖書の奥義

 

 

聖書に記されている言葉そのものを「聖句」といいます。
 
 それを解釈した言葉を「教理」といいます。
 
 教理は英語では、creed とか doctrine とかいいます。
 
 聖句はscriptureないしはBible verseです。
 
 
+++
 
人は聖句を読むと、それが何を言っているのかを理解しようと欲します。
 
聖句には、啓示や出来事を個別的に記述したりする文が多いため、そのままでは理解がむずかしい。
 
そこで、その思想を「要約して」理解しようとします。
 
解釈してできた文が「教理」です。
 
 
+++
 
前掲したヨハネの福音書のなかの聖句~
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
「創造神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。
それは御子を信じるものが、ひとりとして滅びることなく、
永遠のいのちを持つためである。」
 
  (ヨハネの福音書、3章16節)
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
~は、その一例です。
 
これはヨハネ自身の聖句解釈で、教理(神学理論ともいう)です。
 
 
+++
 
だが、解釈(教理)はいろいろに出来ます。
これが絶対的に正しい、正統な解釈である、との判断は、人間には難しいです。
 
それを吟味するために、人は、もとになっている聖句にもどります。
 
聖句に照らし合わせて、吟味するわけです。
 
 
 
@@@
 
そのとき、行き方がわかれます。
 
最終的な権威を聖句そのものに置く、というのがそのひとつです。
 
これが聖句主義です。
 
サザンバプテスト教会では、これをBiblicismといいます。
 
Biblic(聖句的)に『主義』を意味するismをくっつけた言葉です。
 
 
+++
 
 
「そんなことをしていたらいつまでたっても生活に活かすことは出来ない」
「教会運営のルールも定まらない』と、とにかく一つの解釈を正統と定めてやっていこう」
 
        ~という思想も生まれます。
 
これが教理主義です。
 
英語では、creedalismとかdoctrinismとかいいます。
 
+++
 
歴史的に見ると、世界最初の教会である『初代教会」では、聖句主義でした。
 
(続きます)
 
 
 
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=天理教と聖書の奥義=13    ~聖句解釈自由とスモールグループ~

2023年05月10日 | 天理教と聖書の奥義

 

 

話はさらに飛んで、サザンバプテスト地域での信徒活動を紹介します。
 
 
サザンバプテストも教会を形成しています。
 
日曜日(聖日)には礼拝も行っています。
 
だが日曜日の早朝8時半頃、個々の信徒はまず自分の選んだスモールグループの小部屋に集まってきます。
 
グループの人数は数人です。 多くても十人を超えません。
 
そのための小部屋が、教会には沢山作ってあります。
 
 
+++
 
彼らは、前の週に提示されたテーマに沿って、まず、聖句の個人探求を行います。
 
個人の探求自由原則のもとでやります。
 
各々の聖句解読を小グループの場に持ち寄って、また相互に自由に吟味しあいます。
 
 
 
@@@
 
グループにはリーダーが一人いて、議論をリードします。
 
彼は決められた時間がたつと、議論を閉じますが、その際、結論じみたことは一切口に出しません。
 
そして、議論の内容を鑑み、次週の小グループ会議のためのテーマを提案します。
 
 
+++
 
例えば「創世記」1章に創造神が「我々に似せて人を作ろう」という聖句があります。
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「創造神は仰せられた。
『さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、我々に似せて』」
            (創世記、1章26節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
 
~この「似せて」とは「具体的にどのような内容を言っているのか、次回吟味しよう」とかいって会を閉じます。
 
メンバーはおのおの、自宅に持って帰って、他の聖句とつなぎ合わせて個人解読を始めます。
 
そして、次の日曜日(聖日)に各々が探求した結果の見解をもって
スモールグループの小部屋にやってきて自由に議論をします。
 
彼らはこの作業を年中繰り返しています。
 
 
 
@@@
 
スモールグループが終わると、一同、礼拝堂に集まり、全員礼拝をします。
 
賛美歌を歌い、牧師はメッセージ(説教)をします。
 
この点はプロテスタント教会と同じです。
 
 
+++
 
 
ただし牧師はそのとき、根拠に用いている聖句箇所を、正確に示しながら説教します。
 
「マタイ5章の11節によれば・・・」「ルカ8章7節では・・・」と言ったような言葉がボンボン出てきます。
 
筆者は「よくまあこれだけの聖句を知っているものだ・・・」、と感心ながら聞いていました。
 
 
+++
 
会員は礼拝後にその説教を、グループ仲間と自由に評価したりもます。
 
「バーリー(牧師の名を敬称無しのファーストネームで呼びます)の話のここのところはこういう解釈も出来るんでは?」
 
「まあ、その点は彼の限界でもあるな・・・」
 
        ~といったようにです。
 
 
 
@@@
 
 
だが教会員の行動はやはりスモールグループが中核です。
 
彼らは全体礼拝後、通常、揃ってどこかのレストランにいってランチをします。
 
その際、親しいスモールグループと一緒になって食べることもよくあります。
 
そして、スモールグループメンバーでそのまま、夕食までともにレジャーを過ごします。
 
夕食もともにすることもある。
 
 
+++
 
 
スモールグループメンバー間の親しさは、おそらく、血縁関係の親類以上です。
 
親しさの源の一つは、入念に吟味した世界観を互いに共有することにあると思われます。
 
 
     (続きます)
 
 
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=天理教と聖書の奥義=12    ~イエスが弟子の足を洗ったのは~

2023年05月09日 | 天理教と聖書の奥義

 

 

 天理教の教義は、聖書と同じ創造神かあるいはその称号を使うことを許された天使が
中山みきに啓示されたものではないか。
 
~こういうと、多くのクリスチャンから「異端!」という声が飛んでくるでしょう。
 牧師さんは「鹿島春平太の書くものなど読むな!」と信徒に指令なさるでしょう。
 
+++
 
だが、話は飛びますが、それは、キリスト教の真の姿を知らないからです。
 
牧師さんたちは、「教理主義」の方法だけででもって、キリスト教を学んでおられるからです。
 
 
@@@
 
話は飛びます。
 
教理主義の反対語は「聖句主義」です。 
 
英語ではバイブリシズム(Biblicism)といいます。
 
この方法に関する知識が、人々に伝わっておりません。
 
 
 
@@@
 
この方法を知るのは容易ではありません。
 
説明するには、歴史からとらえ直す必要があります。
 
 
+++
 
 
さらに話は飛びます。
 
イエスによる、いわゆる「最後の晩餐」の時点にさかのぼります。
 
 
「ヨハネの福音書」を見ましょう~。
 
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「イエスは、父が万物を自分の手に渡されたことと、ご自分が父から来て父に行くことを知られ、
夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいをとって腰にまとわれた。
 
それからたらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふきはじめられた」
 
           (ヨハネの福音書、13章3-5節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
 
~ドラマチックな場面ですが、ここでのイエスの真意は、キリスト者を自称する人々にも、正しく理解されていません。
 
 
イエスはここで、弟子の足を洗っています。
 
そして、「師匠(先生)である私がこうしたように、諸君(弟子たち)も
互いに足を洗いあいなさい」といっています。(ヨハネの福音書、13章12節~14節)
 
 
@@@
 
 
この言葉の奥義は「君臨するな」です。
 
どこで? 教会で、です。
 
教会などこの時点ではまだこの世にありません。
 
だが、イエスはすでに信徒の集まり、すなわち、教会(初代教会)を「自分の手で」作ることを決めているのです。
 
+++
 
実際、彼は死んで復活した後に、200人に上る弟子たちに「エルサレムに留まりなさい」と命じています。
 
そこで「聖霊のバプテスマ(生霊が人の霊の内に入ること)」を与え、
弟子たちに奇跡を起こさせ、エルサレムの人々を信徒にします。
 
イエスがこれをしなかったら、一日で3000人もの人々が弟子たちの仲間に加わること(教会が出来ること)など、起きえません。
 
初代教会はイエスの主導でできているのです。
 
 
@@@
 
 
 
だがその教会ができれば、弟子たちは先達として、入会者に敬われるでしょう。
 
放っておけば、弟子たちは入会者に対して指導者・上位者として君臨するようになるでしょう。
 
これは人間社会での自然な成り行きです。
 
だがイエスは、わざわざ弟子の足を洗ってみせて、「君臨するな」と強く戒めているのです。
 
 
 
@@@
 
では、弟子たちは新会員に対してどうしたか。
 
後述する理由によって、その記録は覆い隠されていて、歴史記録として見ることは困難です。
 
 
+++
 
だが、その活動を、度重なる迫害に耐えて、こんにちまで受け継いできている人々が現存します。
 
その最も多くの群れは、米国南部にサザンバプテストと呼ばれて、存続しています。
 
(信徒数は、推計4000万人です)
 
 
筆者鹿嶋は、その現地に出向いて群れへの参加を許されて一年間居住しました。
 
実際にその活動を体験したので、それを言葉で知らせることが出来ます。
 
 
 
+++
 
この方式は、書物で読んだだけの人が説明しても、聞くものは理解できません。
 
実地で体験するのがベストですが、少なくとも体験したものによる説明が最低限必要です。
 
 
これから筆者はその体験談をお伝えしようと思います。
 
話は長くなります。
 
 
(続きます)
 
 
 
 
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=天理教と聖書の奥義=11    ~なぜ幕末の日本に~

2023年05月04日 | 天理教と聖書の奥義

 

 

「福音は地球を西回りする」といわれてきました。
 
エルサレムに始まったそれは、小アジアからローマへと、西方向に伝わりました。
 
さらに、英国に伝わり、その後、アメリカ大陸に伝わりました。
 
+++
 
不思議に、主要な流れは、インドにも中国にも伝播しなかった。
 
東回りには伝わらなかったのです。
 
 
@@@
 
そして、ヘボン式ローマ字で有名なヘボン先生が、米国から日本にやってきて邦訳聖書をつくります。
 
これも米国から西回りしてきたとみることも出来ないことはありませんが、
これによるプロテスタントキリスト教は、すぐに、倫理宗教に堕してしまいます。
 
キリスト教風に愛は唱えますが、愛の道徳宗教で停滞してしまって今日に至っています。
 
ルーク唐沢が「ニッポンキリスト教」と攻撃しているそれですね。
 
 
 
 
@@@
 
 
「天理王」という認識は、それを見越して御使い(天使)が、中山みきに啓示した可能性があります。
 
具体的にはそれは、幕末の天保時代に、日本列島の奈良という地で、中山みきに対して与えられました。
 
 
 
<エホバ天使>
 
天使には、創造神の代理として働くものがいます。
 
旧約聖書には、冒頭に「神であるエホバ」という語がでてきますが、
その後に出てくる「エホバ」は、そういう「修飾語無し」のものがほとんどです。
 
この「エホバ」の語が、ヘボン訳の「文語文聖書」以外では、「主(しゅ)」と記されてしまっているのでややこしいのですが、
正しくは「エホバ」で、これは「創造神の称号」です。
 
ある天使が、この称号を使って(自らに冠して)、創造主の代理として、はたらいています。
 
律法などは、この天使がモーセに与えたものです。
 
(このあたりの聖書解読は、アマゾンの『エホバはイエスの父ではない』鹿島春平太、Kindle電子ブックを参照して下さい)
 
 
+++
 
日本は、アジア大陸と日本海に隔てられた極東の孤島です。
 
エホバ天使が、この島国に、福音の奥義を、ズバリそのもので、啓示した可能性を、鹿嶋は感じます。
 
「南無天理王の命」とだけで、余計な解釈で改変しがたいようにして、中山みきを選んで、
啓示したのではないかと思うのです。
 
 
(続きます)

 

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